百一018解題)住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ
『古今集』恋二・五五九(藤原敏行朝臣:ふぢはらのとしゆきあそん)(男性)

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解題

 修辞法的にも、文法・文化史・そして文芸的にも、見るべきものがとても多い歌です。
 「住江」とは今の「住吉」で、和歌にしばしば詠い込まれる景勝の地。現代では、この種の和歌と縁の深い名所のことを「歌枕」と呼びますが、この「土地」に限定した用い方は平安後期以降のもの。元来は「和歌に詠み込まれることの多い名所・歌題・枕詞の解説本」のことを「歌枕」と呼んだものが、「和歌でお馴染みの名所そのもの」という狭義に転用されたものです。そうした後代の「歌枕」は、その場所に因む昔の和歌(あるいは、物語)の情趣や表現を連想として伴うようになったので、その地名一つ引き合いに出すだけで、「あ、これは、例の・・・の感じ、だな」というイメージ想起効果を生じます。例えば「末の松山(を越さぬ波)」と言えば「海岸線から離れているために絶対に波が越えない・・・と同様に、愛情が深いので絶対に心変わりしない」の連想が浮かびますし、「須磨」と言えばそれだけで「(現実世界の在原行平や虚構世界の光源氏らが)左遷されて失意のうちに身を置く流讁の地(・・・両名とも後に都に復帰しますけど)」という物寂しい雰囲気を演出することができます。地名以外でも、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(『後撰集』雑一・一一〇二・藤原兼輔)の歌にんで「心の闇」=「子供を思うあまり冷静な理性の判断力を失うこと」の意味になる場合なども、原義に忠実に従えば、広義に於ける「歌枕」の一種と言えます。
 この歌に詠み込まれた「住江住吉」は「浜辺を縁取る松林が美しい名勝」で、「住吉、と言えば、松・・・転じて、待つ」の連想は古典時代の約束事・・・鎌倉時代の作り物語『住吉物語』(1220年代に、平安調文体を模した擬古文で書かれました)も、単に「継母虐げられた不遇な姫君が住吉に逃げた」というだけではなくて「住吉の松・・・じゃないけど、かつて都で自分に優しくしてくれた少将殿が、自分を救い出しにやって来てくれるのを・・・待つ」という含みをもたせた題名です。この18番歌の中にも「住江・・・住吉・・・松・・・待つ・・・あなたに逢えるのを」の連想が働くようになれば、あなたも立派な「歌読み」です。
 そうして、愛しい相手が自分の所へやって来てくれるのを「待つ」人は、さて、「男性」でしょうか「女性」でしょうか?平安前期という文化史的脈絡を加味して考えてください・・・「詠み手藤原敏行は男だから、男性!」なんてカンニングペーパーき込んだ解答はダメですよ・・・答えは「女性」でした(敏行が女性の立場で詠んでいるのです)。当時の恋愛・婚姻形態は「妻問婚」、家で待つ女性の許を、彼女の恋人(又は夫)となった男性が(自分の都合の良い時に)愛しに立ち寄る」という(男性にとってのみ一方的にオイシそうな)かたちを取っていました。最初は男性が女性に和歌を送り、女性が返歌をする、という優雅な文通のやり取りから始まり、歌を通して女性から気に入ってもらえた男性(のみ!)は、やがてその生身の女性の居るお部屋への出入りを許されるようになります。歌がショボいと見向きもされません:ですから男子は必死に綺麗な歌詠む力を磨き(あるいは代詠名人の手下を雇い入れ)、短冊に思いを託しての女性への呼び掛け(=呼ばひ)を重ねた訳です。そうした「呼ばひ・・・婚ひ・・・夜這ひ」の末の男女の逢瀬が定期的に三度も連続すると、晴れて婚儀成立とみなされたそうです(・・・もっともこれは貴族のご令嬢のお話で、一般人の場合はもっと略式だったようですが)。娘さんのお部屋は、邸宅内でも「母屋」の脇っちょ(=)に作られたので「端屋・・・妻屋」と呼ばれ、この意が転じて、結婚を通して結ばれた男女のことを「つま(妻・夫・・・古語の場合、男女双方に言及し得る語)」と呼ぶようになりました。もっとも、そうして苦労の末に娘さんの心を射止めた男性は、彼女の「妻屋」に同居する訳ではありません:夜に愛しに通って来るだけです。妻と夫の同居生活は、宮中で共に暮らす天皇・皇后や、地方官として夫婦ともども赴任する「国司」夫妻などの例外的な場合だけで、一般には別居生活。当然、男性の足が遠のくこともあります。当時はまた一夫多妻制でしたから、自分の夫が自分だけの男であってくれるとは限らない訳で、待つ身の女性としては気が気じゃなかったでしょう・・・今夜は来てくれるかしら?・・・今夜も来ないのかしら?・・・今夜はどこに居るのかしら?・・・これから私はどうなるのかしら?・・・このあたりの息詰まるような女性の慨嘆をき込みたければ、『蜻蛉日記』(974)にられた「藤原道綱母(53番歌作者)」から夫(藤原兼家)への恨み辛み嫌み嘆きの数々を御覧あれ・・・強烈なやつが見られますから。
 「一夫多妻制」に「妻問婚」・・・現代女性から見れば何とも凄まじい(男性から見れば、ましい?)お話ですね・・・男尊女卑の現われ?いえいえ、事実はその逆で、「妻問婚」が見られるのは母権の強い女系社会と相場が決まっています。中世以前の日本の社会も、意外に思われるかもしれませんが、母方の家系(特に、その財力)が大いにモノを言う社会構造だったのです。解り易く言えば、中古(平安時代)の男子の場合、(朝廷の官位などの)社会的地位は父から継ぎ、財力は結婚した妻(の家)から継いだのでした。逆に女子の場合、社会的地位は結婚した夫から/財力は自分の実家から継ぐ、ということになります。古典時代最大の権勢家として即座に思い浮かぶ藤原道長の場合なども、社会的地位は父親である藤原兼家(『蜻蛉日記』の中で道綱母がケチョンケチョンに書いているあのヒトです)譲りです(・・・と言っても五男坊なので、あれこれ豪腕発揮して奪い取らねばならなかった訳です)が、財力の後ろ盾正妻である源倫子の家系でした。彼女は道長より二歳年上の「姉さん女房」。道長自筆の"国宝"『法成寺摂政記』(通称『御堂関白記』・・・実際の道長は「関白」位にはいてませんけど・・・)の中で彼は、妻である倫子さんのことを「女房」と書いていて、現代的な意味での「女房」の生みの親でもあります。その倫子さんの父親は左大臣(=朝廷官位の最高位)の源雅信で、道長の父兼家ぐ唯一の実力者でしたから、その財力を妻を通して引き継ぐことになったことが、道長のその後の豪腕出世大作戦の原動力ともなった訳です(・・・それと、彰子(一条天皇中宮)/妍子(三条天皇中宮)/威子後一条天皇中宮)と、後に全員が全員天皇の奥様になる「一家立三后」の娘たちを倫子さんが産んでくれたことも)。
 そうした次第で、平安時代の一夫多妻制や、男性から(複数の)女性に対する「呼ばひ」は、単に有り余る恋情の産物というようなカサノヴァ(希代の漁色家として有名なイタリア人作歌Giovanni Jacopo Casanova:1725-1798)的動機によるものではなく、経済基盤の安定を図りたい男性側の思惑と、より高い社会的地位を目指す女性側の思惑とが、うまく折り合った"win-win situation(双方に利点ありの状況)"でのみ成立する性質のものだった訳です。そしてその状況下に於いて、「呼ばふ」側の能動的存在は常に男性であり、女性はいつだって受動的存在の「住吉の松・・・待つ」だったのです。
 上述の文芸・文化史的事情を根拠に、「住江の」の文言一つだけで「詠み手は女性」・「恋人(夫)の男性が来てくれるのを待つ」と決め付けるのは危険、と思う人もいるかもしれません。それは確かにその通りで、これを「男性側から詠まれた歌」と解釈してはならぬという絶対的な根拠はこの歌の中には一つもないのです。が、「幾度"呼ばひ"をかけても逢おうとはしてくれない女性のつれない気持ちを嘆く男性」の歌だというのなら、「男なら、文句を言う前にせっせと更に秀歌の一つでもひねり出してりずに彼女に贈る能動的努力をしたら?」と言いたい気にもなるので、これが「男歌」だとすればあまり男らしくなく、素敵な感じも薄らぐような気がします。既にもう幾度かの歌の贈答を経て、生身で逢う体験もしていて、「通ひ路」自体はそこに開いているのに、その道を通って男性が女性の「妻屋」へと立ち寄ることがなくなってしまったのが悲しい、というほうが、歌の味わいが増すから、そう解釈したい、という程度の純私的な詩的思惑からの「男性歌人による女性仮託詠み」説でしかない、ということはお断わりしておいた上で、この歌の後半部の解釈に入ることにしましょう・・・まずは、当時の「夢の歌枕」の文化史的理解から。
 『古今和歌集』(恋二・五五三)に小野小町のこんな歌があります:「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき」(浅い眠りの中、恋しいあの人と逢う夢を見た・・・その時以来、現実には逢えないあの人との「夢の逢瀬」というものを心待ちにするようになってしまった私です)。普通の恋愛ならば「頼む(・・・お願い、来て!と願う)」べき相手は「男性」そのものですが、この小町歌の場合、「夢てふものは」の文言が、言外に「現実の彼にはもはや頼みをつなげない」の余情を漂わせています。いかにも小野小町らしい春霞のような妖艶さですが、この「恋しさ余って夢路に現わる」というのは当時の人々に共通の俗信だったようです。そこにこの小町歌の風情が加わると、「現実には逢えない・・・のだから、せめて夢の中でぐらい逢いたい」という「夢に関する歌枕」が生まれます。藤原敏行が哀れなる女性に仮託して詠んだこの歌の場合は、しかし、その「夢の通ひ路」に於いてさえ「人目避く・・・愛しいあの人は、私の目を避けるかの如く、来てはくれない」のです。
 その「夢の中で"さえ"逢ってくれない」の「さへ」は、この歌の場合「夜"さへ"」の部分に織り込まれています。純然たる意味の上から言えばこれは非論理的で、愛しい男性が妻屋で待つ女性に逢いに来るのは「夢の中」であろうと「現実の部屋の中」であろうといずれにせよ「夜」なのですから、「"夜"さへ」は本来矛盾であって「"夢"さへ」が正しい訳ですが、後続部「夢の通ひ路」で「夢」は出て来ることになるので重複になりますし、直前部「岸に"寄る"波」が「序詞」となって導き出すべき後続部の出だしとしても「"夜"さへ」の方がよかろう、という歌詠み的判断でここはこうなっているのだ、と思えばよいでしょう(・・・歌学は科学の論理では割り切れぬ特異点を多く含む言葉の小宇宙なのですから)。
 もっとも、この「夜さへ」のせいで、この歌を現代語訳する場合、「夜」と対照した「昼」をどうしても意識せざるを得なくなり、「昼日中に会えないのは仕方ないにしても、夜の夢の中でさえ会えないのは、辛いです」との解釈が生まれてしまいます・・・先述の「妻問婚」という文化史的事実に鑑みれば、夜の夫婦生活以外は別居している平安時代の男女にとっては、「昼日中に会う」こと自体、最初からしない(昼間は貴族とて仕事場で働いている)訳ですから、この「昼間はともかく、夜ぐらい逢いたい」というのは間違いな訳ですが・・・千年の時を越えて現代にまで生き残っているこの恋歌に、昼間の出会いの中でのときめきを基本線とする現代男女の恋模様を重ね合わせて「日中には私を避けてもいいわ。けど、夜の夢の中でぐらい私に会ってくれてもいいでしょ?」と解釈するのを、鬼の首でも取ったかのような得意気な顔して否定するのは、詩の愉しみ方としては間違っていると思います:「歌は世につれ、人につれ」その解釈も変わるものなのですから(・・・学術的古文研究者や歴史ヲタクや余程性格の悪い人ならば、そうした否定で他者の揚げ足取りをして点数を稼ぐのも間違いではないのでしょうけど・・・)。
 「岸に寄る波」という語句もまた、同音「よる・・・寄る・・・夜」を通して後続の「夜さへや夢の通ひ路人目避くらむ」を導き出す「序詞」つまりは単なる「誘い水」というだけの役割以上の意味を含む岸辺の砂のように重いもので、まず「岸辺では、波は幾度も寄せては返す」という自然的情景のイメージが、「私の部屋には、貴方はちっとも立ち寄ってくれない」と残酷な対照を成しています。「寄る波」にはまた、「(貴方が私の部屋に)寄る(事)無"み"/(二人で過ごす)夜無"み"」として「夜のあなたの立ち寄り機会がない"ので"(・・・もう夢にすら思い描けない)」という(多少強引ながら詩的連想としてはアリ、な)「理由を表わす"み"」の解釈も可能でしょう。そこまで連想が広がれば、「岸に→来しに・・・かつては来てくれた、というのに、今は・・・」へと想像をしくするのも悪くはないでしょう。こうした想像は、出来ない人達は一様にそれを否定しますが、出来る人ならいくらでもしてよいのです:詩的想像とは、私的創造として生まれるものなのですから、古文の授業や学術論文の中ではお目に懸かれない解釈だって、自分的にアリなら(余程の無理がない限り)それでよいのです。
 この歌で、教場文法的に最もオイシイのは、末尾の推量助動詞「らむ」でしょう。普通なら「・・・だろうか?」と訳してそれでおしまい、でよいのですが、この歌の場合はそれだけでは意味が通りません:試しにやってみましょうか?「夢の中ですらあなたは私に逢ってくれないのだろうか?」・・・こんな疑問文を持ち出すまでもなく、実際「夢の中ですらあなたは私に逢ってくれない」訳ですから、この解釈では足りません:「"どうして"夢の中ですらあなたは私に逢ってくれないのだろうか?」として、疑問詞「など・などか・なにゆゑ(why)」等を補って解釈する必要のある「らむ」なのです。・・・え?「なぜ"など"がないのか?」ですって?・・・だって、入れたら字余りになって見苦しいでしょ?だから入れないんです。・・・え?「字余り避けのために文法を崩していいのか?」ですって?・・・ええ、いいんです、歌の場合、それで。言ったでしょ、「歌学は科学に非ず」って。・・・「歌に合う」、ただそれだけで「理屈に合わぬ」こともアリなんです。この種の用法の「らむ」は、『小倉百人一首』でも恐らく一・二を争う人気者の第33番歌(紀友則)「ひさかたの光のどけき春の日に(・・・など・などか・なにゆゑ・・・)しづ心なく花の散る"らむ"」にも見られるほか、散文にも飛び火する形でごく一般的に用いられます。古文の大学入試問題でもあちこちの受験生の答案を炎上させてる厄介な文法的火種なので、これら名歌に絡めて手懐けておきましょう。Fire is the worst tyrant and the best servant.火は猛威を振るえば最悪の暴君ながら、従えてしまえば最高の手下になります。歌の末尾の「ラム」の場合、隠し味の「ナド」と混ぜるとより味わい深いカクテルが出来上がる・・・秀歌に酔うには必須のこのレシピを、どうぞお忘れなく。
 更にもう一つ、修辞法上の指摘を加えておきましょう。「岸による波」の「寄る」は、同音の「夜」を介して、夜に見るものとしての「夢」との間で連想の関係でつながります。このように、直接の意味のつながりではなく、間接的なイメージのつながりで結ばれる語句どうしを「縁語」と呼びます。よく間違っている人がいるのですが、直接に意味がつながる語句どうしは「縁語」とは呼びません:それは単に「主語―述語」だったり、英語で言う「collocation:並置・連語関係」だったりするだけです。あくまでも中間に第三の語(または、第三の意味)をんで間接的につながる関係でなければダメです。例えば、「車」と「走る」という語の間には単純な「主語―述語」の関係が成立するだけですから、これら二語が並置されていたからと言ってそれを「縁語」と呼ぶことはできません;が、もし「くるま」と「はしる」の間に第三の語句/意味が介在していれば、非直接的なこれら両語の関係は「縁語」になります・・・ですから、次の歌 ― この18番歌の脈絡と修辞法に敬意(homage・オマージュ)を表しての筆者の自作歌です ― などは「縁語歌」ということになります:
 来るまでも 然ぞや走らむ 我が心 来じの思ひに 斯く焦がるらむ
 (「これから君に会いに行くよ」とあの人に言われ、来てくれるのを待つ間でも、こんなに激しい胸騒ぎを覚えることはないだろうに、「会いに来てくれないのだろうなあ」と思うと、なんでこんなにも胸が焼け焦げるような気持ちになるのだろう)(C) fusau.com 2009
 「来るまでも」が「車でも」を間にんで「走らむ」との間で「縁語」関係になります(古語の「(胸)走る」は現代語の「胸騒ぎがする」の意です)。この歌にはもう一つ、「思ひ」と「焦がる」の間に縁語関係が含まれます。と言っても、「思い」に胸「焦がれる」では直接的結合になってしまうので、そんなものを「縁語」とは呼びません:「思」の中に含まれる「」の文字が「」へと飛び火して「焦がる」まで延焼した時点で初めて、「思"ひ"」が「火」を介して「焦がる」につながる「縁語」となるのです。・・・え?「思ひ」の読みは「オモイ」であって「オモヒ」ではないのだから「ヒ」転じて「火」もないものだろう、ですって?・・・はい、私もそう思わぬでもないのですが、古語の世界ではこの「思ひ」→「火」の強引なる掛詞はお約束となっておりまして、受験生が焼け死なぬための火災報知器としても、この際だから紹介しておいて、試験答案上の消火活動に役立てようと思ヒました。あ、ついでに、「など」など「かく」の前に書くと最後の「ラム」の味わいが一層引き立ちますのでお試しあれ。
 この歌の修辞法解説を手前味噌で締めるのは少々気が引けるので、最後にもう一つ意外な縁語関係を本歌から紹介してとどめをさしましょう:「夢の通ひ路」の中には「(かよ)ひぢ」の文字が含まれていますが、これを「泥」と読めば、波打ち際の泥土との連想が生じ、そこから「ひ路」→「泥」→「岸」の「縁語」が浮かび上がります。「ひぢ」は現代人的には「肘(elbow)」でしょうけど、「新撰組副長、土方歳三(ひじかたとしぞう)」の「土方(読み方によっては"どかた")」に絡めれば「土いじり担当」のイメージで土木関係の「ひぢ・・・泥」は心にへばりついて離れないでしょう。ついでに、同じ「泥」と書いても「こひぢ・・・水溜まり」と読んで「恋路」に引っ掛ける懸詞も古歌には頻出しますから、雨の中を傘投げ捨ててビチャビチャ水弾きながら恋の喜びに踊り狂うジーン・ケリー(Gene Kelly)の"雨に唄えば(Singing in the rain)"に絡めて覚えとけば?ともお勧めしときましょうか。
 ・・・とまぁ、極めて密度の濃い文化史・文法・修辞法そして歌の味わいを含むこの第18番歌の作者、藤原敏行は、和歌の名手であると同時に書道名人としてもあの「弘法も筆の誤り」の格言で有名な弘法大師(空海)と並び称されるほどの人でした。文芸関係のつながりでは、11番歌(「わたのはらやそしまかけてこぎいでぬとひとにはつげよあまのつりぶね」)作者の小野篁(彼も能筆家として有名)とは義理の兄弟にあたります:妻(といっても六人もいたのですが)の一人の父親が小野岑守で、この人はの父でもあるのです(と言っても同じ母親から生まれた兄妹かどうかは不明なのですが)。また、あの『伊勢物語』の「むかし、男」こと日本のカサノヴァ在原業平(17番歌「ちはやぶるかみよもきかずたつたがはからくれなゐにみづくくるとは」作者)とも「縁語」的関係にあります:藤原敏行の妻(のうちの一人)が、在原業平の妻(のうちの一人)と同じ父(紀有常)を介してつながるので。そうした文芸的華やかさとは裏腹に、当時の多くの一流歌人の例に漏れず、この敏行さん、官位はさほど高くなくて、最終的には「右兵衛督」(従四位上)。・・・やはりこの人を語るには、歌を以てするのがよいでしょう・・・ということで、締めにもう一首、彼の名歌をば:
 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」・・・『古今集』秋上(一六九)の冒頭を飾るこの歌には、「秋立つ日よめる」の詞書が添えられており、暦の上での立秋(現代の太陽暦で言えば八月八日)に、周囲の景色は相変わらず夏色だけど、吹く風のさりげない涼しさに体表感覚で秋の到来を知る、という、「夏/秋」の二つの季節の移り変わりを「視覚/触覚」という二つの感覚に絡めた理知的技巧を織り込んだ「古今調」の歌。紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑という四人の編者と並んで、藤原敏行もまた古今時代を代表する名歌人(入集数19は編者を除く歌人全体の第四位)だったことが、この秀歌一つだけからも十分に伝わってきます。織り込んだ秀抜な技法(+関連学習事項の豊富さ)という点で言えば、18番歌は更にその遙か上を行くのですが。

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