百一014解題)陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
『古今集』恋四・七二四(河原左大臣:かはらのさだいじん)(男性)

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解題

 初句・二句の「陸奥信夫捩摺り」は、乱れ模様を特徴とする東北の信夫地方の着物の染色法で、その乱調の視覚的イメージから後続部の「(心の)乱れ」を誘導する「序詞」の例として、この歌はよく引き合いに出される。
 文法的には、「乱れそめに"し"」の末尾が連体形になっている点、見落としがちだがこれは「誰(故に)」と呼応して疑問文を形成するための「係り結び」(・・・「係助詞」との呼応のみならず、疑問の語句と対応して「連体形止め」になる現象も「係り結び」と呼ぶのである)。その意味では、この部分で構造的に切れる「四句切れ」となる道理であるが、この連体形は結句に直結して{乱れそめにし}→<我>(ひどく心が乱れ始めてしまったこの私)と解釈すると錯綜的な味わいが出る。こうした場合は、機械的な文法分析よりも詩的味わいを優先する方が和歌の鑑賞法としては正しいので、敢えて「四句切れ」とはせずにおこう(そもそも「句切れ」という概念自体、いい加減なものなのだから、こだわる必要は全くない)。
 もう一つ文法的におさえておくべきは、結句末尾の「なくに」。これは上代に用いられた形で、中古以降での使用は主に歌の中に限られる。この「な」は打消助動詞「ず」の古い未然形であり、その末尾に「く」を付けることで「なく」全体を「体言」化する「ク語法」と呼ばれる上代特有の語形(類例:言はく/恐らく/思はく/老ゆらく/聞くらく/願はく/見まく)。この「我ならなくに」を中古文法で表現するなら「我ならざるに」となるが、優美ならざる「Z」の濁音を避けて柔和な「N」音に流れるのは古典時代の美意識である。
 美意識は、しかし、度を超してこだわり出せば底なしの暴走につながり、歯止めも効かない迷走を続ける。例えば、「濁音れに通ず」の意識があった皇室では、一族の男子にいで新たに皇族となる女性の名に濁音が含まれていると、親からもらったその大事な名をいとも容易く「清音に変更」するような真似をした(例:徳川「和子:かずこ」→「和子:まさこ」)・・・言葉の重み・名に対する真の敬意があれば、こんな芸当は出来るものではない:所詮「名は仮り」・「名ばかり」だからこそ、読み替え・付け替え思いのまま、というのが日本流言語意識なのである。「斎宮」(=天皇の名代として皇室の祀り神「伊勢神宮」に仕える皇族のうら若き未婚女性・・・当然、異性にされていない処女)だって、現代人が「さいぐう」と呼ぶところを「さいくう」と清音で呼ぶのが"古典風"であるし、伊勢の豊受大神宮の「内宮」・「外宮」も「ない"くう"」・「げ"くう"」であって「ない"ぐう"」・「げ"ぐう"」ではない。こうしたクネクネとした読み方の転変は、「音読み」もあれば「訓読み」もあれば「重箱読み」もあれば「湯桶読み」もあれば・・・と、文字の読み方に(西欧言語に比べれば)原則がなくどこかの誰かの恣意に任せてどうにでも化けてしまうみ所のない蒟蒻のような日本語にとっては、日常茶飯事のお茶目仕事。現代日本のうら若き女性アナウンサーだって、「デモ行進(demonstrative march)」の日本語版「示威行動」を「"しい"行動」と読んで「"じい"行動」とは言わない、というような芸当を(気を回し過ぎの報道局のおエラいさんか誰かの鶴の一声で)何の疑問も持たずにしこしことやっている(・・・「自慰行動=masturbation・onanism・マスき・オナニー・ひとりエッチ」の類推避けのための行為と知ってか知らずか、無邪気な顔をして、やっている・・・)。日本語というものは、古来、そういういい加減な使われ方をされ続けてきた言語なのである・・・この言い方が気に食わぬなら、「融通無碍なる可変性に富む世にもなる柔軟言語」という風に「政治的に正しい(politically correct)」言辞してもよいが、どう言葉を変えて言おうが、気分次第で好き勝手にコロコロ変わるルールの上で踊る言葉が日本語である、という事実だけは変わらない。・・・である以上、そんな言葉を日常の意思疎通の手段(更には、思考・感覚の拠り所)として生きている日本人としては、西欧人以上に、構造的に恣意に流れがちなこの国の言葉・決まり・振る舞いというものに対し、警戒的知性を錬磨し続ける努力を怠ることは許されないのである。そうした嫌味な真実を思い知る上で、日本の古典の世界には、大いに役立つ「他山の石」が、大量にゴロゴロ転がっている。
 さて、肝心のこの歌の意味の解釈であるが、「恋歌」として詠まれていることだけは解るものの、どういう状況・どういう心情を述べたものであるかは確定的には言えない。何らかの歌集に収める場合には、撰者が恣意的に思い付いた我流解釈を正当化するための「詞書」を自作して添えることで、他者の解釈に唯一無二の方向性を与えようとする(例の、身勝手を基調とするジャパネスクな)振る舞いを誘発し易いタイプの歌ではあるが、この筆者は、そうした一解釈者の分際弁えぬ越権行為を決して許さぬ詩人側に身を置く立場の人間なので、この歌に関し考え得る二通りの解釈を以下に提示するのみに留めおき、どちらを採るかは読者の好みに任せることにしたい:
1)何だか知らないけど、心が妙に乱れ始めた今日この頃・・・これって誰のせい?私自身のせいじゃないというのに・・・きっと、あなたのせい、だと思うんだけど(・・・だから、責任とって私と付き合ってくださいっ!)
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2)この頃私達の恋模様は少々乱れがち、以前のようにストレートに愛し合う関係じゃなくなってるみたい、って言うの?・・・うーん、でも、そうなったのは誰のせい?私のせいじゃないと思うんだけど(・・・だから、私の心変わりをなじるのはお門違いです)
・・・自分の心の軽さをなじって来た相手に対して、このように「あなたの方こそ、心変わりしてるんじゃない?」と切り返すのは、平安の世の貴人応答の典型的パターン(この後の『小倉百人一首』の中にも幾つか見られますから、お探しあれ)。心底悩んで詰問して来た相手に対しては、何の回答にも解決にもなってない卑怯逃げ口上に過ぎないのだけれど、日本人は古来、西欧人のように真正面から対峙して黒白付けたがる「confrontationists:タイマン上等!の敵対主義者」的振る舞いを無粋として、相手不在の如く受け流したり無視したりする(西欧人が一番キライな)タイプの「sway-backers:コンニャクネクネ逃げ打ち主義者」なのだから、ご自身そうだとご自覚のある御仁は、こちらの解釈をどうぞ。
 ・・・という風に可能な解釈二通りを並べてはみたものの、詩人的感覚で敢えて推断させてもらえれば、この歌は、要するに「陸奥信夫地方に"捩摺り"という乱れ模様の染め柄を特徴とする染色法がある」という異国情緒溢れる事情を、詠み手が、京都を離れたこともない都人に対して「びた蘊蓄」として示すためにこそ詠まれた歌、の感が強く、恋歌としての色彩はその添え物に過ぎないようである。この「みちのくのしのぶもぢずり」をり込む前半部の「序詞」だけが重要で、後続部の「乱れ始めた恋模様」にはさしたる意味はないように(詩人的感性には)感じられるのだ。「序詞」は普通、後続部の主意の導出役としてのみ働き、それ自体の意味はないものだが、この歌に関しては全く逆で、「気の利いた序詞を思い付いた・・・から、乱れ模様にまつわる歌を作って織り込もう」という安直な思い付きに踊る詠み手の浮き浮き・うかうかとした軽ーい気分が、歌の全編を覆い尽くしている。心から湧き出る情感をこそ詩の精髄とみる真面目な読者の感覚からすれば、何とも空疎な、口から出任せの言葉の響きを我ながら気が利いていると思い込んだ事のみが作歌動機の、つまらぬ歌でしかないのである。
 この種の芸当を、珍しモノ好きの言葉遊び歌人は、また実によく演じてくれるのだ。僧正遍昭あたりにも大変に多い「文言主役・意味脇役」歌であって、この歌の作者も(都人のよく知らぬ異国としての)「東北地方ヲタク」として有名なあの「源融」なのだから、この空疎感は決して邪推ではあるまい。ただ、そこに空疎を感じるのは現代的感性であって、「言葉遊びとしての和歌」が日常の社交の具として機能していた時代に、京都以外知らぬ都人に対し「見知らぬ地方の不思議な風俗」を紹介する歌として(「恋模様」の軽いオマケ付きで)披露されたこの歌には、平安期ならではの存在の重みもきちんと伴ってはいたのだ(平成期にはもはや文芸的質量ゼロだとしても)・・・その客観的パースペクティブをきちんと有した上で、つまらない歌と断じて切り捨てるなら切り捨てる、古典の文法や背景事情を知るためのダシとして使うなら使う、と、各人各様にこの歌に対する態度を決めればそれでよかろう。・・・因みに筆者はその昔、この歌を通して「我ならなくに」の「ク語法」を初めて知った:当初は「私なら泣いちゃうところだけど」と解して「???」と首をかしげたことが今では懐かしい・・・そうした意味でこれは個人的に思い出深い歌であるし、古歌の多くは、そうして個人的恣意タグ付けでもしてぎ止めねば軽すぎてどこかへ飛んで行ってしまうほどにもはや存在の重みを有さぬものなのだから、各人の好きなように扱ってあげればよいのである。これはそんな各人各様の扱いを許容する歌の典型である。
 この歌の作者「源融」は、嵯峨天皇(第52代)の息子(第12番目の男子)。嵯峨帝の代には皇族の大量整理が行なわれ、臣籍降下して「源」の姓を賜わる者が多く出たが、その中でも一番の有名人、かつ、最も出世したのがこの人で、最終的な位は朝廷最高位の「左大臣」(「従一位」。死後「正一位」を追贈される)。当時の政界の実力者は(位としては彼より下位の)藤原基経で、彼は、政治上の実権を握るために27歳の清和天皇から7歳の陽成天皇(第13番歌作者)に譲位させ、更に15歳になった陽成を「暴君」の風評と共に強引に退位させた後に、律しやすい55歳の光孝天皇(15番歌作者)を立てようとした。その際、源融は「皇統から言えば自分だって次帝候補だ」と名乗りを上げたが、「臣籍降下して再び皇位にいた例はない」との理屈で却下された(・・・のに、光孝の息子は一旦臣籍降下して「源定省」となった後、再度「定省親王」となってから「宇多天皇」として即位した・・・「日本のルール」というやつの度し難恣意性を示す無数の例の一つである)。こうして藤原一族が思うがままに牛耳る政治の世界からは離れたところで、風流人としての生活に(ヤケクソ気分も多分にあったろうが)明け暮れたことが、その後の文芸史の中で彼を有名にするのだから、皮肉なものである・・・この14番歌にもわれた東北地方にあった「塩竃(現代の宮城県中心部)」を模した広大な庭園「六条河原院(現 渉成園)」を京都に造営したほか(「河原左大臣」の二つ名はそこに由来)、十円硬貨で有名な「宇治平等院」も(後に宇田帝に譲られるが)彼の別荘であった。
 彼を初めとする嵯峨天皇の皇子に源流を発する子孫達は「嵯峨源氏」と呼ばれ、「一字名」(例:・・・)で有名だが、三代もたつと朝廷に於ける勢力は衰え、各地に散らばって武士となる者が多かった。末代まで光り輝く彼の遺影ということで言えば、あの紫式部の『源氏物語』の主人公「光源氏」が「源融」をモデルとするという伝説の方が上かもしれない。まぁ、「帝の息子が臣籍降下して"源"姓を賜わった」ということと「"融"も"光"も(ついでに言えば彼の息子の"薫"も)一字名であった」という程度の共通点から生まれた話で、さしたる根拠がある訳でもなく、また「源氏モデル」には他にも「源高明(第60代醍醐天皇の皇子)」だの「藤原道長(ほかならぬ紫式部を抜擢した当人)」だの複数の貴族男子がいるのだから、文芸的には大した重みを持つ話ではないのだが。
 むしろ、「風流人源融河原院に於ける豪奢な生活」が、後代歌詠みたちの懐旧意識に強く訴えたこと、の方が文芸的には意味ある話、と言えるであろう(第47番歌「八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり」by恵慶法師などは、寂れ果てた河原院をモデルにした歌である)。藤原氏という強大な政敵のせいで政治的不遇と不満を託つ人生を送った人物、というイメージゆえに、古典物語の中に登場する「河原左大臣怨霊」は、「時の権力者や武勇の者が威厳ある態度で対峙すると、すごすごと退散してしまう意気地のない物の怪」扱いだったりするあたりが、「昔日の栄華、いまいずこ」のパターン通りと言えば言える・・・のだが・・・賽の河原の向こう岸で、当の氏はどう思っていることであろうか?

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