百一004解題)田子の裏にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

田子の裏にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
『新古今集』冬・六七五(山部赤人:やまべのあかひと)(男性)

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解題

 元歌は『万葉集』(巻三・三一八)「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽高嶺に雪は降りける」で、言葉遣いが異なる。『小倉百人一首』に収められた形は、その生みの親藤原定家も撰者の一人だった鎌倉初期の第8番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』に収録された時のもの。
 『新古今集』は、その名が示す通り、日本文学史の主役の座を漢詩から和歌(短歌)がもぎ取る契機となった初の勅撰和歌集『古今集』の後継者たることを明示的・意志的に目指したもので、その『古今和歌集』(905)と『万葉集』(759頃)にこの『新古今和歌集』(1210~1216頃)を並べて「三大和歌集」と呼ぶのが日本文芸界のお約束。
 1192年の鎌倉幕府成立に見る通り、既に貴族社会は終焉を迎え、和歌も爛熟期に至り、新たな息吹が生じる余地はもはや乏しかった。過去の名歌の「本歌取り」の異様なまでの盛行にも、その閉塞感は濃密に漂っている(・・・やる事がなくなって過去の昭和の懐旧番組ぐらいしか見るべきものがない平成日本のテレビ事情に似ていないでもない・・・)。そんな中、平安の世に栄えたこの文芸形態を集大成しようという執念にも似た十四人の寄人/六人の編者たちの営々たる(和歌所の設置から最終完成形成立まで実に15年以上を要した)努力は、平安文芸の華たる和歌の最後の大輪の花として『"新"古今和歌集』の名に恥じぬ勅撰和歌集へと結実した。かつての貴族文化華やかなりし頃に成立した和歌を本歌としてその残り香を自作歌に織り込んでの重層的イメージ構成を目指す作品が大変に(些か鼻につくほどに)多いのは、一面では哀しき現実逃避の露れではあるが、三十一文字の小宇宙の中に、かつてどこか別の場所で見た夢の情景をも巻き込んだ奥行きある世界を展開せんとするその「物語性」の濃密さは、後代の日本文芸界(特に、近代浪漫主義)に少なからぬ影響を及ぼした、とされる。
 その新古今撰進勅命を出したのは、あの「後鳥羽上皇(第99番歌の作者)」である・・・この名にピンと来ぬ人は、<備前則宗らの刀工に鍛えさせた刀に自ら菊花の紋様を焼き入れしたという、伝説の名刀「菊一文字」の生みの親>と聞けば何か感じるであろうか?・・・それでも響くものがないようなら、「幕末の世を駆け抜けた新撰組の沖田総司」では如何であろう?・・・貴族社会が滅び行く中、古き良き時代への後鳥羽上皇憧憬が『新古今和歌集』を生み、台頭する武家勢力への対抗意識が「菊一文字」を生んだ:前者は大輪の花咲かせ、後者は儚い徒花と散ったが。・・・その意をんだ小説家司馬遼太郎は、名作『新撰組血風録』の中で、二十代半ばで結核により世を去ることになる哀しき運命を背負った沖田総司の手に「菊一文字」を握らせたのである。新撰組一番隊組長にして撃剣師範の沖田にとって、刀は観賞用の美術品ではなく、消耗品の実戦道具であるから、美術館の陳列棚に飾られるに相応しい天下の名刀「菊一文字」を、沖田総司が振り回す道理もない、という現実を百も承知で、そう書いたのである・・・何とも「新古今的」な話ではないか。物語性とは、こういうのをいうのである。クソREALISMだの証拠主義だのといった無粋なフィルターの粗雑な目を、ペロリと舌出してすり抜けた先に、純化された精微なるエッセンスの形でキラリと光る砂金のような物語を前にして、「現実にはそれはあり得ない」などとは、物を語るにも口をきくにも値せぬ・・・の日本には、この種の「口をきいても無駄、無意味ないちゃもん付けて来るだけの馬鹿だから、相手にするこっちの口まで腐るばかりで、何か言っても言った分だけ丸丸、損!」という連中への蔑称として「口惜し(unworthy of any word of mouth)・・・朽ち惜し(alas, my mouth rots by saying anything about them)」なる古語が存在した・・・英語世界には「Don’t cast pearls before swine.」というのがある。「豚に真珠を投げるな。価値がわからぬから有り難がらぬばかりか、攻撃されたと勘違いして怒って突進してくる連中なのだから」という戒めである・・・現代日本には・・・あ、やめとこ、言うだけ丸損、豚に真珠だから。
 話を下世話な大衆批判からまっとうな文芸史に戻そう。
 『万葉集』は、天皇・防人・農民と、万人の目と心に映じた心情・光景を、短歌(大部分)・長歌(265首)・旋頭歌(62首)・仏足石歌(1首)の形態へと素直に詠み込んだ、現存する最古の和歌集(約4500首)で、その歌風は「ますらをぶり」(男性的)と称される(・・・江戸時代中期の国学者賀茂真淵の造語で、彼とその一派はこの歌風を好んだ)。『古今集』収載の1111の和歌にもその万葉調を引き継ぐ純朴な歌風のものはあるが、その中核は紀貫之紀友則壬生忠岑凡河内躬恒という四人の撰者の歌によって体現された非直情型の優雅な調べ「たをやめぶり」(女性的)であり、『新古今集』はその継承と新たな発展を目指している。
 例の「六歌仙」なる空疎な呼び名が、文芸史上それなりの意味を持つ根拠も、実は、ここにある。『古今集』の「たをやめぶり」と『万葉集』の「ますらをぶり」の中間層を形成する歌人達(とその時代・歌風)に言及する際の象徴的な呼び名として、「六歌仙時代」というのが好都合だったのであり、「六人の和歌の達人」という意味では全くないのである・・・この点に於ける錯誤がこれだけ平然と野放しになっていることから逆算しても、現代日本(人)の文化的・知的状況の低調ぶりは歴然とする・・・「六歌仙」と称される人々のうちでも、見るべきものがあるのは「在原業平僧正遍昭小野小町(この女性は、単一・実在の歌人であるか否かは疑わしいが)」であり、「文屋康秀大友黒主」は、「たをやめぶり」の体現者紀貫之によって、「たをやめぶり」にも「ますらをぶり」にも属し切れない半端なヘボ歌人として引き合いに出されているだけ、「喜撰法師」に至ってはほぼ間違いなく架空の人物でしかない(歌風を論じようにも、肝心の歌が一首しか残っていない)という有り様・・・そんな名のみの「六歌仙」が、「六人の和歌名人」へとハダカの王様の絢爛豪華な美裳まとわされて大道を罷り通ってヤンヤの喝采を浴び続ける世の中の「ロクにモノ見ぬバカ迷人」の人口密度たるや、いやはや、いかばかりのものであろうか・・・実質を見ずに言葉に流される日本人のむべき体質が消え去る時(が、もし来るとすれば)、「六歌仙」という呼び名は死語となり、言及時には必ずや<所謂"六歌仙時代"と称される万葉調「ますらをぶり」から古今調「たをやめぶり」への過渡期の歌人達>という理知的限定語句を伴う言辞となるであろう(・・・そんな日が来るとして、の「物語性の話」ではあるけれど)。
 さて、話をこの万葉からの平安調引用和歌第4番歌そのものに引き戻そう。
 作者「山部赤人」は、柿本人麻呂と並んで「歌聖」と称される『万葉集』の代表的歌人の一人。伝わる記録が少ないので人物像は謎だが、行幸に随行しての天皇賛歌や、日本各地の風物の詠歌の多さから、「聖武天皇時代の宮廷歌人で、各地を旅した下級官吏」と推測されている。この歌は、彼が駿河の国を旅した時に「不尽を讃える歌」として自ら詠んだ長歌への反歌の形で添えられたもの・・・を、文言を変えて『新古今和歌集』に組み入れた改作。
 古文業界の約束事では、元歌の全句を、その趣旨も変えず、文言のみ部分的に書き換えたこのような歌は「本歌取り」とは呼ばれない。書写段階での迂闊な書き間違いや思い込みによっても、伝わる文物文言はコロコロ変わるのが、原典尊重意識が伝統的に極めて低いこの国 ― 「神の言葉」として一言一句変えることを許されぬ『聖書』の言葉を原典とする厳密なる引用の体質を有する西欧人的精神から見れば到底許容し難いほどに身勝手な杜撰さが平然と罷り通る日本国 ― の特性なのだから、この種の「化け歌」まで「本歌取り」と呼んでいたのではキリがない、という割り切りも必要、ということであろう。また、『古今和歌集』・『後撰集』と勅撰和歌集が世に出て和歌の文芸的立場が向上する10世紀半ば頃までは、他者の歌(の全部・一部)をいい加減な形で拝借するという行為に対する世間のめもさほど厳しくなかったのであろうから、そのナアナア体質がズルズルと後世まで引きずられて、秀歌を詠みたくてウズウズしていた貴族連中の「他者歌の剽窃」体質へと結び付いてしまったのだとも考えられる。古歌の一部を我がものの如く拝借する行為に対する批判は、和歌の地位が向上して後の平安期の歌人の間に当然の如く存在したが、そうした批判への返答として、平安末期に「本歌取り」を正当な作歌技巧として認めたのは、この『小倉百人一首』の編者たる藤原定家の父俊成であった。その息子定家は、俊成の立場を引き継いで「正当なる本歌取り」の基準を(健気にも)定めた・・・が、客観的に評して、学問的厳密さを伴いつつ定義することの出来る「剽窃とオマージュ(to pay homage to the original)の境界線」を引いたとは言い難い。が故に、「本歌取り」か「盗古歌」かの論争は、「神学論争」の様相を呈する泥仕合になりかねぬ曖昧さを含むもの、という(今日の「盗作論議」にも通ずる)事実のみを、一般世界の知識人としては、踏まえておけばそれでよかろう。
 話をこの「万葉歌の平安調改作」に戻すが・・・これははっきり言って極めて残念な「改悪」に堕していると評さざるを得ない。歌の趣旨を変えぬ部分的改作であるべき文言の微修正が、歌の趣旨の中核をんでしまっている悪例として、「他山の石」とすべき反省点を含んでいるのである・・・以下、それを具体的に指摘しよう。
 この歌の万葉元歌→新古今収載形の相違と、その理由・狙いを列挙すれば、次の如し
1)「ゆ → に」
・・・万葉時代の格助詞「ゆ」は鎌倉初期には既に死滅していたから。
・・・「に」に似た働きの格助詞には「へ」があるが、こちらは「遠隔地"へ"の旅立ち/こちらからあちら"へ"の移動」の感じになる(平安中期までは確実にそうであった)。が、この歌の場合、「こちら」にあたる動作の起点が特にない・・・地元の人であれば「例の、松林の回廊が起点、だな」などと具体的な場所を思い浮かべることもできようが(・・・厳密な時代考証によれば、この歌の「田子の浦」は現在のそれとは異なるらしいが、そうした地形的ズレはこの歌の味わいには本質的変化をもたらすものではない)・・・いずれにせよこの歌に於いては「起点」に重点はないのである。「田子の浦の浜辺」という「帰着点」が主眼であり、「どこからどこへ」の幅を持った移動性動作を指向しない点に於いて、「へ」よりも「に」が妥当。
2)「ましろにそ → 白妙の」
・・・「"真"白」は典型的な「ますらをぶり」であるから、「たをやめぶり」を明示的に志向する「新古今改作」では「白妙の」となったのであろう。とはいえ、「妙なる白」と「真っ白」との間には、微妙な、しかし明白な、差があることは(少なくとも詩的観点からは)指摘せずばなるまい。
 富士山の頂上には常に万年雪が積もっている(・・・地球温暖化の影響で、今後どうなるかは不明だが)。それを遙か彼方から仰ぎ見て、「あぁ、薄っすら、ぼんやり、霞んで見えるけど、あれってやっぱ、雪、だよね?」という、はっきりしない感じの「白」なら、「白妙」でもよかろう・・・が、この歌の場合はそれでは駄目だ。
 「うちいでてみれば」から読み取れるように、作者はいま、延々続く松林の回廊を抜けて来たところである。林立する樹木に視界をられながら、彼方から微かに響く潮騒の音に、出口が近いことを耳で感じつつ、長く留まっていると人を不安にさせる木々の世界(この世界を司る神をギリシア神話ではPanと呼び、人心を掻き乱すその林界の玄妙なる魔力のことをpanicと呼ぶのである)を、早く出たいと焦っていただ・・・厳密な時代考証によれば彼が歩いて来たのは富士川西岸の浜辺であって松林ではないそうだが、延々続く単調な地形を長々歩かされてきたことには変わりあるまい・・・そうして、今、作者は広々とした場所に出た:駿河湾のほとり、田子の浦である・・・こんもりとした閉鎖的空間、単調な視界の中の単調な運動の連続から解放されて、見晴るかす展望の広がる世界へ・・・旅人が真っ先にすることは、何であろうか?遠くを眺めやることであろう。両手を伸ばし、背伸びして、開けた世界の空気を胸一杯に吸い込んで、視界をる何物もないパノラマ世界の広大無辺の自由を感じるだろう。その時、遙か彼方にありながら、巨大な視界の大部分を占有しつつ、偉観を誇るものがある・・・富士山だ。その雄大な横軸方向への空間的広がりもさることながら、その山頂には既にもう雪を戴くこの富士は、空間座標の縦軸をも圧倒的なスケールで占有すると共に、異なる時間軸までも悠々とに掛けて、麓に秋、頭上に冬と、二つの季節にまたがって広がってもいるのである・・・何たる包容力!その足下にあって、時間と空間のちっぽけな制約に縛られている我々人間やその卑小な世界やこれを取り巻く箱庭みたいな木々の森など、まるで問題にしないあの存在・・・富士・・・あんな偉大なものが他にあるだろうか・・・不二・・・まるでこの世のものとも思われぬ、永遠不滅の偉大な山・・・不尽・・・不死・・・。
 そんな富士山の雄大さに、山部赤人が驚嘆する時、彼が身を置く駿河湾の辺りには、雪が降っていてはいけないのが、わかるだろうか?雪が舞い散れば、視界は曇り、「富士の高嶺」を仰ぎ見ることは当然できなくなる。第一、麓にも舞い降り積もっている雪なら、「富士の高嶺"に"雪」という限定性の驚嘆が、何の意味をも持たなくなる。そう、麓はまだ秋なのだ・・・理屈から言えば、富士山頂の万年雪、という気象学的事実に鑑みて(・・・この事実は赤人自身明確に認識していて、『万葉集』ではこの歌の直前の長歌で「時じくそ雪は降りける」=時節に無関係に雪は降る、と詠っているので)、秋はおろか、夏であってさえかまわぬことにもなるのだが、詩的情趣の観点から言えば、ここは素直に、季節は晩秋、雪が降るにはまだ早いが、雪が降っても奇異の感を催させぬ頃合、と見るのが妥当であろう。「冬」では当たり前過ぎて面白味に欠けるし、「夏」では富士山の異常さ・神秘性ばかりが強調され過ぎて、少々コワい。
 とにもかくにもこの「雪」は、その発見を以て赤人を驚嘆させるものでなくてはならない・・・である以上、柔弱な「白妙の」では駄目、やはり「真白にぞ」と強く言い切らねば話にならぬ(少なくとも、詩にならぬ)のである。「天香具山にたなびく霞」にかぶせる言葉のベールなら「白妙の」でもよい。が、富士山に「白妙の」をかぶせて美景を描くつもりなら、山頂で季節外れにその存在を主張する「晩秋の雪」ではなく、あの巨大な広がり全体を白く染め上げる「真冬の雪山」として、詩人の心のカンバスの全容を淡白に彩っていなければお話にならぬ・・・それがわかっていない点で、この「白妙の」とやった新古今の改作者は、ヘボ詩人でしかない。時代が「たをやめぶり」を求めても、ここは敢然と「ますらをぶり」で押し通さねば、歌詠みではない。元歌の真価を読みきれていない名ばかりの歌読みの為せる業である。
3)「降りける → 降りつつ」
・・・万葉元歌の末尾「ける」が「けり」でないのは、係助詞「そ」(・・・後代に於ける「ぞ」)と呼応して連体形で係り結びを形成しているため。この強い響きは典型的な「ますらをぶり」。これを意地でも「たをやめぶり」でやんわり仕上げたかったからこその「つつ」終止、であろうが、これはしかし最悪の改作。
 既述の通り、この赤人の歌の肝は「山麓は秋/山頂は冬」という二つの季節を包含する富士山の雄大さへの驚嘆であり、その驚嘆の契機となるのが「うわぁ、まだ秋なのに、もう山頂には雪が降ってるよ!」という「気付きの"けり"」なのである。それを、語調の柔らかさに漫然と引かれて「つつ」などと、同時進行性の別動作が言外にあるかの如く匂わせたのでは、読者の心理的焦点が、「富士山頂の季節外れの雪の白」以外の何か別のものを探して、よそ見を始めてしまうではないか・・・そんな程度のことも感じられずに、愚かしくも「つつ」など付けつつ、この平安調鎌倉初期人は、一体何を目指したのであろう?・・・『古今集』への回帰?・・・まぁ、そうだろう:が、結果的には、形ばかり似せてみたとて、本質的には愚かな「改悪」にしかならぬことが、世の中にはたくさんあるということを、惨めな形で後代まで語り継がせる「悪い見本(古語で言うなら"世の例し")」を残しただけに終わったわけである。それが改作者の本意なら、御立派な他山の石とすべきだが、懐古調の美という打算と意志とで、原典の主眼点を削ぎ、その美を大いに減じてしまっている点で、非難以外の何物をくれてやるにも値せぬ代物に成り下がっている!と(ますらを調で)ここは断じさせてもらおう。
 『新古今和歌集』は、日本の勅撰和歌集「八代集」の最後を飾る作品とされる。それ以降も勅撰和歌集は(十三集ほど)成立するが、それら所謂「十三代集」と「八代集」の間には、かなり大きな一線が引かれている感じである。十三代集と称される和歌集は、時代を下れば下るほど、それぞれの編者(というより、その編者の属する歌学上の流派)の意向がその収録作品にも露骨に反映され、もはや朝廷の文芸事業というよりも、歌壇の自己主張の道具に近い代物に成り下がってしまった。狭い文芸界の勢力争いの中で粗製濫造される名ばかりの勅撰集というこの感覚は、その世に出る時間的間隔が(由緒正しき「八代集」が半世紀以上の周期で編まれたのに対し)どんどん短くなって行ったことからも感じ取ることができよう。悠久の時の流れにも消えずに残る作品は概して世に出るのを焦らぬものだが、時流の泡沫上で派手に弾け飛ぶことで当座の人目を引こうとする有象無象の脚は、おしなべて速いのだ・・・そうしてすぐにバテては消え失せてしまうのである:
-「八代集」の成立周期-
1)古今和歌集(905年1111首:撰者=紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑)
・・・『万葉集』から約150年
2)後撰和歌集(953~958年1425首:撰者=源順大中臣能宣清原元輔坂上望城紀時文)
・・・前作から約50年
3)拾遺和歌集(1006年1350首:撰者=藤原長能源道済・・・藤原公任の『拾遺抄』を元に成立)
・・・前作から約50年
・・・ここまでを特に「三代集」とも呼ぶ
4)後拾遺和歌集(1086年1218首:撰者=藤原通俊)
・・・前作から80年
5)金葉和歌集(1126年650首:撰者=源俊頼)
・・・前作から40年
6)詞花和歌集(1151年415首:撰者=藤原顕輔)
・・・前作から25年(・・・前作『金葉集』が失敗作とみなされたため、間隔が縮まった)
7)千載和歌集(1188年1288首:撰者=藤原俊成の『三五代集』を元に藤原俊成自身が編集)
・・・前作から34年(『金葉集詞花集』を変則的な一作とみなせば、62年)
8)新古今和歌集(1210~1216年1979首:撰者=藤原定家藤原家隆飛鳥井(藤原)雅経源通具・六条(藤原)有家寂蓮)
・・・前作から22~28年

-「十三代集」の成立周期-
1)新勅撰和歌集(1235年1370首:撰者=藤原定家)
・・・前作「新古今」から20年
2)続後撰和歌集(1251年1400首:撰者=冷泉(藤原)為家)
・・・前作から16年
3)続古今和歌集(1265年1915首:撰者=当初は冷泉(藤原)為家・・・後に撰者追加措置にふてくされて編纂作業は息子の為氏に一任/後に反冷泉勢力の九条基家衣笠家良六条行家葉室光俊真観)の四人が加わる)
・・・前作から11年
4)続拾遺和歌集(1278年1500首:撰者=二条為氏)
・・・前作から13年
5)新後撰和歌集(1303年1600首:撰者=二条為世・・・『津守集』と皮肉られるほど津守氏の歌が多く入集)
・・・前作から25年(・・・この間、1274年/1281年の二度にるモンゴルからの侵略=「元寇」あり)
6)玉葉和歌集(1313年2801首:撰者=京極為兼・・・当初は京極為兼の他にも二条為世飛鳥井雅有九条隆博らの撰者がいたが、京極/二条両派の対立や撰者の死去・左遷等の事情で約20年もかけて成立・・・この集以降歌壇は二条派に牛耳られ、京極派は『風雅和歌集』まで日の目を見ずにホサれることになる)
・・・前作から10年
7)続千載和歌集(1320年2100首:撰者=二条為世)
・・・前作から7年
8)続後拾遺和歌集(1326年1347首:撰者=二条為藤・・・死後は息子の二条為定が引き継ぐ)
・・・前作から6年
9)風雅和歌集(1349年2211首:撰者=正親町公蔭京極為兼養子)・藤原為基冷泉為秀・・・最後の「京極派」勅撰集)
・・・前作から23年(・・・この間、1333年に鎌倉幕府滅亡)
10)新千載和歌集(1359年2360首:撰者=藤原為定)
・・・前作から10年
11)新拾遺和歌集(1364年1920首:撰者=二条為明・・・死後は息子の頓阿二階堂貞宗)が引き継ぐ)
・・・前作から15年
(准勅撰・・・「南朝」方の作品であったため日の目を見なかった)新葉和歌集(1381年1420首:撰者=(後醍醐天皇の皇子)宗良親王)
・・・前作から17年
12)新後拾遺和歌集(1384年1554首:撰者=二条為遠・・・死後は息子の二条為重が引き継ぐ)
・・・前作から20年
13)新続古今和歌集(1439年2140首:撰者=飛鳥井雅世・・・ただひたすら「二条派」のための歌集。京極冷泉派歌人の入集はほぼ絶無。女流歌人も少ないなど、極めて偏った内容)
・・・前作から55年
 ・・・名に付く「新」・「」の多さも鼻につき、もはや清新の気のかけらさえ感じさせない・・・そんな「昔の文芸」を「正統に引き継ぐ我ら歌流の高度な技の冴えをとくと御覧あれ」といった感じの歌壇の内輪芸発表誌の如き「十三代集」の最後となった『新続古今和歌集』の30年ほど後には「応仁の乱」(1467)が発生、日本は戦国時代を迎え、以後、勅撰和歌集の系譜は、名実共に、絶えることとなる。
 ・・・という訳で、平安の世に花開いた和歌の文芸的生命は、八代集の最後を飾る『新古今和歌集』で鎌倉の初めに散り際の大輪の花を咲かせるとともに、その終焉を迎えたのである。以後の和歌は、文壇の内輪芸としての濃密さを増しつつ分断的に現代まで引き継がれながらも、新古今で到達した文芸的発展の頂点を越えることは遂に出来なかった。これ即ち、鎌倉初期にあって平安期の和歌の集大成を試み、見事にその大役を果たした藤原定家の歌人としての眼で、選びに選び抜かれた『小倉百人一首』こそが、和歌がきちんと生きていた時代の秀歌百選として、未来永劫輝き続ける生命力を保証されている、ということでもある。その和歌の真の生命力の輝きを味わわんとする心あらば、かつ、見たくもない醜悪な事実や論理を眼前に突き付けられることへの日本人的拒絶反応を「知と芸術への愛好心」で乗り越える力がおありならば、更にお付き合いいただこうか、平安文芸の花畑巡りツアーに。

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