百一012解題)天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
『古今集』雑上・八七二(僧正遍昭:そうじゃうへんぜう)(男性)

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解題

 この歌は、仁明天皇(第54代)の治世、宮中の豊明節会で披露された「五節の舞姫」の踊りを賛美したもの。「天武天皇(第40代)の吉野行幸時、琴の調べに誘われて天空から舞い降りた天女が、五たび羽衣して踊った後で、再び空に舞い戻って行った」という伝説に因むこの舞踏の儀式が終わりに差し掛かったのを惜しみ、「天女が空に帰れなくなって今しばらくこのまま踊っていてくれるように、天空への通路を風が吹き閉じておくれ」と詠んだ、徹頭徹尾フィクションに根差した歌である。平安後期には特に盛行した「本説取り」の手法であるが、平安前期の『古今和歌集』当時にも(多くは中国の伝説や漢詩に基づいて)こうした歌がしばしば詠まれていた。後代にはその典拠が日本の文物に偏るようになり、『伊勢物語』や『源氏物語』等の散文作品の名場面のほか、個別的な和歌の数々をも下敷きにするようになり、余程その道に通じている人以外には何が何だか訳が分からぬ歌が増えて行く。そうして、他者が解らずに首をひねる様を見て喜ぶ嫌味な謎掛け趣味もまた幅を利かせるようになって行くにつれ、和歌文芸自体が、自分で自分の首を絞める形で、その排他性を強め、退廃的濃密度を増して、衰退の道を辿る一因ともなった。
 西欧人の古典伝承態度は、こうした日本のものとはまるで異なる。地形・人種・政治・宗教等、様々な形で他者と自分との違いを否応もなく感じさせられる異邦人どうしの寄り合い所帯のヨーロッパに於いては、その異質性を乗り越えるために、共通の文化的素地をお互い同士確認しつつ引き継ぎ、その共有遺産の上に各時代ごとに異なる文化的積層を加えて更に後代の同胞に引き渡すバトンリレーの如き育み耕すもの=something to cultivate・・・culture(カルチャー)」が、違う者どうし仲良く生きて行くための「生存の手づる」として切実に求められるのであり、その根本特性は「相手への歩み寄り・・・古語で言う"見遣り(みやり)"」である。・・・この種の同胞意識確認の必要性が、日本人の間には極めて薄かった(現代に於いても、相変わらず薄い):この島国のhomogeneity(均質性)はあまりにも高すぎるので、同胞であることを確認する必要など(西欧に比すれば)皆無に近いのである。逆に、どこを切っても金太郎の顔ばかり出てくる金太郎飴如き均質性の中で、他者とは異なる自分(達)を人為的に演出するためのチマチマとした小手先の「マイナーチェンジの特別仕様」にこそ、この国の人々は本能的に走る体質を有している。かくて、日本の所謂「文化」なるものの多くは、西欧とは正反対の「相手から自分への視線の強要・・・"見遣し(みおこし)"」の方向性を持つこととなる:「よーく見ろ、自分は、お前たちとは、ここがこう違うのだよ・・・見る目がなければ見抜けまいがな」という態度で、見るにも値せぬ「ミクロの個別的違い」を「個性」と錯覚しつつひけらかすクダらぬ没個性和人が、古今、どれほど偉そうにこの島国で幅を利かせていることか。・・・かくて、「知る人ぞ知る/無粋なる門外漢には決して解らぬ/門外不出の秘伝的奥義」へと流れがちな「日本の文化」は、「極めたければ、心して我らが門を叩くがよい」という高飛車な「師匠」の門前払い体質が支障となって、万人の共有財産としての時をまたいだ(西欧古典的な)発展性をまるで有さず、「排他的身内芸」としての先細りの道を辿り、ただでさえ狭い箱庭の中で、狭量なる思惑による流派争いの微細なふるい分けの網目を通して、ミクロの芥子粒圏への閉塞的凝縮を繰り返した末に、み果てた教養人・一般人から見切られ軽蔑され忘れ去られて、芸道そのものが滅びてしまう場合が実に多い。和歌もまたその道を辿り、鎌倉初期(見方によっては、平安末)の『新古今和歌集』の頃には既に、そうした凝縮ドロドロ状況に立ち至っていたのである。「五七五七七」の形こそ残ったが、平安前期に『古今和歌集』によって始まった三十一文字の言葉の小宇宙の膨張的発展は、平安の世の終焉と時を同じくして収縮的死滅の道を歩み出したのである。・・・
 話をこの12番歌に戻そう。詠み手桓武天皇(第50代)の孫で、後に出家して「僧正遍昭」となる人物だが、この歌の時点ではまだ出家していない。在俗時の名は良岑宗貞(最も出世した時点での官名が「少将」だったので「良少将」と呼ばれる)。家柄が良くて、色好み、優雅な平安貴族の典型みたいな人物だったが、恩愛を受けた仁明天皇の葬儀の夜に、何処ともなく雲隠れしてしまった。「世を捨てて法師になったか?はたまた帝の後追い自殺か?」と周囲の人々は大騒ぎ・・・結局、彼は出家した姿で舞い戻って来るのだが、このドタバタ劇の経緯を『大和物語』は次のように述べている・・・三人の妻を持つ身の彼は、「よろしく思ひけるには」(愛情もほどほどの妻たちに対しては)出家すると言い残しておきながら、「かぎりなく思ひて子どもなどあるには」(この上なく愛して子をももうけた愛妻には)会ってしまえば恋慕の情を断ち切り難くて出家の意志も鈍ってしまうだろうと怖れたので、別れも告げずに世を捨てた・・・時に良少将33歳、モテモテ貴公子の男盛りだけに、迷い多き出家劇だった訳である。
 出家後には「遍昭」を名乗り、最終的には天台宗僧侶の最高位「僧正」にまで昇りつめ、74歳で世を去った。宗教家としては花山元慶寺建立などの業績を残すが、文芸史的には、仏の道を歩む身でなお優雅なる「敷島の道(=歌道)」をも歩み続けて所謂「歌僧」の走りとなった点が最大の注目点であろう。
 例の、空疎この上もない「六歌仙」なる空念仏で語られる6人の人物中、在原業平と並んで最も実質豊富な歌人の一人がこの僧正遍昭であるが、この人の歌に対する『古今和歌集』中心編者紀貫之の評価は次のようなものであった:「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし」(歌体としては確立されたスタイルを誇るが、詠み込まれた内容には真実味が乏しい。いうなれば、絵に描いた美女に見惚れて興奮するけど生身じゃないのでどうしようもない、という「ニジコン(二次元コンプレックス=対架空美女無意味発情症候群)」じみた歌である)・・・まこと正鵠を射た論評である、と言えよう。遍昭は、浮かんだ言葉に誘われてふらふらと歌を口ずさむタイプの歌人であって、思いを形にするために言葉を選んで詩をる人では全くない。気の利いた言葉が浮かべばたとえその内容が嘘でも何でもとにかく詠んでしまうので、例えば次のような「不届きな」歌も出て来る訳だ:
 名に愛でてをれるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな
古今集』(秋上・二二六)
 (「女郎花」とは何とも艶っぽい名だなあ・・・そんな愛しい名を持って、枝も折れんばかりにたわわに咲く花を見ると、もはや俗界を捨てた身である私の心もくずおれて、思わずこの手に手折っては、愛してやりたい気分になる・・・おっと、「僧正遍昭、オミナエシの色香につ」などと、人にバラしてくれるなよ・・・)
 ・・・無論、お坊さんになった遍昭が実際に女人禁戒を破ったわけではないし、その種の誤解を招くことをこの詩人自身まるで怖れてもいない。「歌は歌、ただそれだけのことさ」という態度である。「絵に描いた女に無意味に発情する」と称された僧正遍昭面目躍如たるものがあるではないか・・・彼のテーマソングを選ぶとすれば、この筆者なら一も二もなくこの歌を選ぶであろう。

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