百一024解題)このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに

このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに
『古今集』羈旅・四二〇(菅家:かんけ)(男性)

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解題

 「このたびは」は「この旅は」と「この度は」の掛詞で、以前にも同じ旅に出たことがあることを示唆する。この時代には、旅人が道中の安全を祈って自分の大事な何かを神に献納する習慣があった。山中では、多く、道の分岐点に「道祖神」がられており、そこに、当時としては貴重品の(多く、色付きの)麻・布・紙などを細かく切った「」を「献納=手向け」した・・・この歌の「たむけ山」とはそうした「道祖神のいる山」を指し、具体的な山の固有名称ではない・・・が、「今回の旅は、そのも間に合わなかった」というのである。その代わりに、「絢爛たる山の紅葉の錦」を「カラフルな」に見立てて「手向け」して、道中の安全は「神のまにまに・・・神様の御意志のままに」という趣向である。
 自然が織りなす山の紅葉の美しさを、人の手で織られた綾錦と対比して、前者に軍配を揚げるこの漢文の対句に似た修辞を更に際立たせるために、「も取り敢へず」の部分を「あまりにも美しい紅葉の錦を前にすると気が引けて、色取り取りの絹を千切った山路に散布すべく"手に取ることすらも出来ません"」と解すべきだとする意見もある・・・「このたびは」との相性が悪い嫌いはあるが、これはこれで面白い解釈ではあろう。
 この歌を収めた『古今和歌集』の「詞書」には、「朱雀院のならにおはしましける時に、たむけ山にてよみける」とあり、これが昌泰元年(898)十月二十日に行なわれた宇多上皇の吉野山麓宮滝御幸に随行した歌人の詠歌であることがわかる:その詠み手とは、菅原道真である。
 道真は、当時の中央官界にあっては最大の実力者(位は「右大臣」で、彼より上位の「左大臣」に藤原時平がいたが)。下級貴族出身ながら、その官僚としての実力ゆえに登用されて実績を積み、政界の頂点へと上り詰めたパワーエリートの典型である。藤原氏の摂関を置かずに天皇親政体制を取っていた宇多天皇(59代)の厚い信任を受けた道真は、復古的な中央集権体制への回帰を目指す政治改革を進めようとするが、荘園支配を通して実力を高めていた地方の有力貴族(その多くは藤原氏)の反発を招き、藤原一族の長である藤原時平讒言容れ醍醐天皇(60代)によって中央政界から追放され、閑職である九州の太宰府の「権帥(=副長官)」へと左遷されてしまう(901)。彼はそのまま太宰府で失意のうちに生涯を閉じる(903)が、彼を追放して政界の頂点に立った藤原時平も、結局は道真が目指したのと同様、地方貴族の勢力を削ぐことを主眼とした政策を実行せざるを得なくなる(日本初の「荘園整理例」(902)は、彼の指示で発令された)。が、日本全国の人民を朝廷に帰属させ、一人一人の人民単位で「国民としての義務」を遂行させようとする律令国家的中央集権体制は、既に時代の実情に合わぬものとなっていた:以後、全国各地の土地に対する現地貴族の(荘園を通しての)支配権を容認しつつ、「土地税収の一定比率を国庫に納めさせる」という「個別的人民の厳格な支配から、土地を通じての緩やかな支配へ」の移行が加速することになる。道真は、その過渡期にあって、時代の波に翻弄された悲劇の人なのであった。
 彼はまた、優れた ― 間違いなく日本文芸史上最高の ― 漢詩人でもあった。政治制度の範を中国に取った当時の日本の朝廷の公文書は漢文表記:当然、中央官僚の漢文の素養は高く、和歌より漢詩こそが貴族文芸の中心であった。そんな時代の最高の知的エリートとして、菅原道真は、日本の漢詩に於ける大いなる偉業を二つ成し遂げてみせる。まずは、宇多天皇の意向を受けて、『新撰万葉集』上巻(893)を、私撰集の形で編んでみせる(編者については異説もある・・・また、下巻は明らかに道真以外の手になるもの)。僅か119首の短歌を収めただけのこの詩集は、しかし、その全てが「万葉仮名=漢字の宛字でひらがなをる表記法」でられると共に、漢詩文の「七言絶句」へと漢訳されて収められてもいるのである。・・・が、彼の漢詩の実力を真に知らしめる著作は、醍醐帝に献じられた全作自作の漢詩(468首)/漢文(159編)私家集『菅家文草』(全12冊)である:時に、左遷前年の紀元900年・・・太宰府で失意のうちに生涯を閉じた直後の903年には、左遷後の38首を含む46首の漢詩集『菅家後集』一巻も世に出ている。現代日本に置き換えて言えば、時の総理大臣が、全文英語の自作詩集+エッセイ本13冊セットを発表するようなもので、まさに空前絶後の文芸的偉業である。後にも先にも、漢文(であれ如何なる外国語であれ)に於ける文芸的所産として、これほどのものを世に問うた日本人は、道真以外に存在しない・・・後代「学問の神様」と言われる所以である。
 が、菅原道真の『菅家文草』を以て頂点を極めた日本の漢詩文化は、その五年後の905年に世に出た初の勅撰和歌集『古今集』の登場とともに、緩やかな衰退への道を辿ることになる。漢詩から和歌へのこの文芸界の推移は、同時にまた、道真に代表された「漢詩を得意とする中央官僚」の勢力を、「和歌を能くする有力貴族」が圧倒し始めたことを意味する:より政治的に言えば、「大和朝廷以来の律令的中央集権体制の終わり」と「各地を荘園の形で支配する地方有力貴族の時代の始まり」を意味するのが、「道真の太宰府への左遷」と「古今集の成立」という二つの象徴的事件なのであった。
 その道真が、「天神様」として「神」に昇格するまでには、次のような物語がある・・・讒言によって道真を追放せしめた張本人の藤原時平は、道真の死後6年にして僅か39歳の若さで急死した(909)。それ以外でも京都には疫病や天災が頻発し、人々はこれを「道真のり」と怖れて、その魂を鎮めようとし始める。道真の遺骸は既に905年に太宰府近くのささやかな墓所(現在の安楽寺天満宮)に葬られていたが、919年にはそのの上に社殿が築かれた:これが現在の「太宰府天満宮」である。・・・が、道真の怒りはまだまだ鎮まらなかったようで、時平で皇太子の保明親王が923年に僅か21歳で急死、その後を継いで東宮となった息子の慶頼王時平の外孫)も925年に4歳で急死・・・以後、時平の一族は藤原家の中で衰退の道を辿る。朝廷もいよいよ本格的に反省して、今更のように道真の名誉を回復して「右大臣・贈正二位」(923)に復位させると共に、道真ともども流罪となっていた子孫達も京都に呼び戻された。それでもなお不満だと言わんばかりに、「菅家怨霊」による極めつけの事件が起こる:930年、宮中の清涼殿を落雷が直撃し、朝の審議中であった有力官僚の中に複数の死傷者が出たのである。京都の人々は「雷となって荒れ狂う道真の悪霊」にいよいよ恐れおののき、これを鎮めるために、947年、京都の北野に道真を祭神とする「北野天満宮」が建てられた・・・「天神」伝説はここに始まる。現代日本に於いても、逆らいようのない社会的上位者から物理的/精神的/社会的な「雷」が落ちそうな場合、「くわばら、くわばら」と唱える言語学的習慣が残るが、この「桑原」は左遷前の道真の所領の地名:「ここは、怨霊となる前のあなたにとって大事だった土地なので、どうぞここには雷を落とさないでください」と懇願している訳である。
 後代、雷・疫病などを通して荒れ狂う「悪神」としての菅原道真のイメージが薄らぐとともに、『新撰万葉集』・『菅家文草』に結実した日本史上最高の知的エリートとしての彼の神懸かり的な知的卓越性にあやかろうとする参詣者達が、道真のことを「学問の神様」として、入試シーズンごとに、め奉るようになる・・・彼が生前の文芸界でどんな「神」だったか、死後しばらくはどんな「神」だったか、彼を「神」に祭り上げた連中が生前の彼をどう遇したか・・・それらを知った上で振り仰げば、些かなりとも天神様の御利益が増すかもしれない・・・そんな道真の、失意の太宰府時代の思いの籠もる歌(漢詩ではなく、短歌)を二つほど手向けて、あとはひたすら、神のまにまに:
 海ならずへる水の底までに清き心は月ぞ照らさむ
 (海の上に立つ波の上では、水面は乱れて天空の月影など映らない・・・そんな波打つ海のようによこしまに乱れた心など微塵もないこの私です・・・その明鏡止水の我が心の底まで、醍醐帝/宇多院の清き御心が照らし出し、真実を明らかに見抜いてくださいますように・・・嘘っぱちの密告で私を陥れた者どものよこしまな策略を退けて、どうかこの道真を朝廷にお戻しになられますように)
 東風吹かば匂ひ遣せよ梅の花なしとて春な忘れそ
 (春になり、東風が吹いたら、遠く懐かしい京の都から、梅の花よ、その香りをこの九州の太宰府まで吹き送っておくれ・・・たとえ京都の我が旧邸に主人である私の姿がなくっても、春の訪れを忘れないでおくれ)

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