百一015解題)君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ

君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ
『古今集』春上・二一(光孝天皇:くゎうかうてんわう)(男性)

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解題

 殆ど技巧らしい技巧を施すこともない素直な短歌で、万葉調の天皇歌の趣さえ漂うこの平安初期の歌の作者は、第58代光孝天皇。
 前代の陽成天皇は僅か7歳にして藤原基経に(当時27歳の清和天皇に譲位させる形で)担ぎ出された末に15歳で「希代の乱暴者につき、帝位に相応しくない」という風評と共に退位させられ、その跡を(長い長い皇太子生活を通じて親王が経験するほぼ全ての公職を経た末に55歳にして)継いだのが光孝帝である。この帝位継承を巡っては、14番歌作者の源融も「自分だって皇統だから、次帝候補だ」と名乗りを上げたところ、「一旦臣籍降下して"源"姓を賜わっておきながら、皇位に返り咲くなど、古今例がない」という理由で退けられている。要は、藤原基経が政治の実権を握るために御し易い天皇を立てたかっただけなのだから、ウルサ型の源融など最初から論外だった訳で、実際、光孝天皇の次代宇多天皇は、光孝の即位と同時に臣籍降下して「源定省」となった後で、父光孝が病気になったのを受けて再び「定省親王」に戻った末に帝位にいているのだから、「臣籍降下した後はダメ」もないものだ・・・が、権勢を握るための無茶苦茶な強弁は藤原一族のお家芸、その後も様々な屁理屈による曲芸的政治介入(・・・既に定子という正妃のあった一条帝への道長の娘彰子中宮入内劇等々)が、古典時代の日本史には乱れ飛ぶことになる。
 とにもかくにも、光孝天皇は、政治上の黒幕藤原氏にとっては「好ましい天皇」であり、先代の陽成帝を「最悪の暴君」として印象付けることで、自らが糸を引いた天皇交代劇を正当化しようという思惑もあって、藤原氏が作り上げた歴史関係の書物の中では殊更に「良い人」として描かれている。そのせいもあって、後代の人々にも「小松の帝」として親しまれ、評判が高い。この15番歌の素朴な味わいも「飾らぬ人柄の人間的に素晴らしい天皇」という印象の醸成に一役買っていよう。
 鎌倉末期、『徒然草』(1331頃)の中で吉田兼好は次のように書いている:「黒戸は、小松御門、位にかせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひけるなり。御けたれば、黒戸と言ふとぞ。」百七十六段「黒戸は」(宮中の「黒戸」は、小松の帝が帝位にかれた後でも、以前に臣下の立場にあった頃に身辺の細々とした雑務を自身で行なわれていたことをお忘れにならずに、常にご自身で行なわれていた部屋である。で煤けて黒ずんでいたので「黒戸」と言う、という話である)・・・宮中の雑務を自分自身で行なうほど天皇は暇ではないし、天皇にそんなことをされたのでは臣下の立場も仕事もあったものではない・・・ので、これは兼好法師の感傷的な作り話である・・・が、「それぐらい、とってもイイ人だったんだよ、小松の帝さんは」と、理知的な評論家の兼好を感傷に浸らせるほどに、いにしえの光孝天皇の世評は高かったということであろうし、北条執権政治最末期の室町直前期の政治状況はドロドロ、「あぁ、昔はよかったなぁ・・・」ということであろう。
 そんな「(黒幕の藤原氏にとって)とってもイイ人」の光孝天皇も、晩年には、理不尽に強すぎる藤原氏の権勢を好ましく思わずに政治改革を志すことになる・・・が、彼の代にはそれはわず、次代宇多天皇の世で、実力者藤原基経の死という好ましい状況の変化を受けて、(藤原氏に政治的実権を渡すことにつながる)「摂政・関白」は空位にしたままで、実力ある朝廷の重臣達(その筆頭は菅原道真)を重用しての各種改革という形で結実する(・・・後代、天皇主導型政治の理想型として「寛平の治」と呼ばれる)。が、その「寛平の治」で道真ら中央官僚が推進しようと試みた「地方豪族(主に、藤原氏)に私物化されていた全国の土地に対する朝廷支配権の復活」は、不満を抱いた地方豪族の反発で挫折、藤原時平の陰謀によって菅原道真太宰府に流されて無念の死を遂げ、以後、豪族による地方支配は既成事実と化し、中央政府の地方に対する支配は、各地に中央政府から派遣される地方官「国司受領)」(任期は四年)を介して間接的に行なわれるのみになる。
 国司は、地方税収のうちの一定率のみを国庫に収めるだけで、それ以外の税収の私物化を公認されていた(=合法的ピンハネが許された)ため、中小貴族にとってはこの四年間の国司生活が蓄財の絶好機となり、国司任命者を発表する「県召しの除目」(春の除目)は彼らの最大の関心事となった。そして、こうした「地位は低いが金持ちの成り上がり貴族」の娘たち(=受領の娘たち)が、当時としては貴重品の各種書物にいそしむことでその学問・文芸的実力を高め、やがて平安女流文学の担い手として、文芸史の前面に躍り出ることとなる。

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