百一001解題)秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ

秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ
『後撰集』秋中・三〇二(天智天皇:てんぢてんわう)(男性)

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解題

 「天智天皇」作となっているが、「秋田刈る仮庵を作りわがれば衣手寒く露ぞ置きにける」『万葉集』巻十(よみ人しらず)からの「本歌取り」・・・だが、日本の古文関係者(書籍・学校・センセ)は総じてこれを「本歌取り」と呼ばぬようである。理由は定かではないが、一応推測すれば、次のような説があり得るだろうか・・・
曰く
1)「本歌取りは、後代の作者が、既に詠まれていた昔の誰かの歌を、我がものの如く拝借してちゃっかり自らの名を上げるために行なうもの」だから、「天智天皇」自身がそんな作為をもってこの万葉歌を自作と主張したのならそれは「本歌取り」だが、後代の『後撰集』の編者が勝手にそれをやっただけだから天皇に罪はなく、この歌は彼による「本歌取り/盗古歌」ではない。
・・・しかし、これでは、他社の企業秘密をスパイ社員に持ち出させて自社で盗用しておきながら、その所業を責められた企業が、「あれは我が社がやったことではなく、一部の社員の勝手な暴走である・・・が故に我が社による"機密取り"ではない」と言い張るのと変わらない:行為者が誰であろうと、責めは受益者が負うものなのである・・・ので、論理的(or倫理的)にあり得ない(orあってはならない)説であろう。
2)「本歌取り」は、「本歌に含まれる語を取る」ものではなく、「本歌の句をそのまま引き継ぐ」ものである。この歌の場合「秋田刈る」は「秋の田の」に、「仮庵を作り」は「刈り穂のの」に、「衣手寒く」は「我が衣手は」に、それぞれ微妙に変えられている。が故にこれは「本歌取り」ではない。
・・・これも姑息逃げ口上であって、この説が通用するなら、学校の先生が生徒の小論文を添削した後でそれを自作論文として発表しつつ、「ところどころに私自身の加筆・修正を加えてある・・・ので、これは生徒の"論文取り"ではない」と強弁するのに近い。ファミコンの模造品にロゴだけ「(NINTENDOならぬ)MINTENDO」と銘打って売るインチキ商売のようなもので、原作者の権利擁護に敏感な現代社会が最も厳しく処断するタイプの剽窃行為・・・到底、認められる説ではなかろう。
3)畏れ多くもこれは天皇の御詠なのだから、他者の作品を盗んだ、という言い方は不謹慎・・・なのでこれを「本歌取り/盗古歌」とは呼ばない。
・・・葵の御紋の入った水戸黄門印籠だの、皇室の菊花紋章だのといった、形ばかりの錦の御旗担ぎ出せば万民が平伏するであろう、と考えるほどの愚か者が、政治の世界はともかく、文芸界にそれほど多いとは信じたくないので、この説もあり得まい(というか、あってもらっては困る)。権威者の名を借りて本質的に不当な行為の正当化を図るのは、人間の行なう悪事の中でも最も卑劣な事の一つなのである。もしこんな考えがチラとでも頭に浮かんだ末の「本歌取り・・・と言うのはやめとこか」であれば、そんな感覚の持ち主には、学術・論理について口を開く資格は微塵もないし、そんな程度の惰弱な論理・倫理の持ち主では、この筆者のこの先の文章に接したとて、その内容を納得・吸収して自らの知性の錬磨に役立てることはおろか、その意を追従確認することすら不可能であろう・・・故に、この時点でそそくさとご退散いただく方が無難である。
 ・・・などと、理由の方はよく解らないものの、いずれにせよ一般に「元歌一部改作」みたいな不自然な言われ方をして「本歌取り」とは呼ばれていないという不思議な状況を引きずる平安前期の「本歌取り」(少なく見積もっても、過去の類歌の情趣を下敷きにした「本説取り」)であり、作者名の勝手な変更まで伴っている点が、古来の日本の文芸状況を考える上で興味深い作品ではある。
 元来「詠み人知らず」だったものを、勝手に別の作者名(たとえそれが天皇でも)に変更してよいものか、というのは、著作権意識のある現代日本人なら当然抱くであろう感覚だが、古典時代の和歌世界では、作者不詳の作品に対し、「あの時代の秀歌なら、例の有名なあの詠み手の作品、ってことでよかろう」ぐらいの恣意的な判断で平然と自分のお気に入りの誰かの名を宛がうという芸当をやっていた。端的に言えば、古典時代の日本では、原典尊重意識が極めて乏しかった=オリジナリティに対する敬意が異常に低かった、ということである(・・・「過去形」で語るべき事実ならまだよいが・・・)。このことは、日本の古典と向き合う時にまず第一に押えねばならぬ厄介な事実である。一例として、『万葉集』に於いては「よみ人しらず」だった多くの作品が、後代、「伝 柿本人麻呂 作」や「伝 山部赤人 作」として紹介されている場合も多く、それら数多くの秀歌が彼らに帰せられたが故に、伝説の歌人としての彼らの威信が更に高まった、という相乗効果も確かにあったのだ。
 この原典/原著作者への敬意なきすり替え芸は、しかし、当然逆方向へも作用する。何の魅力もない凡作(やってる当人としては自信作なのであろうが)に対し著名な歌詠みの名を勝手に宛がうことで、その威光を身にまとおうとする不届きな連中の書き散らした駄作もまた(韻文・散文ともに)、日本の古典世界には極めて多く残存しているのだ。そうした代物の中身はまったくので(語学学習上はともかくも)文芸的には読んでやるにも値しないが、時の重みを身にまといつつ現代にまで残っている以上、「古文は古文」、貴重品なので、今更抹殺する訳にも行かないし、訂正の余地もない。こうしたゴミカスにも等しい単なる古文書に対してまで、「時の風化作用に堪えて生き残ってきた優れた古典文学作品」に対するが如き恭しき尊敬の念を向けていたのでは、文芸に対しても真実に対しても、自らの審美眼を曇らせるばかりである・・・そんなことになるぐらいなら、日本の古文などいっそ最初から読まぬ方がまったくマシなのである。なにせ、西欧の古典(古代ギリシア・ローマ神話や新・旧約聖書など遠い昔から現代に至るまで鑑賞・評価・引用が絶えることなく続いている文物)が現代にも脈々と生きているのとは異なり、日本の古典はそうした引き継がれ方をしておらず、「知らねば現代の教養人たり得ぬ」と言えるような西欧古典的位置付けを有している、とは到底言えぬのだから、読んで毒に染まったりハダカの王様の美装に賛嘆する嘘誉め体質を自慢げにひけらかす阿呆日本人に成り下がるぐらいなら、まったく読まずにおく方が衛生無害というものだ。西欧の古典は「古来引き継がれてきた一級品」なるが故に「古典」なのに対し、日本の古文の多くは「古い時代に書かれたものが今に至るまで古文書として残っている」が故に「古典」であるに過ぎない。かたや「classic works・・・選び抜かれた第一級の作品群」、かたや「classical documents・・・古い時代に書かれた文書」と、まるで位置付けの違うものなのだから、よほど選別的な鑑識眼を働かせつつ心してかからないことには、ただ「古くからある」というだけの粗悪な二流品を「日本が誇る伝統の美」などと言い張ることで、自らの知的劣弱性を露呈するばかりか、日本国そのものの文芸的品位を貶めることにも直結するのである。「古典読み」を試みる前にまず、真のclassicsと単なるclassicalとの玉石混淆世界に自分は足を踏み入れるのだ、という冷厳なる事実を直視し、自らの文芸的選別眼を以て、本当に良いもの/ただ古いだけのダメなもの、の識別を一瞬たりとも怠らぬ覚悟ある勤勉性を保ち続けていただきたい。それだけの勤勉さが保てないのなら、最初から日本の古典など何一つ見ずにおくほうが、本当に、身のため、世のため、日本のため、である。
 歌の話に立ち戻ろう。万葉時代の「本歌」は、寒さの忍び寄る晩秋の農作業を、粗末な小屋の中で一人黙々とこなす農夫の(恐らくは、妻と別れての)辛く寂しい心境を切々と歌ったもの。それが平安前期の『後撰和歌集』(『古今和歌集』の約半世紀後、950年代に成立した第二の勅撰和歌集)に収載されるや、「切ない農民の慨嘆」が「天皇の"自然派"御詠」に化け、語尾もまた「あぁ、まだ秋だと思っていたのに、気付けば袖には夜露が降りているよ・・・(辛いなぁ、寒いなぁ、早く妻の待つ暖かい我が家に帰りたいなぁ)」という「気付きの"けり"」は露と消え、「詠嘆の"つつ"」(『古今集』時代に盛んに用いられた修辞法)へと付け替えられて、「作りが粗い小屋なので、漏れ来る雨露で袖を濡らしつつ、我、ここにあり・・・なぁーんちゃって・・・あはは、たまにはこういう野趣に富む気紛れな宿りもよかろうぞ」へと化けたりする。
 ・・・と、背景事情のあれこれを高いところから俯瞰する二十一世紀著作者的視点から見下ろせば、原典への敬意の低さや、下々の民の心を軽ーい詠嘆の「つつ」で塗りして澄まし顔の平安貴族の無情性が、何とも嫌味に響く歌にも感じられる・・・が、昔の人・事を、高いところから概観するつもりなら、この際もう一歩踏み込んで、この歌を『小倉百人一首』に選んだ藤原定家の事情についても考えてみるのがよかろう。
 藤原定家(1162-1241)は、武士世界初の政治的実力者の平清盛専横で京都から福原に遷都が行なわれた(1180)年には18歳の青春真っ盛り。源平争乱、平家滅亡、鎌倉に武家政権成立、という平安貴族社会終焉の激動期を生き、80歳で大往生を遂げた「最後の平安歌人」とも言うべき人。江戸時代までの仮名表記の手本となった所謂定家仮名遣い」の確立につながる平安文物(『土佐日記』・『源氏物語』)の書写・注釈書作りに精力的に取り組んだのは、去り行く貴族社会へのノスタルジア(郷愁)か、はたまたレクイエム(鎮魂)か・・・。
 そんな定家が理想とした和歌のスタイルは「有心体」。文芸用語の常として、明確に定義はできぬものの、「寂しい情景」を前に置き、「寂しい心情」を背景に読み取らせるために、敢えて「寂しい」とは言わぬ作歌技法もその一特徴・・・そうして見れば、この「万葉歌の平安調改作」、鎌倉期にあって古き良き平安の昔を懐かしみつつ「叙景の中の叙情」を好んだ定家には、秀歌百選の冒頭を飾るに相応しい一作とも感じられよう・・・万葉の世の農夫の物悲しさを、平安の世の非叙情性のオブラートで包んだ改作のフィルターを通して賞味する資格が、鎌倉初期に「有心」を唱えた最後の平安歌人藤原定家には、確かに、あったのである。
 因みに、(この文章の筆者の考える)定家の代表歌は次の歌:
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
  (今、私は、平安時代の『源氏物語』の中で都落ちした光源氏が流れた先の、須磨の浜辺に立っている・・・が、どこを見渡してみても、作品中で「春・秋の花、紅葉の盛りなるよりも、ただそこはかとなう繁れる陰どもなまめかし」などと書かれたような風情ある景色は見当たらず、さびれた小屋の上に、寂しげな秋の夕陽が影を落としているばかりである)
・・・いかがであろう、なんとなくこの歌に、通じるものがあるまいか?
 かくて、後代の茶の湯・俳諧の「わび・さび」にも通じるこの愁いを含んだ叙景詩とともに、藤原定家目利きで選りすぐられた平安秀歌の珠玉の百選が幕を開ける。

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