百一011解題)わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟
『古今集』羈旅・四〇七(参議篁:さんぎたかむら)(男性)

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解題

 冒頭の「わたのはら」は「大海原」の意味。現代にも「海洋」の文語版として「わだつみ」という語が残るが、原義は「わた(海)+つ(場所を示す格助詞)+み(霊)・・・水の領域に横たわる霊異に満ちたもの」。「わた」は朝鮮語「pata」・英語「water」更には動詞「渡る」に通じる。古来「海」と言えばそれは人類にとって「神秘的・・・だが、渡るべき場所」、冒険の舞台だった訳である。
 そんな渡航対象の「わた」に広々とした場を示す「原」を付けた「わたの原」の上に、無数に散らばる島々が「八十島」である:「両手の指が合わせて十本という物理的特性+10で再び0に戻ってしまう十進法の特性+は「」につながるという音調上の験担ぎ」のせいで、数の多さを象徴的に示す数字として、日本では「九」ではなくこの「八」をよく用いる(例:「八百万(やほよろづ)の神々」・「大江戸八百八町」・「嘘八百」・・・)。
 そんな広い海に無数に散らばる島々「かけて」とあるのは目的地を示す指向性の表現、「漕ぎ出でぬ」とあるのは「既に漕ぎ出した」の完了形の「ぬ」であって、「漕ぎ出さなかった」という否定助動詞「ず」の連体形としての「ぬ」ではないので要注意。
 最後の「あまの釣り舟」は、現代の語感で捉えると誤解を招く。現代語の「あま」は「海女」・・・海中に長くって海藻を採る肺活量の大きな女性のイメージがある・・・が、彼女ら潜水婦は「釣り舟」の上からのんびり釣り糸を垂らしたりしない。これは「漁師の漁獲用の小舟」の意味であって、「潜水服着た女性ダイバーが乗り込むフィッシングボート」ではないのである。
 この結句の「漁師が魚獲りに使う小さな舟」は、第一・二・三句で展開された「広々とした海の上に無数に散らばる島々目指して」という大いなる船出のイメージと、ささやかなる対照を成すと同時に、実は、この歌の読み手がかつて大海原を渡航して遙々隣国の中国(唐)に渡る使節団の一員として乗り込んだことがある「遣唐使船」の大きさとの間で、寂しい対照を成す役割をも演じるのである・・・が、それを感じ取るためには、この歌の創作事情を明かす「詞書」の手助けが必要であろう。もっとも、感性の鋭い読み手ならば、「(私の愛する)人"には"告げよ」とあることからも、この船旅が本来「八十島かけて漕ぎ出づ」というような前途洋々たる海への出立の歌ではないことを、薄々とは感じ取るであろうが。・・・
 そう、これは失意の旅立ちなのである:そしてそのことは作者自身にも周囲の同行者にも歴然としていたなのである・・・それを敢えて大海原目指して、元気よく出航した」と、せめて愛する人にだけはそう伝えておくれ、というのである・・・我が身を気遣う愛する人への優しさに満ちた気丈さか・・・それとも単なる強がりか・・・答えは史実が明らかにしてくれるであろう・・・かどうか、読み手のプロフィールを見てみることにしよう。
 作者小野篁(802-853)は、その姓が示す通り、遣隋使(第二回)として有名な「小野妹子」の子孫である。身の丈六尺二寸という伝説が真実なら実に188㎝の大男で、その人並み外れた巨体のか、父(小野岑守)と共に幼少期に下った陸奥の風土の影響か、少年時代は武芸にばかりうつつを抜かして学問を顧みなかったという。が、これを憂えた時の嵯峨天皇の言葉に発奮すると、生来の天才的学才が覚醒、21歳にして式部省の試験に合格して文章生となり、以後、天下無双と賞賛される秀才(否、鬼才)ぶりを発揮する。
 が、当時の貴族には類を見ぬほどの武芸への熟達、雲を突くような巨体、誰も太刀打ち出来ぬほどの学才、とくれば、万事に於いて自分より「小者」の平安貴族の中で、このがおとなしく縮こまっていられる道理もない・・・ほとばしるばかりの肉体的・知的剛力は、折に触れて周囲の貴族たちとの摩擦・衝突を生み、時としてそのエネルギーの矛先は、嵯峨帝にさえ向けられたという。
 こんな逸話がある・・・ある日、嵯峨天皇は、宮中にある"無善"なる立札に気付き、に命じる「これは何と書いてあるのだ。読め!」するとは「読むことはできますが、恐れ多いことなので口に出しては言いません」と言う。「いいからとにかく読め!」と言う嵯峨帝に対し、はこう読む「さがなくてよからん・・・つまり帝を呪う台詞(サガ天皇なんていなくてもよい)ですね、これは」。帝は怒った「こんなのを書くやつは、お前以外にはおるまい!」ところがはケロりと答える「だから言ったじゃないですか、(書いたり、読めたりはするけれど)口に出しては言えません、と」・・・帝はこの高慢なる鬼才をとっちめてやろうとして「お前、自分には読めない文字はない、と自信を持っているようだな?」と詰問すると、「はい。どんな文字でも、読んでみせますよ」と。そこで帝は「子子子子子子子子子子子子」と同じ"子"の文字ばかり(読み方は、こ・ね・しの3通り)12個を続けて書いて、「ならば、これを読んでみろ!」・・・、答えていわく、「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし(猫の子の子猫、獅子の子の子獅子)」・・・これを聞いて嵯峨天皇は思わず微笑み、本来なら厳罰に処すべきところ、には何の罰も加えることなく済んでしまった。
 古典的歌物語の一形態として、和歌の才が人にいかに大きな現世的利益をもたらすかを説く「歌徳説話」があるが、このの逸話はその亜種、いわば「知徳説話」とでも言えようか。鎌倉期の『宇治拾遺物語』に収められた話だから、雅びなる歌の才など既に無意味、当意即妙の機知を誇る小野篁こそが、時代的に、格好の題材となったのであろう。
 ・・・が、知に長けた者は知に走り、知に転ぶ。37歳の年、遣唐副使として中国に渡る際、遣唐正使と衝突、仮病を使って渡唐を拒否した上、例の毒舌病が出て、朝廷批判の戯れ歌を作って「無悪善」の立札の二の舞をやらかした・・・これが、既に退位していた嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐島に流されることとなる・・・その時に詠まれたのがこの「わたのはら・・・」の歌である。
 は何を思っていたろうか?また「ねこのこのこねこ・・・」とやって見事な逆転劇で中央に返り咲く算段をしていたのだろうか?そうまで自信があっての「八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ」なら、恐るべき人である・・・今度ばかりはさすがにヤバいかな、と思いつつしんみり詠んだのなら、この歌のほろ苦い気丈さはまた絶品である。
 ・・・その心境は読者としても気になるところであるが、知るは本人のみ。我々に知れるのは、結局のところ、隠岐島流しの僅か1年半後には、彼の学才を朽ち果てさせるのを惜しんだ中央政界がその遠流を解き、最終的には従三位の参議という要職にまで進んで、小野篁は51年の生涯を閉じている、という史実のみである。中央の権威におもねることなく挑発的なまでの反骨心を貫いたその波瀾万丈の伝説に満ちた人生から、彼のことを後の世の人々は「野宰相」あるいは「野狂」とさえ呼んだ。この「野」、単に「小"野"」の意のみならず、官界の中枢にあってなお「在"野"」精神を保ち続けた硬骨漢の意を含むこと、間違いあるまい。
 彼の孫には、当時の書道三大名人(三蹟)の一人と称された小野道風がいる。また、例の絶世の美女とわれた小野小町(9番歌「はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」の作者)をの孫とする説もあるが、このあたりは伝説の域を出ない。時代的にはは小町より少し前の人で、あの日本初の勅撰和歌集『古今集』(905)より半世紀ほど前に没しているから、和歌よりむしろ漢詩が宮廷文芸の主流だった時代にあって、彼の学才が発揮された対象は短歌よりむしろ漢詩文であったことは覚えておくべきだろう。当時既に日本の宮廷貴族の間で評判になっていた『白氏文集』の著者である唐の詩人白楽天(772-846)は、遣唐使として渡って来る(はずだった)との交歓を楽しみにしていた、という話もあるが、これまた伝説の域を出るまい・・・が、そうした伝説の主役となるべき資質を、小野篁は、確かに有していたようである。

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