百一017解題)ちはやぶる神代も聞かず竜田川韓紅に水くくるとは

ちはやぶる神代も聞かず竜田川韓紅に水くくるとは
『古今集』秋下・二九四(在原業平朝臣:ありはらのなりひらあそん)(男性)

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解題

 文法構造的に、この歌では、本来冒頭にあるべきものが三句目以降へと倒置されている。意味上の語順は「竜田川(が)韓紅に水くくる」とは「(ちはやぶる)神代も聞かず」となる。誰が決めたのか知らないが、古文業界では、こうした意味上途切れるもない倒置構造を含む歌に関し、前置された語句の最後の部分での「句切れ」あり、と呼ぶらしい。そうなるとこの歌の場合「二句切れ」と呼ばれる訳である・・・何ともおかしな話ではあるが、「自分は、この歌に、倒置構造が含まれていることを、ちゃんと見抜いたぞーっ!」という鬼の首でも取ったかのような自慢げな顔しての「倒置構造分岐点発見宣言としての"句切れ"」というのであれば、まぁ、それはそれで良いのであろう。英文法世界の厳密なる論理性に慣らされた者としては受け入れ難い非論理性ではあるが、彼ら古文業界人がこの「倒置構造を含む歌は、その倒置分岐点に於ける句切れを必ず指摘すること!」という約束事を常に律儀に守り続ける勤勉さを貫き通す覚悟があるのなら、当方としてもそれに従うにやぶさかではない・・・と言いつつ、彼らにそんな根性があるとは到底思えぬ筆者なので、「句切れ」についてはとやかくこだわらず軽く受け流しておくのが現実的、という指摘を以てこの話題にはケリを付けておこう。
 『万葉集』の時代には、眼前の自然の風景や内面の心象風景のみを言葉に出して言うものだった和歌というものが、全てを和歌で統一した初の勅撰集『古今和歌集』(905)が編纂される頃にはもう、実景を目にせず空想の中で思い描いたヴァーチュアル景勝賛歌や、素直な心の動きよりも精妙な言葉運びに主眼を置いた美響追求歌、掛詞縁語序詞といった「作るのにも見抜くのにもそれなり以上の語感や技巧が要る」仕掛けを含んだ謎掛歌の類が山ほど生まれ、「心の歌」から「コトバの詩」への変貌を遂げていた。
 この歌もその一例で、全くの「題詠」・・・作者がめているのは現実の竜田川ではなく、詞書には「二条の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風竜田川紅葉ながれたるかたをかけりけるを題にてよめる」(二条后がまだ「春宮御息所」と名乗っていた当時、邸宅の屏風に描かれた「竜田川紅葉の浮かぶさま」を題材に詠んだ歌)とある。
 短歌を究極の短編詩として賞美したい現代の文学的読者の目には、何とも空疎で物足りないインチキ歌と映ろうし、こき下ろしたい気分にもなろう・・・が、よくよく想像を働かせて欲しい・・・あなたが、さる高貴なお方の邸宅に招かれて、ご当人ご自慢の美麗なる屏風の前に立たされて、「いかがですかな、この絵のさまは?」と、得々とした顔で感想を求められたとして、一体あなたはどう応じればよかろうか?あなたに相当の絵心があったとしても、心で感じた美を言葉で賛美するには、視覚的芸術性に加えて卓絶した言語表現力が要る(舌で感じたワインの美味をフランス語の美辞麗句で表現するソムリエの労苦を思うがよい);だが、現実にはそんな才芸を二つながら持ち合わせた優れた芸術家などは稀少であり、双方ともに持ち合わせぬ凡人が人類の大部分を占めるのだ・・・が、それでも何でも何かしら返してやらねば、「いかがですかな?」と求めて来た相手に対して、礼を欠く・・・そんな時、重宝するのが、和歌による「返り言」という訳である。
 この種の題詠で最もよく行なわれたのは「屏風絵賛歌」。都を離れることもない高貴なお方の屋敷の中で、物語の中でしか知らぬ遠いどこかの名高き名所を愛でるためのスクリーンが、屏風・・・今で言えば、居間に居ながらにして世界各地の森羅万象を目にし解った気分にさせる電脳屏風の「テレビという名のスクリーン」に相当するもの・・・だが、現代の「視聴者」という名の暢気御公家さんたちは、「いかがですかな?」と問われた時に、気の利いた当意即妙の歌の返り言を、する/できる、であろうか?・・・その点だけでも、平安朝の安逸遊民たちの方が、まだしも能動的にヴァーチュアル体験を楽しんでいたことは間違いあるまい(まぁ、体験の数自体が桁違いに少なかったのだから、大事にしたのも当然、とは言えるが)・・・というわけで、この種の屏風歌をすには、自分自身、即興戯れ歌の一つや二つ、余裕で返す機知を持ちつつ、テレビの雑誌のインターネットのといった「今様屏風」と能動的に向き合う生活を送っておかねば、片手落ち、ということになろう。
 作者「在原業平」は、例の『古今集』「仮名序」の"最近の著名歌人6人寸評"の一人として「六歌仙」に組み入れられた人物だが、あまり実質に根差すとは言い難いこの"六大名人"の中にあって、この人(と僧正遍昭、及び、架空の可能性も高い小野小町)だけは、確実に、古今集直前期の和歌世界を代表する優れた歌人とみなしてよいであろう。そんな彼に関する紀貫之評は「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし。」(沸き上がる詩興はあるものの、言葉が不十分でしっかり伝わり切らない。花が既にしぼんでしまって視覚的に見るべきものが残っていない中、残り香だけが虚しく空中に漂っている、といった風情である)というもので、これは「僧正遍昭」に対する貫之評(見た目は美麗だが、中味に乏しい)と好対照を成すものである。多分に対置的表現を意識しての論評ではあろうが、なるほど、業平の歌は、技巧的な古今よりむしろ直情型の万葉の趣に近く、「(感じ方)」と「(書き方)」のどちらが大事か?という歌学論争永遠のテーマに照らして言えば、遍昭は完全に後者/業平は典型的に前者に傾く歌人、と言って間違いない。
 更に、この紀貫之による在原業平評には、もう一つ(日本文芸史上決定的に重要な)読み解き方が可能である:「三十一文字の短歌だけでは、結局、どういう意味がそこに込められているのか、よくわからない・・・ので、業平の歌の真意を知るには、その歌が作られた背景事情をも知る必要がある」・・・そのためには「詞書」が必要になる・・・「詞書」から「物語」を思い描く作業が必要になる・・・そうして散文による「詞書」が「三十一文字」の短歌を後景に追いやって主役に躍り出た「歌物語」こそが、あの『伊勢物語』なのである・・・という解釈が成り立つのだ。
 こうして読めば、貫之が業平の歌を「その心あまりて、ことばたらず」と評したのは、彼の表現技巧の稚拙さをしたものではないように思えてくる:貫之は、『伊勢物語』誕生の必然性を主張するためにこそ、「短歌だけで終わらせるのは勿体ない物語性をその背後に宿す歌、そして、歌人」として、業平とその歌を取り上げたのかもしれない。そうした脈絡でこの貫之の業平評を読むならば、「紀貫之」こそが『伊勢物語』を書いた張本人、という解釈もまた、至極自然に沸き上がって来るのである(・・・もっとも、21世紀初頭現在、そう断定すべき文献学的証拠はないのだが)。
 さて、その業平平城天皇の皇子阿保親王の息子(16番歌「たちわかれ・・・」の作者の在原行平の弟にあたる人物)で、通称「在五中将」。官位が「五位」だったわけではなく(死亡時56歳の最高位は従四位上)、"在"原家の"五"男坊で最高位は"中将"、に由来する呼び名である(ので、「在中将」と"五"を省く呼び方もある)。官位の低さは、在原家の政治的立場を反映したものとも言える(行平業平とも、血統上は天皇家の嫡流で、父方の曾祖父桓武帝・祖父は平城帝/母方の祖父は桓武帝・・・だが、当時の皇統は嵯峨天皇系に移っていた)。しかし、業平の場合、「天下のプレイボーイ」としての彼の素行にこそ、官位が振るわなかった理由あり、と見たくもなる・・・『伊勢物語』の"(むかし)男"として彼を見る場合、どうしても、そうなってしまうのだ。この17番歌の詞書にある「二条后」こと「藤原高子」は、後に清和天皇の女御として陽成天皇(13番歌作者)を生み「国母」となる女性であるが、彼女と業平の禁断の恋を題材にした『伊勢物語』(第六段:芥川)の短歌「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」などは、状況説明抜きには理解不能な「その心あまりて、ことばたらず」の代表例として、幾多の日本の高校生に「こんな話を知った上でしか解釈できないなんて、短歌ってめんどくさーっ!」の悪印象を与えてきた最たる作品であろう:実際には「歌だけでは解らないか印象が薄い短歌を殊更に選んで作った詞書の発展形としての歌物語」が『伊勢物語』であるという解釈の方が正しいのであるが、高校生のパースペクティブでそれを見渡せる者はであろうし、高校生に成り代わってその事情を説き明かしてくれる文芸的度量の広い古文教師が、これまでに何人存在したことか、甚だ疑わしい・・・。
 『伊勢物語』(の原形)の成立時期は『古今和歌集』より少し前、というのが定説である。「在原業平という色好みの一代記」としてこの作品を見るならば、彼の存命期間(825-880)より少し後、というのは論理的に妥当な推論であるが、既述した紀貫之(または、"貫之的な"和歌振興運動推進者)との関わりを思えば、貫之(的な動機を持った作家)の創作活動期である『古今集』成立と同時期に『伊勢物語』が成立していると見るのは、やはり、至極自然な想定のように思われる。
 現代でこそ、和歌(短歌)は中古日本文芸の華、とみなされているが、和歌の花盛りは、全編和歌より成る史上初の勅撰和歌集『古今和歌集』(905)以降の話であり、それ以前の日本に於ける文芸の中心は何と言っても漢詩であった。日本の政治的仕組みが中国のそれにったものであり、朝廷の公文書は「漢文」という名の疑似中国語であったことを思えば、一見不思議なこの文芸面に於ける和漢逆転現象も、納得できることである。中央官庁の役人登用試験に於ける「疑似中国語」駆使能力の重要度たるや、現代日本の大学入試に於ける英語の比ではなく、現代のように書店・学校・塾・インターネットに氾濫する外国語教材を通して語学にいそしめる環境もない当時の日本人にとっては、中国語を学ぶための教材は「中国語でられた著名作品(の写本)」であり、それは多くの場合、散文よりむしろ詩文なのであった。中国語で読み・書き・話すための「生きた語学」ではなく、文法構造の異なる中国語を日本人なりに解読するための「特殊読み」を(必要に応じて、例の、返り点を施したりなどしつつ)身に付けるための手段としては、一定の形式に則って調子良く整えられていて決して長くないだけに暗誦にも好適な「漢詩文」こそ理想的だったのである。このあたり、戦後間もない頃の日本人にとって、繰り返し繰り返し(係員の目を盗んで)ケツが痛くなるまで見て台詞や俳優の息遣いまで覚え込んでしまった「映画(の台詞)」という名の教材が、英語を身に付けるための拠り所となった、という事情によく似ていよう。
 そうして、入手可能な漢籍は限定されていた以上、中央の官僚を目指す日本人達の覚えこむことになる漢詩文は必然的に似たり寄ったりのものとなる・・・が故に、折に触れていてくる自然への詩的感興を表わす際にも、当時のエリート官僚たちは、その場に相応しい形での「昔覚えた漢詩の名文句の引用」という道を選んだ。そうすることで、「あ、それ、自分も知ってる!」という同僚官僚の共感を呼ぶことができるし、「おぉ、言われてみればなるほど、この場面にはやっぱ、あの文句、だよなー!お見事!よくぞ言ってくれた!」という形で当意即妙の蘊蓄を誉められて面目を施す場面も増えるし、逆に、他人は知らず(あるいはうろ覚えに過ぎず)に当惑するような深遠なる(ヲタクな)異国情緒溢れた漢籍引用で周囲を煙に巻き、以て自らの卓絶性を誇示する、という芸当もまた、漢詩文の引用合戦に於いては多発した訳である・・・こちらの芸当は、やがて和歌へと、及びその他諸々内輪ネタへと、媒体を変えて、現代に至るまで連綿と引き継がれることになる・・・先述の「映画」もやはり、共感確認のとしてよりむしろ、トリビア・クイズのネタとして排他的に活用する連中が、時代を追うに従って、増殖するようになる(文化の大衆化は、こうした「負」の副産物を数多く伴うものなのだ)・・・という次第で、平安前期の朝廷官僚にとっての「漢文・漢詩」は、決して大衆化せぬ選び抜かれた少数エリート達の間のみに通じる魔法の呪文であり、漢詩のみこそが彼らのステータス・シンボルだった訳である。
 『古今集』成立当時に於けるこうした「漢籍派」のうち、最大の大立者は、現代では「学問の神様・天神様」として有名な、あの菅原道真であった。下級貴族の出でありながら、その卓絶した学才ゆえに宇多天皇に重用された道真が、自作の漢詩と散文を集めた『菅家文草』(全12冊)を編んだのが紀元900年(903年には『菅家後集』一巻が、彼の太宰府への左遷・死後に、出ている)。これに先立って彼はまた、私撰集の形で(しかし実際には宇多天皇のを受けて)『新撰万葉集』(上巻:893年)をも編んでいるが、これを以て「漢詩派道真から和歌への歩み寄り」と見るのは正しくない:何となれば、この和歌集に於いて道真は、119首の短歌全てを、何とまぁ万葉仮名(=即ち、漢字の宛字)で表記した上で更になお、119首の全てについて、対応する漢詩文の七言絶句を配するという「万葉調和歌/漢訳詩並載」形式を採っているのである!自作漢詩撰を編むほどの漢学派の巨魁たる道真としては、単なる和歌集めに終始するような凡人にも出来る仕事(・・・全く同時期に、紀貫之ら『古今集』撰者達はそれをしていた訳であるが・・・)には何の価値も見出せなかったが故に万葉仮名研究者+漢詩翻訳者の役割まで演じてしまった訳である(『古今和歌集』撰者達への面当て、という訳でもあるまいが、貫之らがこの仕事を見て、何を感じたかは、想像に難くない)・・・天才は、仕事そのものには挑まない:仕事を通じて己の限界に挑み、自らの世界を(ついでに、自らが関わった他者の世界をも)広げ、深めて行くのである・・・そして、この漢籍派のライバル(と呼ぶにはあまりに巨大すぎる大碩学)の仕事ぶりが、和歌の旗頭としての紀貫之の創作意欲に火を付けた、との解釈は、決して無意味に高揚した戯作者的想像力の産物ではあるまい。
 とにもかくにもこの時代に、漢詩は、日本文芸史に於いて、菅原道真の手によってその頂点を極めた・・・が、頂点への到達はまた、崩落への序章でもある。道真が私撰漢詩集『菅家文草』を世に出した5年後には、初の勅撰和歌集『古今和歌集』が貫之らの努力の成果として世に出、これ以降、漢詩は日本文芸界の中核から滑り落ちて行く。道真自身もまた、901年、中央官庁の頂点から九州の太宰府の副長官(太宰権帥)へと左遷され、903年、同地で失意のうちにその生涯を閉じる。
 この「道真/漢詩文」の没落と、「和歌の台頭」とは、偶然にして時を同じくしたものではない。道真が都を追われたのは、官僚としての彼が強力に推進しようとした中央集権化政策に、各地で(本来は朝廷のものであった)土地支配を基盤に繁栄をむさぼっていた地方貴族(有り体に言えば、有力な藤原氏族)が、政治的策略を以てしっぺ返しを喰らわしたから、である。中央集権化とは、学才と実力で中央官僚となった知的エリートによる政治体制であり、その象徴的人物が「菅原道真」であり、象徴的文芸が「漢文という名の疑似中国語及び漢詩文」なのであった・・・が故に、その中央集権体制という(地方貴族にとって)好ましからざる事態は悉く排すべし、これと敵対するものはすべからく支援すべし、という流れが生じたわけでもあり、その勢いが文芸界にも飛び火して、副産物として誕生したのが『古今和歌集』・・・という見方も可能なのである。
 無論、「アンチ漢(詩)文/道真/中央キャリア官僚」という対抗意識だけで和歌集が成る道理もなく、和歌(短歌)そのものが日本の文芸風土の上で紀元900年頃には既にその発芽・胎動期を迎えていたという実質的事情も伴ってこその『古今集』成立ではあった訳だが、「中央集権国家から地方貴族優位の時代へ/漢詩文から和歌の時代へ」の流れを意志的・積極的に推進せんとする野心に満ちた著作が『古今和歌集』であった、というのは決して穿った物の見方ではない。そしてまた、そうした和歌台頭のための野心作として名を挙げ得る同時代の文物は、実に、『古今集』一つに留まらないのである。
 『古今和歌集』の中核的編者であった紀貫之が、「かな文字なんざ、女の書くもの。男はせっせと漢文書き!」という時代風潮を多分に意識しつつ、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」などと自らを女性に擬して書きった紀行文学『土佐日記』(935)こそ、「和歌の力を見せつけてやろう」とする彼の個人的野心作なのであった。かたや漢学派の巨頭菅原道真が威風堂々の『菅家文草』を出しているだけに、それへの対抗作としては「紀貫之自選和歌付き紀行文集」では弱かろう、と踏んだ上での虚構性、ではあったろう・・・が、これが実に見事に決まったわけである。現代日本の古典の授業で、道真の漢詩文を扱う学校はさほど多くあるまいが、『土佐日記』の冒頭部/最終部(とまれかうまれ、とくやりてむ)だけは凡そどんな教師も教科書も、まず避けては通るまい。和歌が、漢(詩)文を、完全に打っちゃっている訳である・・・その契機を作ったのが、他でもない貫之なのであった。
 かくて、自らを女性に仮託しての紀行文を通して和歌(ひいては、日記文学)の隆盛を導くのに見事成功した紀貫之であるが、果たして彼の「仮面の文学」は、この『土佐日記』止まりであろうか?自らの土佐への任官という実地体験を下敷きに、仮想女性の人生を和歌のタペストリーの中にれ織りにして見せた貫之の虚構的創造力にとって、自ら編者として携わった『古今和歌集』の四桁にも及ぶ膨大な和歌の数々(正確には1111首)は、まさに宝の山だったである。
 良い和歌の背後には、それぞれの物語がある。あるいは、良い和歌そのものが、その背後に独自の物語世界を生み出す、と言ってもよい。そうして、幾つかの和歌をれ織りにすることで、本来この世に存在してもいなかった「伝説の歌人」を生み出すことだって、十分に可能なのである・・・「六歌仙」と呼ばれる人物のうちでも、「小野小町」と「喜撰法師」にはその匂いが極めて濃い(仮にそうだったとして、前者は大成功例/後者は惨めな失敗例、であるが)。そして、同じ芸当を、実在の、有名な、そして既に世を去っている(が故にあれこれうるさく虚構作者に対して注文つけて来ることもない)人物に関して、演じることもアリ、だろう・・・和歌の隆盛を見るためならば・・・そう紀貫之が考えた場合、白羽の矢を立てるにうってつけの人物が「在原業平」であり、そうして作られた"巨大詞書集"こそが『伊勢物語』だった、という推論も、ごく自然に成り立つのである。あるいは「業平歌」の、独力では成立せぬ注釈付記の特異性を、『古今集』編集作業を通じて痛感したからこそ例の「仮名序」の批評があり、『伊勢物語』制作の必要性があったのだ、という言い方も可能であろうか。「小野小町」という女流歌人の人生が、『古今集』に収められた18首の「小町歌」だけからでも(否、例の9番歌「はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」のみからでも)十分に浮かび上がってくるのに対し、業平の人生は大作物語を通して語られることを求める幾多のエピソードに満ちていたし、彼の歌そのものがそうしたエピソードの中の小粋な小道具としての性質を強く有してもいたのである。
 「紀貫之=伊勢物語作者説」は、斯道の研究者の積年の探求活動を経てなお、確たる文献学的証拠が見つかっていないものである・・・が、実際のところ、『伊勢物語』の作者が紀貫之であろうがあるまいが、それはさしたる問題ではない。要は、日本の漢詩文が菅原道真によって頂点を極めたのとほぼ同時期に、日本の和歌(短歌)の隆盛が起こった ― それも、多分に意志的な創作動機に基づく三つの作品:『古今和歌集』・『伊勢物語』・『土佐日記』という起爆剤によって ― という事実、そうした「漢詩文から和製短歌への文芸主流交替劇」の演出を、政治的にであれ文芸的にであれ、ともかくも意志的・積極的に推し進めた人物が、存在し、そして大成功を収めたからこそ、以後の長きにる和歌の繁栄があったのだという事実、そして、業平の歌がその人物と女性遍歴にまつわる背景事情の物語抜きには成立し難い特質を、『古今和歌集』「仮名序」の中で紀貫之は明確に指摘しているのだ、という事実を、しっかり認識しておけばそれでよい。
 もっとも、在原業平は、他者(紀貫之であれ誰であれ)の手によって『伊勢物語』の主人公に擬せられた、というだけのことで、上述の和歌台頭劇には何ら主体的役割を演じてはいない。貫之の『古今集』「仮名序」での嘆き「今の世の中・・・あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に、埋れ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり。」(昨今・・・和歌は、浮ついたもの、本気で詠んだわけでもない軽いものばかり出てくるので、女性を口説くのに和歌を以てするようなタイプの男の私邸の中、男女の秘かな言葉遊びに終始する形で交わされては人知れず消え去ってしまうような代物へと落ちぶれ果てて、公式の場に ― 漢詩文のように ― 堂々と出すべき文物でもない、ということになり果ててしまった)が、最もよく当てはまる人物が業平であったことはまず間違いあるまいが、この嘆きの背後にもやはり、貫之の創作的打算が隠れているのかもしれない・・・その「埋れ木の人知れぬこととなりはて」た和歌を巡る男女の恋愛模様をも掘り出そうとする意志的試みが『伊勢物語』なのですよ、という主張をそこに読むことも、できないではないのである。
 かくて、「こんな良い詩を、女の専売特許にしておいたら勿体ない」と思わせるために『土佐日記』を、「こんな良い詩を、男女の秘め事の単なる小道具だけで終わらせては勿体ない」と思わせるために『伊勢物語』を、そして「こんな良い詩を、外国語で書かれた漢詩の陰に、埋もれさせては勿体ない」と思わせるために『古今和歌集』を、それぞれ意志的に用いたのだとすれば、紀貫之こそは日本文芸史上最強の名クリエイター/辣腕プロモーターということになろうし、彼(を初めとする少数の人物たち)の意図的努力にらずして事が運んだのだとすれば、紀元900年をんで起こった漢詩文→和歌の主流交代劇には、奇跡に近い幸運な巡り合わせが作用していたとして賛嘆するより他はない。
 在原業平の歌の解題が、彼よりむしろ紀貫之、そして、貫之の創作意欲を多分に刺激したであろう菅原道真を主役とする文章に化けてしまった・・・歌そのものよりもそれにまつわる物語こそが主役として浮かび上がるタイプの歌人、という脈絡で言うならば、「むかし、男」こと業平面目躍如たるものがある展開、ということで御納得いただこうか。

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