百一026解題)小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびの行幸待たなむ

小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびの行幸待たなむ
『拾遺集』雑秋・一一二八(貞信公:ていしんこう)(男性)

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解題

 心を持たぬ(=無情の)存在である「紅葉」に訴えかける擬人法以外、技巧らしい技巧も一切ない歌であるが、そのストレートさが逆に好感をもって受け入れられた歌、と言えるかもしれない。その好感は、世に伝わるこの歌の作者「貞信公」の人柄の良さとも結び付いていよう。
 春の桜の散るのを惜しむのは、ないものねだりの徒涙、と知る人も、秋の野山の紅葉の錦は、その見事さを是非見せたくて知り合いを引き連れて後日また訪れても、再会できそうな期待を抱かせるものだ。桜花に触れる喜びは、これからやって来る春・夏という躍動する季節に向けての上り調子の気持ちの高ぶりであるから、散り際のさも決して寂しくはない・・・が、紅葉の錦の色せた後には、寒く長い冬が待っているだけ・・・だけに、少しでも長く、と願うのが人情というものなのであろう。
 まして、この歌の詠まれたのは、小倉山の麓の大堰川(現 大井川)への亭子院宇田上皇)の御幸の際である。紅葉の見事さに感動した上皇が、その息子の醍醐帝にも是非これを見せたい、と天皇の行幸を促す意志を示したのに大喜びした随行者の詠み手が、「上皇さまもこう仰せなのだから、天皇さまが再びお出ましになるまで、小倉山紅葉よ、もしお前に人の心がわかるなら、散らずに綺麗なままでいておくれ」と、無情の山に向かって訴えたのである・・・この歌の素直な響きは、その時に、その場所に、身を置いていた人々の心にはすーっと染み入ったことであろう。そしてまた、帝や上皇や上位の貴人といった「有情上役」の情感にタイムリーに訴える歌を詠むことで自らの昇進の機を機敏に捉えることに腐心していた平安中期~鎌倉初期の中・小貴人の心にも・・・言うまでもないが、『小倉百人一首』撰者の藤原定家もまたそんな一人であったし、「小倉山」は『小倉百人一首』の名の由来となった京都嵯峨野宇都宮頼綱蓮生)の別荘のあった場所で、紅葉の名所。その襖障子の色紙に添える短歌百選の一首としても、定家の想像的共感に訴える秀歌としても、この歌は至極自然な「自薦歌」となったのであろう。
 この歌の作者藤原忠平は、宇多(59)・醍醐(60)・朱雀(61)・村上(62)と、四代の天皇の治世で政権を保った実力者。父はあの(天皇をも意のままに操った強権関白)藤原基経忠平はその四男)、兄はあの菅原道真讒言により太宰府に追いやった(呪いで?!39歳で若死にした)藤原時平。いずれも何かといわく付きのコワモテ実力者との対照、という経緯もあろうが、この忠平という人は温厚篤実な藤氏長者としてすこぶる評判が良い。藤原氏にまつわる「好評」は単なる"藤原氏公認歴史書"の上での美辞麗句に由来する偽装美談が多いが、忠平の高評価は彼の実人生が正当に獲ち取ったものであると言えよう・・・ざっと箇条書きしてみようか:
1)兄の時平の死後、(存命していた兄の仲平を差し置いて)醍醐天皇の信頼を得て藤原氏の長者・朝廷最高位の左大臣、そして摂政・関白となり、菅原道真が青写真を描き、時平が引き継いだ「延喜の治」の推進者となった:
2)兄時平の謀略により非業の死を遂げた道真とその子孫の名誉を回復した:
3)四代に及ぶ天皇の下で国政の最高責任者として長く仕え、村上帝の頃には老齢を理由に幾度も「致仕(=辞任)」を申し出るものの、その信頼の厚さ故に悉く慰留され、70歳で病死するまで常に第一線にあって、死後は「贈正一位」と「貞信公」のを賜わった:
4)正室源順子)は宇多天皇の皇女(一説には、光孝天皇の皇女宇多天皇が養女としたもの)。帝が彼女を忠平がせたのは、ある占い師が「寛明太子(後の朱雀天皇)は美貌すぎる」・「藤原時平は知略がありすぎる」・「菅原道真は才能がありすぎる」・「藤原忠平は容貌・知略・才能全てに於いて理想的で、後世長く栄えるのはこの人である」と評したのを宇多帝が聞いたからだという。鎌倉初期(1210年代成立)の『古事談』にある作り話だが、実際、彼の子孫は、藤原北家嫡流として長く栄えることになる。

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