百一007解題)天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
『古今集』羈旅・四〇六(安倍仲麿:あべのなかまろ)(男性)

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解題

 詠み手の置かれた状況を知らぬままでは味わいようのない歌というものがありますが、これもその一つ。奈良時代の日本から、お隣りの中国(唐)へ、先進の文化や政治制度を学ぶべく留学生として渡り、結局は彼の地で生涯を閉じることになる、阿倍仲麻呂の望郷の歌です。
 と言っても、この歌を詠んだ時点の仲麻呂は、自分が祖国日本に帰り着くことはできずに異国の土として果てる運命を、まだ知りません。
 二十歳で遣唐使の一員として中国に渡り、難関で知られる「科挙」試験に合格(異説もありますが)した後、唐の朝廷で様々な官職を歴任してきた仲麻呂は、既に三十五年間にも及んでいた現地での経験を祖国日本に持ち帰って朝廷実務に活かすべく、新たにまた遣唐使を乗せて来唐した船の帰国に合わせて、日本に帰ろうとします。その時、長年の中国滞在の間に出来た中国人の友人達が、別れの祝宴を催してくれます・・・船出の直前に浜辺で催された略式のでもよいでしょう(実際、『古今和歌集』の詞書には、御丁寧に「明州といふ所の海辺」と地名まで明記した上でそう示してあります)し、内陸の屋敷の庭の宴席であってもそこから大空(天の原)が振り仰げる場所であれば別段(詩的には)構いません・・・中国の人達の宴会は、日本の送別会とは違ってとってもやかです。名残りを惜しむ寂寥感は、元気のよい中国語のおりの喧噪の中でしばし掻き消されていたことでしょう・・・そんな温かい喧しさからふと顔を上げて夜空を振り仰いだ仲麻呂の目に映ったのは、月・・・夜空に月、は当たり前ですが、この場面の仲麻呂の目に映ったそれは、遠い昔に故郷の山(奈良の春日三笠山)の上に照っていた思い出の月に感じられたことでしょう・・・彼はその思いを、青春時代に慣れ親しんだ日本の短歌に詠み込みます。
 この歌の時点では、仲麻呂にとって「春日なる三笠の山にいでし月」は、祝宴が終わり、船旅を経れば、そう遠からず再び仰ぎ見ることのできる懐かしくも待ち遠しい存在、として見えていたことでしょう・・・が、現実は残酷でした:彼の乗った船は暴風雨で南方に流されてしまいます。時に752年・・・仲麻呂の海難事故を知った唐の詩人李白は、七言絶句「哭晁卿衡」の中で、「明月不歸沈碧海」と、かつての友の死を追悼しています。実際には、仲麻呂一行はベトナム中部に漂着しており、事故から3年を経た755年に唐の首都長安にようやく帰り着きます。が、日本への帰国を望んだ仲麻呂たちにとって不幸なことには、この同じ年に中国本土で「安禄山の乱」が発生、中国政府は治安悪化を理由に日本への渡航を禁じてしまいました。結局、仲麻呂は帰国を断念、唐での官僚生活に残りの人生を費やし、770年、72歳で異国に骨を埋めることになったのです。
 現在、中国(陝西省西安市興慶宮公園、及び、江蘇省鎮江北固山)には、この短歌の五言絶句版が刻まれた記念碑があると聞きます:
翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
思又皎月圓
 望郷の念が人の心を打つのはいずこも同じ、ということでしょうか。
 また、『古今和歌集』の中心的編者であった紀貫之は、68歳にして国司としての土佐(現在の高知県)での四年間の任期(930~934)を終えて京都に帰る際の(女性に仮託して仮名文字で書いた)紀行文『土佐日記』の中で、やはりこのエピソードに触れています:
廿日の夜の月出でにけり。
(二十日の夜の月が出た)
山の端もなくて、海のなかよりぞいで来る。
(視界をる山の稜線もなく、海中からぬーっという感じで出て来た)
かやうなるを見てや、昔、阿倍の仲麻呂といひける人は、唐土にわたりて、かへり来ける時に、舟に乗るべきところにて、かの国人馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの唐詩つくりなどしける。
(こういう月の出を見てのことだろうか、昔、阿倍仲麻呂という人は、唐に渡って、日本に帰って来る時に、船に乗る予定の場所で、現地の人が送別会をし、別れを惜しんで、中国固有の文学形態である唐詩を作ったりした)
あかずやありけむ、廿日の夜の月いづるまでぞありける。
名残りが尽きなかったのだろうか、二十日の夜の月が出るまでずっとそこにいた)
その月は海よりぞいでける。
(その月は海中から出たのだった)
これを見てぞ、仲麻呂の主、「わが国にかかる歌をなむ神代より神もよん給び、今は上中下の人もかうかうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ。」とて、よめりける歌、
  青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
とぞよめりける。
 ・・・土佐から京都への帰途、天候の関係でなかなか出航できずに浜辺で無為の日々を過ごす時、海の中から出て来る月の様態の珍しさに、彼はこの仲麻呂のエピソードを思い出したようです。中国人の友人達が漢詩を詠んだのに対し、仲麻呂に「私の故国日本では、こうした短歌を、神話の時代から、神もお詠みになり、今では、身分の高い・中ぐらい・低いを問わず各人各様に、惜別・祝い事・悲しい事などがあるたびに、詠むのです」と語らせたあたりは、漢詩文を押し退けて朝廷文化の中核へと和歌を押し上げんとする野心作『古今和歌集』(905)編者としての貫之の、自負に満ちた創作でしょうか、それとも、貫之の時代には漢詩に押されて傍流の扱いだった和歌も、仲麻呂の生きていた『万葉集』の時代には日本の文芸の中核だった(・・・のだから、日本固有の文学として今後再び栄えてもよいだ)と言いたかったのでしょうか。
 いずれにせよ、この和歌を語る上で欠かせないキーワードは、「中国(漢詩)と日本(短歌)との対照」、ということになりますね。・・・それにしても、切ない歌です。詠まれた時点での「35年ぶりの望郷」のワクワク感に、今読む私達は、その後の「17年ぶんの寂寥」を重ねて見ることになるから、そのビター・スイート(bitter苦/sweet甘)の二重写しが心に染みる訳でしょう。そう考えると、もう一つのキーワードとして「時の重み」が絡む歌、とも言えそうです。たった三十一文字の世界の中に、時・空の隔たりの大きさを感じさせる、名詩、と呼ぶにはあまりにも悲しい仲麻呂の哀史、でした。

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