百一013解題)筑波嶺の峰より落つるみなの河恋ぞ積もりて淵となりぬる

筑波嶺の峰より落つるみなの河恋ぞ積もりて淵となりぬる
『古今集』恋三・七七六(陽成院:やうぜいゐん)(男性)

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解題

 どういう訳か知らないが、この歌に「序詞」が含まれている、と指摘する古文業界人(百人一首解説書・歌学書・辞書類)は少ない・・・が、この歌には「序詞」が含まれている。少なくとも、「序詞」という和歌修辞法の性質を考えるに好個の素材が含まれていることだけは確かである。
 以下、日本の古文業界でこの歌が何故「序詞」含み歌とは呼ばれないか、その理由について考察してみることにしよう。
 実につまらぬ(が、現実的には最も可能性の高い)理由は、「どこぞのエラいセンセや御本が、この歌には序詞が含まれている、とは指摘していないから」、その御高説をそのまま鵜呑みにした結果の「第13番歌に序詞ナシ」というハナシだが、ハナからそれでは締まらぬことハナハダシイので、その説はこの際、ナシ、として、思い切り真剣・綿密・偏執狂的に、この歌の、そして「序詞」を含む短歌というものの本質を、突き詰めて行くことにしたい。
 極めてざっぱくな言い方をすれば、「序詞」とは、後続部にある文言を導き出すためにのみ歌中に放り込まれた取って付けたような文句、ということになろう。それ自体には何の意味もなく、後に続く文句を引っ張り出すための呼び水としてのみ存在するだけの、言ってみれば「歌の中の贅肉」みたいなやつ・・・それが、大方の歌読みにとっての「序詞」のイメージであろう・・・が、それではあまりに大まかすぎるので、まずはこの第13番歌の構成を分析的に眺めるところから、この「序詞」なる修辞法の特性を探り始めることにしようか。
 上の句(第一・二・三句)は「筑波山の高峰から流れ落ちる水が流れ込んで生じるのが山麓の男女ノ川」と、叙景に終始している。
 下の句(第四・五句)では「こひ(恋・・・古語では’水’の意にもなる)の情が積もって淵のようになってしまった」と、前半の流れをんで「水」に絡めながらも、その実質は私的な恋心を詠う叙情に転じている。
 両者の連結役として働くのが上の句末尾の「みなのがは」・・・漢字で書けば「男女ノ川」・・・愛し合う男女が絡み合うかのようなその艶っぽい名は、「筑波」が五穀豊穣を祈る祝祭という名を借りた男女の自由恋愛の場「歌垣」の地であったという古典事情と絡み合い、古語の「こひ」の字が「恋」と同時に意味する「水」とも混じり合って下の句へと流れ込み、叙景/叙情と異なる二つの様相を内包するこの歌の、前半部に於ける筑波の自然描写を、「本当に言いたい後半心情部の呼び水に過ぎぬ言葉遊びの冗長部」として切り捨てるのを躊躇させる程に、意味ある存在たらしめている。
 ここで第一の説が浮上する:ひょっとすれば、日本の古文業界では、こうした場合「つくばねのみねよりおつるみなのがは」のことを、「こひ(水・恋)・・・」以降を導く「序詞」である、とは言わぬ約束事があるのであろう・・・か?上の句の意味の重さが、下の句導出役という以外の何の意味も持たぬ「序詞」という軽い片付け方を許さなくなるから、という理由で。
 この説に従って言えば、在原行平の第16番歌でも、上の句「たちわかれいなばのやまのみねにおふる」を「まつ(松・・・転じて・・・待つ)としきかばいまかへりこむ」という下の句の導出役に過ぎぬ「序詞」とは呼ばずにおく業界人が多い、という論法も成り立とう。地方官に任じられて任国に旅立つ別れの挨拶をしている行平にとって、「立ち別れ因幡の」国に行くという上の句は事実としての重みに満ちており、後半部冒頭の「まつ(松/待つ)」を導くだけの役割しか演じぬ言葉遊びの如き序詞」なる修辞法を以て語ってよいほどには「軽くない」ということで。
 では、意味の重みがそこに宿らなければ「序詞」となり、意味上重ければ「序詞」ではないのか?・・・だが、意味の軽・重の判別は読み手の心次第であろう?ともなれば、ある者にとっては「序詞」でしかない軽い文言が、他の者にとってはそうではない有意の重みを持った語句に感じられる、という事態が起こらないのか?・・・「歌学」は所詮「科学」ではないから、意味構造の読み解き方の個性の違いによって、出てくる解もまた一定しない、と言い放って逃げを打って、それでよいのか?
 まぁ、それでもよいのだろう(古文業界とは一線を隔てた所から古典文物める立場の筆者にとっては少なくともそれで十分だ)が、歌学はさておき、科学的を自任する現代人としては、ここで引き下がる訳にも行かぬ・・・ので、更に、試みに、「序詞」を含む歌の例として有名な柿本人麻呂の3番歌を、この13番歌と比較してみよう:
 「あしひきのやまどりのをのしだりをの」・・・ここまでが「序詞
 「ながながしよをひとりかもねむ」・・・これが導き出される歌の主意
 この歌の前半部が後半部の「序詞」と言われる根拠は、前述の仮説に従えば、前半部は「歌全体の中に於ける意味上の存在の重みを有さない」という判断である。即ち、上の句で述べられる「山の木の枝に鳥が止まってその尾が長く下にしなだれている図」はこの歌の本義ではなく、「(その鳥の尾のように)長い夜を、(つがい同士別れて眠る鳥のように妻と離れて)私は独りで寝ることになるのかなぁ」という寂しい旅先の独り寝を嘆く詩人の私的心情を述べる下の句こそがこの歌の本意であり、その抒情部を導き出すためのダシとしての役割以上の意味を、この歌の上の句は担っていないから「序詞」だ、という理屈である。
 だが、本義とダシという論法で言うならば、(行平の16番歌はともかく)13番歌でもやはり後半部の「にっちもさっちも行かぬほど心の中に深く積もってしまった私の恋情」こそが本義であり、前半部に於ける「筑波山男女ノ川」は「こひ(水・恋)」をダシに使って下の句に結び付くだけの単なる後半叙情部導出役以上の意味を持たぬもの、として「序詞」扱いしてもよさそうなものである。にもかかわらず、この13番歌の上の句を「序詞」とは呼ばない古文業界人が多いのは、何故か?前半部のどこにそんな意味の重みが宿るのか?・・・と、この観点からいくら煮詰めて考えても答えは出て来ない・・・ので、ここはひとつ発想の転換が必要なようである。目先を変えて今度は、「序詞」ではなく、「序詞」によって導出されることになる下の句の方へと考察対象を転じてみることにしよう。
 13番歌の下の句「水(こひ・・・恋)ぞ積もりて淵となりぬる」は、確かに、叙景一辺倒の前半部とは異なる叙情を本意としてはいる:その点では3番歌と同様だ。が、表面的には相変わらず前半部より続く「男女ノ川」の様態を示す叙景の形を取っており、その川の水面下に「水(こひ)・・・転じて・・・恋(こひ)ぞ積もりて淵となりぬる」の叙情を底流として(と呼ぶには些か勢いよく湧き出ている感じではあるが)読者にみ取らせる体裁である。つまり、前半部で生じた「みなのがは」の水脈が、後半部にもなお脈々と流れ続けて全編を最後まで貫いている。それ故に、「つくばねのみねよりおつるみなのがは」は「こひ(水・恋)」以降の流れを導くだけの役割しか演じぬ「意味の真空地帯」ではなく、詩全体を覆う潮流としての存在の重みを有している、と感じさせ、そのことが、13番歌の上の句を単なる下の句の「序詞」と呼ぶのを躊躇わせている、との説明が成り立つのかもしれない。
 改めて人麻呂の3番歌を振り返ってみよう。前半部の「あしひきのやまどりのをのしだりをの」がし出す「雌雄別れて枝上で夜を過ごす科の山鳥の、長く垂れ下がる尾」のイメージは、後半部にも脈々と引き継がれてはいるが、そこには微妙な潮流の変化が加わっている。「長い尾」という物理的な長さは「長い夜」という時間的な長さに転じ、「枝の上」という鳥の宿り場所は「山中の粗末な小屋」という旅寝の宿所に転じ、「雌雄別々に寝る山鳥」は「妻と離れて旅先で独り寝する人麻呂」の孤独へと転じている。このように、前半部に於ける役者が後半部で再登場しながらも、被る仮面の表情が異なっているからこそ、その転調ゆえに、3番歌の上の句「あしひきのやまどりのをのしだりをの」は、下の句「ながながしよを」を導く「序詞」と呼ばれることになる、という説明が成り立つのかもしれない。
 一方、前半/後半を通して「みなのがは」の流れが一本調子で全編を貫いている13番歌の場合は、舞台に上る役者の表情が途中で一変することがないために ― たとえ後半部の仮面の下には前半に見られなかった叙情の真顔がんでいるとしても ― 上の句「つくばねのみねよりおつるみなのがは」を下の句「こひぞつもりてふちとなりぬる」の「序詞」と呼ぶことは出来ない、という理屈になる・・・のかもしれない。もっともこの歌の場合、「一本調子」は決してし言葉ではなく、叙情の形で下の句に本意を述べるに際しても、その誘い水となった上の句の「みなのがは」からの意味の流れをらすことなく最後まで淀みなく詠い切りたいという、イメージの整合性を重んじる詠み手几帳面さが生み出した賞賛すべき統一性、なのであるが、その変わることなき一本の流れ故に、「序詞」という修辞法からは、微妙に、外れることになった、ということなのかもしれない。逆に言えば、この歌に見られるような全体的統一性を保ち切れずに、歌中の一箇所で意味の流れが途切れてしまい、前半/後半が別内容に感じられてしまうような「破綻」を含む歌ならば、「序詞」含みの歌と堂々と形容できる・・・のかもしれない。
 しかし、この新たな説に従って言うならば、他ならぬ『小倉百人一首』撰者藤原定家の晩年の自讃歌で、「序詞」含みとして引き合いに出されることの多い第97番歌もまた、「序詞は含まぬ歌」ということになってしまう:「序詞」前・後で意味の「破綻」を来たすことなく、全編を貫く「一本調子」の流れで詠い切った歌だから、である:
 (こぬひとを)「まつほのうらのゆふなぎにやくやもしほの」・・・ここまでが「序詞
 「みもこがれつつ」・・・これが導き出される歌の主意部
 「身も焦がれ」るのは「来ぬ人を待つ」浜辺の乙女、というのがこの歌の本意ではあるが、その本義を底に宿しつつこれを表面的に覆って「身も焦がれ」ているのは「浜辺で焼かれる藻塩草」なのであるから、この定家の歌にもやはり第13番歌同様、「序詞」前後での意味の「破綻」がない。最初から最後まで「松帆の浦」の叙景に徹した上で、心的後景に「来てはくれない恋人を待ち焦がれる浜辺の乙女の心情」を織り込む構成は、「筑波山から流れ出る男女ノ川の水の流れが溜まって深い淵になった・・・ように、私のあなたへの恋情も積もりに積もって身動きが取れないほどになった」という13番歌と同一である。この破綻のない統一性の中に詠い込まれた「叙景の背後の叙情」を誇る気持ちあったればこそ、定家は97番歌を自讃歌とした訳であろう。後半部を導くためのダシにしかならぬ「意味の真空地帯/言葉の贅肉」を歌中に抱え込みつつ展開される言葉遊びのダラけた「序詞ウタ」なんぞとは、自分の秀歌はモノが違うのだよモノが、と自慢したかった訳であろう。
 ともなれば、「序詞」前・後で意味・情景がガラリと一変する、という「破綻の様態」を、「序詞」を規定する本質的定義として採用する訳には行かなくなりそうである。歌学の大御所たる藤原定家を敵に回して勝ち残る自信をお持ちの面々がおれば、敢えてその説に固執なさるが宜しい・・・が、この筆者にそれはできない:定家の権威の如きは別に何とも思わぬが、論理の道筋を外れては一歩も身動きが取れなくなってしまうから、それは出来ない・・・という訳で、ここは一つ、こう言い換えてやる必要がありそうだ:「序詞は、その直後に、従前の流れとは異なる場面展開や新たな意味を導く役割を演じる。但し、表面的には相変わらず従前通りの叙景に徹しつつも、その背景に、今までとは異なる隠れた叙情を秘める契機になる場合も、に、ある」。
 数ある自作秀歌の中でも、敢えて97番歌を『小倉百人一首』に組み込んだ藤原定家の姿勢から推してみるに、「序詞」に対する彼の理想は「全編通して流れる叙景の陰に、さりげなく織り込まれた叙情の影」であったように思われる。その意味で、この陽成院の13番歌は、定家の理想像に極めて近い作品であった、と言えるであろう。
 総括として、「序詞」の特質について整理しておこう:
1)「序詞」は、後続部を導くための呼び水として用いられる。
・・・その導き方には大凡三種類ある:
 A)「イメージ誘導方式」
 (3番歌)・・・「やまどりのを(山鳥の尾)」が、イメージ的につながる「長々し」を導く。
 B)「イメージ誘導+掛詞転換方式」
 (13番歌)・・・「みなのがは(男女ノ川)」が、意味上直結する「こひ(水)」を経て、同音異義語の「こひ(恋)」へとつながる。
 (97番歌)・・・「まつほのうらのゆふなぎにやくやもしほの」が、(物理的燃焼状態としての藻塩の)「みもこがれつつ」を経て、(恋人を待ち焦がれる心理的焦燥状態としての乙女の)「みもこがれつつ」を導く
・・・これらA)B)は、「視覚・意味上のイメージ連想」による後続部誘導方式と言える。これに対し、単なる「同音つながりのサウンド連想」による「序詞」もある:
 C)「同音反復方式」
・・・その一例としては、第39番歌「浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき」がある。この歌の冒頭の五・七の二句は、後半部冒頭の「シノ(ぶれど)」の誘い水として前半部末尾の同音の「(をのの)シノ(はら)」をダシに使うためにのみ用意されただけの「意味の真空地帯」である。このように、現代的感性から見れば実に他愛もない言葉遊びと感じられる代物が「同音反復方式序詞」を含む歌には多いものだが、中には、第18番歌「住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」のように、「(きしに)寄る(なみ)」の「序詞」が、直後の「夜」を導くだけの呼び出しサウンドのみに終わらず、「寄せては返す波のように揺れる詠み手の胸の内」や「幾度となく岸に近寄ることを許される波」と対比して「夢の中でさえあなたに近寄れない私」の悲しさを嘆く重層的イメージ創出の役割をも演じる手の込んだ作品もあるので(というよりむしろ、そのような主意につながる連想を込めるのが本来正統な「序詞」の作法であったのだから)、あながちにるわけには行かない。
2)「序詞」自体には、本源的な意味はない。
・・・言葉としての意味は表わしても、和歌の本意とは無関係な、そこだけ場違いに浮いた特異な意味の真空地帯を成すのが「序詞」である。
・・・しかし、この「意味の軽重」を基準とする「序詞」判定法には、解釈者の主観によって左右されてしまうという難点がある。例えば、在原行平の第16番歌「たちわかれいなばのやまのみねにおふる/まつとしきかばいまかへりこむ」に於いて、「まつ」の呼び水として確実に機能している上の句の「いなばのやまのみねにおふる」を、前半部で述べられている意味の重さ(見送る友人に別れを告げて因幡の任国へ向かう)に鑑みて「序詞」として片付ける訳には行かぬと感じて、この歌には「序詞ナシ」と論ずる古文関係者が多い点を思い出すとよい。
・・・また、第13番・97番歌のように、歌全体の意味の流れの中に(形式的には)浮くことなくぴたり収まって一つの潮流を形成する「有意の序詞」もある。この種の(希有なる)「浮かない序詞」の場合は、それが形成する「叙景的前景」の陰に存在する「叙情的後景」こそが歌の本義であり、その「本意とは無関係な傍流」として歌の表面を流れている前半の文言(・・・後半にもその流れは続くのだが・・・)を「序詞」として捉えるべし、ということになる。
3)「序詞」と、それが導く後続部との間では、意味・情景の転換が見られる。
・・・多くの場合、この「転換」は、「破綻」と感じられる。有り体に言えば、「序詞」で導かれる後半部こそが歌の本義であり、そこに至るまでの前半部は無意味な呼び水としてのダシに過ぎぬ、と感じられるため、よそ見・寄り道・言葉遊びに無益に字数を費やした後で、思い直したかのように出し抜けにマジメに本心を述べている、という「藪から棒」的な感覚を読者に与える歌が多い、ということである。
・・・「序詞」をんだ前後の流れに、一見、転調が見られぬ「一本調子」な歌(第13番・97番歌)の場合でも、全編通して変わらず流れる統一性をもった「叙景的前景」の陰に、「叙情的後景」が顔を出すきっかけとなるのが「序詞」であり、その意味でやはり「転換」こそが「序詞」の本源的役割であると言える。
 上記の特性以外で「序詞」の性質を規定する場合、特によく行なわれる説明は、後続部の導出の役割を担う点に於いて「序詞」と類似の特性を有する「枕詞」との比較対照法である。即ち:
4)「序詞」は後続部(単一語句とは限らない)の導出役であるが、「枕詞」は直後の(単一の)名詞の限定修飾語である。
・・・両者は、現象的には酷似しているが、本質的には性質が異なる。別の言い方をすれば、直後の語句との関係に於いて、「序詞」は「呼び水」/「枕詞」は「飾り」であり、直後の語句に対して、「序詞」は「独立している(多くの場合、浮いている)」/「枕詞」は「従属している」、という違いがある。
5)「序詞」は、任意の後続部を導くための工夫として詠み手が自由に創出できるが、「枕詞」は(大部分は上代に於いて)既に確立されている特定語句のみに限られ、その修飾する後続の名詞も決まっていて、完全なる定型句である。
・・・実際、「枕詞」の中には、それが掛かるべき「後続の名詞」は特定できるのに、「枕詞」自体の意味・語源は不明、という謎の語句も少なくない。意味不明のままとにかく唱える文言という意味では「祝詞」に通じるところもあり、その謎めいた特性故に、ある種の呪言的性質が宿る場合すらあるのも、即興の言葉遊び的性質の強い「序詞」には見られない「枕詞」ならではの一特性である。
6)「枕詞」は五音の一句のみから成るが、「序詞」の音数・句数は固定されていない。統計的には五+七の二句以上から成る例が圧倒的に多いが、そうでなければならぬという本質的理由は何もなく、ただ現象的にそうなっているだけである。
・・・この現象の背後にむ本質を指摘すれば、次のようになろう:「従前部と後続部との間に意味・情景の転調を導くという序詞の役割を、五音または七音の一句のみで演じるのは至難のだから」
・・・この至難の芸当を演じている希有な例としては、20番歌「わびぬればいまはたおなじなにはなるみをつくしてもあはむとぞおもふ」(に於ける「なにはなる」)がある。奇しくもその詠み手は、この13番歌作者たる陽成天皇の第一皇子の元良親王。『古今和歌集』成立期という「和歌の思春期」にあたる時期だけに、「序詞」という修辞法自体もまた、後代に於けるが如く確立された形式的な用いられ方をするには至っておらず、そのあり方・あり得る可能性の姿をあれこれと模索する実験的段階にあったからこそ、親・子揃って「序詞」の考察に格好の特異な実例を提示してくれた、と言えるのかもしれない。
 そしてまた、『小倉百人一首』の生みの親たる藤原定家がこれら13番・20番を選んだ理由も、黎明期に於ける「序詞の揺らぎ」を提示することで、その後の多分に形式化(多くは、形骸化)したこの修辞法との歌学的対比の機会を第三者の眼前に提示することにこそあった、のかもしれない。少なくとも、筆者は、800年の時を隔て、そうした形で定家との対話をしている感覚でこの考察文を書いている。そして、97番歌を自讃歌とする定家の態度と、「序詞」含みの歌が『小倉百人一首』中実に19首を占めるという数的重みからして、藤原定家がいかにこの修辞法を重視していたかを実感してもいる。この実感はもとより筆者の個人的感覚でしかないが、時を隔てた古人との対話は、古典的文物に触れる後代の人間にとって最大の愉悦の一つであり、既に物言わぬ相手となったいにしえの作者に成り代わって、多分彼らが口にしたであろう台詞を代弁してみせる演出家的な自由もまた、後の世の読者の特権なのである。
 三十一文字の和歌の小宇宙は、この点、構造的に多弁でないだけに、読み手の裁量でいくらでも雄弁な物語をそこに見出すことが出来るのが、大きな魅力である。そして、こうした対話を現に自分が昔日の文人との間で楽しめるからには、自らが世を去った後も、作品を通し、後代の誰かとの対話を通して、自分もまた末永く生き続けることが出来るのではないか(・・・きちんと世に残る作品さえ生み残しておけば・・・)との希望もまた湧いてくる。古典と向き合うことは、永遠と対話することであり、芸術に関わる者はみな不老不死の夢を見るものなのである。
 「序詞」の分析的検討については、こんなところで十分であろう。更に付言すべき事実があるとすればそれは、よく行なわれる「後続部導出役としての意味のみ持つ」という緩ーい「序詞の定義」からは、行平の第16番歌(「たちわかれ・・・」)が「序詞ナシ」と判定される一方で、意味の軽重を基準にしたこの判別法に従えば当然「序詞含み」とすべき元良親王の第20番歌(「わびぬれば・・・」)の「なにはなる」が、「五音の一句のみ」だからという愚にもつかぬ理由(あるいは、エラいセンセの誰もそれを「序詞」と指摘していないというもっと愚かな理由)によって「序詞ナシ」で済まされている、という例に見られるような、日本の古文・歌学の世界の非科学的にして先例墨守的な硬直的曖昧性の再確認用の例証が、「序詞」の検討を通して、豊富に入手可能である、という冷笑ものの事実、ぐらいであろう。
 ここらで、話をこの13番歌の作者陽成天皇に移すことにしようか・・・すると今度はまた、別の角度から、日本国・日本人・日本の文物というやつの、何とも度し難い姿が浮かび上がってくることになる。
 陽成天皇(第57代)は、父帝清和天皇の第一皇子として紀元869年1月2日に誕生。死没は949年10月23日であるから、80歳という長寿を全うした末の大往生である。が、それよりも特筆すべきは「65年間」という数字・・・これは彼が「陽成院」として過ごした上皇歴の長さ(当然、歴代第一位!)である。即ち、天皇を退位して後の65年間、彼は、光孝宇多醍醐朱雀・村上と、実に五代にる天皇の治世を、「元 天皇」として見送っている訳である。ともなれば当然、若くして天皇位を退いていることになる訳であるが・・・彼の寿命から引き算してみると:80-65=15・・・何と、実に、満15歳(巷間伝えられる「17歳」は数え年)で天皇位を次の光孝に譲っている計算になる!それでいて陽成帝の治世(元慶)は8年あるのだから、15-8=7歳(数えで「9歳」)にして彼は即位している訳だ(因みに立太子の時点では生後3ヶ月・・・)。今で言えば幼稚園を卒園してピカピカの小学一年生に進級したばかりの7歳の幼児に、国政をれる道理がない・・・当然、政治は、周囲の大人がることになる:かくて、陽成天皇の生母藤原高子の実兄である藤原基経が、政治を陰で操る黒幕となった。否、正確に言い直そう:自分が政治を牛耳れるように、わざと年端も行かぬ子供を天皇位にけた訳である:時に、先帝清和は27歳・・・舞台裏に藤原氏の陰謀の影を感じさせずにはおかぬ出し抜けの譲位劇であった。表には「天皇」を立てつつも真の実力者はその裏で黒子の如く権力を壟断し国政を思うがままに操るこうした「藤原摂関政治」は、中古日本政治の王道であるとともに、第二次大戦に至るまでの日本国の政治体制や、「本音建前」の二重構造で外界との間に築いた防御壁のこちら側でいくら不祥事起こしても「誠に遺憾の念に堪えません」などと言葉だけの謝罪口にしては心でアッカンベーと舌出して澄ましている現状の日本の幾多の組織の不誠実体質にまで延々と引き継がれている訳であるが、その基礎を築いたのは基経の祖父藤原冬嗣と父藤原良房、彼らの功績を受け継いでその家系(藤原北家)が朝廷政治を牛耳る確たる体制を固めたのがこの基経であった。彼は、日本の歴史上初めて「関白」に任じられて絶大なる権力を振るい、天皇さえも自らの意に従わせる豪腕を発揮して(阿衡の紛議など)、藤原北家中興の祖と称された。
 その基経が、幼年期を終えて思春期に入り今後何かと扱い辛くなって来そうな陽成天皇を廃して、自らの意に沿う光孝天皇(第15番歌の作者の彼は即位時既に55歳で、政治は関白たる基経に任せ、自らは宮中の文芸行事の復興に力を尽くした)系の皇統へと皇室の流れを転ずるために用意した「伝説」が、「陽成天皇暴君説」である。詳細は述べるに値するほどの創作的魅力に欠ける代物なので割愛するが、要するに「陽成天皇はヒドい乱暴者で、宮中でれた行動をたびたびしでかすビョーキの帝・・・だから、早々に退位させて、その位を別の者に譲らせる必要がある」という中傷である。ただ、藤原の連中のスゴいところは、この種の政治的思惑に満ちた作り話を、いとも平然と『日本三代実録』だの『新国史』だのといった「歴史書」と称する文物の中にいけしゃあしゃあと織り込むところ。この鉄面皮な意志の強さだけは、苟も(あるいは、賤しくも)政治に関わる者ならば誰もが見習うべきものであろうし、政治屋どもを相手にする際には万人が唾棄しつつも直視すべきらわしきものとも言えよう。これ以上くだくだとは言わぬが、科学的に冷徹な第三者の視線を有する知識人の参考に供するための資料として、宮中で起こったとされ、陽成帝退位の直接の契機となった「陽成天皇の乳母紀全子の子である源益の、陽成天皇による撲殺事件」の際、犯人とされた陽成帝は僅か14歳の少年であった、という事実のみを提示しておくことにしよう。
 「史実」というやつが、いつの時代にも、権力を握った側に好都合な事柄ばかり意図的に選別して後代に引き渡される「強者の履歴書」であるという真実は、何もこの日本国だけに通用する真理ではないのだが、その種の政治的偏向を自らの知的フィルターでふるい分けして見る選別的知性を錬磨する訓練を、殆ど受けていない(少なくとも、公教育の中ではその逆ばかり叩き込まれて調教されてきた)日本人の間には、当然「陽成天皇=日本のネロ(・・・Neroの伝説もまた、キリスト教徒への迫害者という彼の位置付けからみて、鵜呑みにするのは危険な要素を多分に含むものであるが・・・伝説は事実とは異なっても、事実とは異質の存在の重みを持って一人歩きするものだから、敢えてこの場で暴君の代名詞として使わせてもらうことにしよう)」という否定的なイメージが根強くこびりついてしまうこととなる。その結果として生じた(のかもしれぬ)もう一つの歴史の歪曲(可能性)を含むものとして、「清和源氏」なる呼び名をも紹介しておこう。
 「源氏」とは、皇室に生まれながら、臣籍降下して「源」の姓を賜わった氏族全般を指す呼び名であるが、どの天皇の皇子に起源を発するものかによって、「嵯峨源氏」・「村上源氏」などと呼び習わされる。その中で、後に源頼朝を初めとする征夷大将軍職を朝廷から拝命した源氏の一族が(有名無実な徳川家康をも含めて)名乗ったのが「清和源氏」である。その開祖は源経基(961-?)で、彼は長年「清和天皇の第六皇子貞純親王の子」とされてきた。しかし近年、この源経基は「清和天皇」系ではなく「陽成天皇の皇子の元平親王の息子」ではないかと疑わせる資料も見つかり、「清和源氏」は実は「陽成源氏」ではないか、との学説も提示されるに至った。
 この種の学説論争だの、血統だのに、筆者はさしたる興味も敬意も持ち合わせてはいない・・・ここでそれを持ち出す唯一の理由は、「(根拠があろうとなかろうと)大方の日本人が信じ込んでいる陽成天皇暴君説あったればこそ、一代前の清和天皇に起源を発する者の集団としての(これまた無根拠ながら世間での通りだけはよい)清和源氏なる呼び名が生まれたのではないか?」という物の見方が、この日本という国の物事の有り様を考える上では、かなり高い妥当性を有する知的判断の方法論たり得る、という事実を提示するため、である。
 いずれにせよ、そもそもが事実に敬意を表する姿勢のない者ども(それどころか、多くの場合、事実を報じられては立つ瀬がない者ども)の書き残した「史実」になど、警戒心抜きの敬意を表するのは愚かであり、危険である、ということだけは覚えておいて戴きたい。「古文書に根拠を求めずしては歴史の研究ができないから」という身勝手な理由に縛られて、「古文書に書かれている事は絶対に正しい」などという愚劣な知的短絡に自ら陥り、あまつさえ、他者にもそれを盲信させずにはおかぬ馬鹿で迷惑な連中が大手を振るって古今のさばるこの日本国にあって、筆者は、そんな根っこが腐った言の葉になど、鼻も引っかけぬクチであるし、そんな腐れ文書のインチキ文章などよりはむしろ、この第13番歌や、陽成院の息子の元良親王の第20番歌の方にこそ、真実を感じ取る立場の人間なのだ。
 そう、歌には多くの真実が籠もるのである・・・少なくとも、これらの歌は、藤原連中のゴタク並べた嘘っぱち(をほぼ確実に含む)『日本三代実録』なんぞよりも遙かに清純なる真正の輝きを放っている。彼ら親子の文芸的感性の輝きは、「14歳の天皇が、世間への復讐心に満ち溢れ八つ当たり中年犯罪者の如く、自分の乳兄弟にあたる親しい男子を宮中で殴り殺した」などという幼稚園児の告げ口の如き藤原氏レポートの愚かしさとは比較するのもおこがましいほどに、千年以上の時を隔てて今なおしい光を放っているのだから。
 最後にもう一つ、二つ、事実を加えて、この長い考察文の結びとしよう。陽成天皇がこの歌を捧げた相手の女性は綏子内親王(通称「釣殿宮」)。彼女は陽成帝の次代光孝天皇の第三皇女で、二代後の宇多天皇の同母妹である。生年不詳で没年のみ925年と特定されているが、兄の宇多天皇の生年が867年で、陽成より2歳年長であるから、妹の彼女は陽成と同年代だったことは間違いない。父光孝が帝位にいた884年に彼女は臣籍降下したが、兄が天皇位にいた際(891年)に内親王宣下を受けて皇族に戻った。この時点で陽成院は22歳:退位後7年を経ているが、男子としてはまさに青春真っ盛り、藤原北家まれて政治的には不遇とはいえ、未だ正妃ってもいなかった陽成院には、家格から言っても内親王たる釣殿宮相応しかったのであろう・・・以上の状況証拠から判断するに、この歌が彼女に贈られたのは彼女が皇族に復帰した891年以降(20代前半)の可能性が濃いように思われる・・・残念ながら、彼女は、陽成院との間に子を成すこともないままに世を去っている。いわば、この歌だけが、後の世まで残る彼女の忘れ形見、というわけである。
 そしてまた、後代藤原定家が恐らくは「序詞の理想型」としてまぶしく仰いだであろうこの「全編を流れる破綻なき一本調子の叙景の陰に、叙情の後景を宿す」第13番歌の他には、陽成院の作品はただの一首も世に残されてはいない。朝廷関係の公式の記録として、院の主宰による幾度かの歌合せが開催された事実だけが、ただ寂しく残っているのみである。

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