百一027解題)みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ

みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ
『新古今集』恋一・九九六(中納言兼輔:ちゅうなごんかねすけ)(男性)

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解題

 この歌を収めた『新古今和歌集』では、作者を「藤原兼輔」、歌題を「まだ見ぬ人への恋」としているが、元来は作者も作歌状況も未詳の歌・・・(古歌によくある)編者個人の恣意による決め付けが、後代のこの歌への解釈を「想像上の恋慕」へと短絡的に収束させている感がある・・・が、そもそも何の状況設定もなかった歌が何故「見たこともない異性への恋慕」につながるのか、その絡繰りを知る必要があろうし、それ以外の解釈の可能性をもまた探ってみる必要はあろう。
 初句「みかのはら」は「瓶原・・・現 京都府相楽郡加茂町」という現実世界の「歌枕」としての解釈と同時に、そこに含まれる「酒瓶」が、第四句「いつみきとてか」の中に含まれる「みき=神酒」との「縁語」関係を成す、とも取れる。
 第二・三句「わきて流るるいづみ川」は、初句の「瓶原」の平地を現実に「わきて・・・分きて=分断して」流れて淀川に注ぐ「(現在の)木津川」の古称「泉川」を含むと同時に、「わきて・・・湧きて」を介しての間接的連想として「泉・・・水の源泉」との「縁語」関係を生じる・・・のみならず、「いづみ」とを踏む後続部の「いつみ(きとてか・・・)」を導き出す「序詞」としての位置付けをも、初句・二句・三句に与えている・・・何ともやかな修辞法の氾濫である。
 その「序詞」で導き出された第四・五句の「いつみきとてか恋しかるらむ・・・一体いつ目にしたということで、恋しいのだろうか?」は、「未だ見たこともないなのに」の裏読みを呼ぶ部分・・・最初に紹介した『新古今集』の「まだ見ぬ人への恋」なる解釈の根拠はここにある・・・こうしたった表現・解釈を殊の外喜ぶのが「新古今調」なのである。
 もっとも、現代人の目から見れば、「ちらっ、と一目見ただけなのに、こうも恋しいなんて」の解釈だってアリ(というよりそちらの感覚こそがむしろ自然)であろう。現代であっても、会ったこともない異性に恋する状況が全然ないとは言えない ― ラジオのアナウンサーやアニメや映画の声優の声に聞きれる状況だってある時代である ― が、現実の中であれテレビ・雑誌等の視覚メディアの上であれ、魅力的な異性を目にする機会がこれだけ多い時代にあって、「まだ見ぬ異性に恋する歌」という解釈は、やはり奇異に映るであろう・・・この感覚のズレは、古典時代の(貴人の)男女の恋模様への理解を通して解消しておく必要がある。
 当時の男女の恋愛は、まず優雅なる和歌の応答から始まる。素敵な歌を詠みかけて来る男でなければ女はまずかないし、気の利いた返歌を詠める女でなければ男の思いも冷めてしまう。その幾度かの恋歌のやりとりを経て後に初めて生身の異性どうしのお付き合いが始まるのである・・・が、この歌はまだその段階に立ち至る前のもの;幾度かの恋歌のやり取りを通して、想像の世界の中で、まだ見ぬ異性への思いがる状況を詠んでいるのだ・・・もっとも、想いがここまで溢れ出し、清冽な言葉の泉となって短冊の上を流れれば、相手の女性の心に注ぎ込み、その「妻屋」の門が開くのも、もう時間の問題であろう・・・これは、そういう歌なのである。
 一方、この歌を文字通りに解釈するならば、こうなる・・・自分は今、京都の南、瓶原の平原を分かつ形で流れる泉川(現 木津川)のほとりに立っている。遙か昔、奈良の平城京に都があった頃には、聖武天皇(45代)の離宮がこの地にあり、首都の戦乱を逃れて一時はここが都と定められたこともあったという(740~743):「恭仁京久迩の都)」である。結局この都は完成せぬままに打ち捨てられ、その後「紫香楽宮」(743)から「難波京」(744)と度重なる遷都の末に、都は再び平城京に帰る(745)。そんな歴史の陰に埋もれたようなこの瓶原の大地に立つと、何処からともなくこみあげてくるこの懐かしさは、一体何なのだろう?初めて見るの場所なのに、無性に恋しいこのdeja vu感覚は、どこから湧き上がるものなのだろう?遠い昔、何代も前の人生の中で、私はひょっとして、この泉川の水の流れや、山一つ越えた向こうに広がる奈良の都に展開した様々な出来事を、この目で見たことがあったのだろうか?時を隔てた前世からの記憶が、この不思議な恋しさの正体なのであろうか?
 ・・・どうであろう、ブッ飛び過ぎて受け入れられない解釈であろうか?字義通りの解釈とはいえ、一応これでも、冒頭に紹介した「みかのはら・・・酒瓶」/「いつみきとてか・・・みき=神酒」の「縁語コンビ」の醸造する"神聖さ"の流れを、"上代の天皇とその都"へと注ぎ込む「隠れた縁語」的解釈、という技巧の味付けは施してあるのである・・・が、まぁ、先述の「平安恋愛模様の解題付き解釈」ほどの比較文化論的付加価値もないので、面白味には欠けるであろう・・・が、こうした解釈が全然許されないほどに、本物の和歌の世界は偏狭ではないのである(古文業界はそうでもないかもしれないが)。この解釈が成立するか否か、それは、読み手が現実に瓶原の大地から木津川泉川)の流れを臨んでこの歌を口ずさんでみた時に、えも言われぬ郷愁を感じるか否か、その一点のみに懸かってくる。もしあなたが不思議な既視感覚に包まれたなら、こんな解釈もあるのだ、と思い出してみてほしい。
 さて、この「みかのはら」の歌の解題では「生みの親ならぬ里親」扱いで蚊帳の外に置いてしまった藤原兼輔であるが、彼にまつわる事情についても触れておこう。元々はしがない下級官僚に過ぎなかった彼は、醍醐天皇(60代)の外戚(兼輔の娘の桑子が帝にいだ)という幸運のために重用され、最高位は「中納言(従三位)」まで進んでいる。京都賀茂川堤に邸宅を構えたため「堤中納言」と呼ばれた:平安末期の説話集『堤中納言物語』とは偶然同名なだけで、何の関係もない。関係が深いのはむしろ当時の歌人たちで、従兄弟「三条右大臣」こと藤原定方(25番歌作者)と並んで、当時の有力貴族の中でも、興隆し始めた歌壇への良き理解者・支援者としての位置付けを、文学史上では与えられている人物である。が、彼の名は、そんな間接的支援者としてよりも、次の歌一首を通して、忘れじの歌詠みとして記憶されるべきであろう:
 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
 ・・・殆ど現代語訳の必要もないほどに、時代を超えた普遍的な情感をしみじみと詠んだ歌である。「道に惑ふ」と「心惑ふ」の交錯による「縁語」が成立するあたりが技巧と言えば技巧のこの素朴な歌を、複雑な技巧横溢の「みかのはら・・・」と同一の作者に帰するのは、かなり困難である。
 ともあれ、『後撰集』(雑一・一一〇二)に収められた兼輔のこの泣かせる歌が「歌枕」となって、以後、和歌と言わず散文と言わず、古文で「心の闇」と言えばそれはほぼ常に「子のことを思うあまり、冷静な理性が働かなくなってしまう親心」の意味一色へと塗りされたのである・・・歌の力とはかくも強いものなのだ。
 因みに、『後撰集』の「詞書」(・・・宮中の火事で正規版が消失したために下書き版が世に出回ったとの説がある異色の勅撰集だけに、下書きや蛇足めいた文言も多くて、一般的には鵜呑みにし難い代物だが・・・)には次のようにある:
 太政大臣の、左大将にて、相撲還饗侍りける日、中将にてまかりて、こと終はりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとどめて、客人、酒あまたたびの後、酔ひにのりて、子どもの上など申しけるついでに
 ・・・今の太政大臣(=関白)の藤原忠平(=貞信公:第26番歌作者)が、左大臣の地位にあった頃、七月の宮中恒例行事の相撲の節会の勝者側が味方の参加者を自邸に招いて催す宴会をした日、藤原兼輔が中将としてこれに参加した。も終わって人々が三々五々退散して行く際、忠平は、身分の高い人だけ数人を帰らせずにそのまま居残らせた。主人・客人ともに酒を何杯も飲んだ後で、酔いに任せて、子供の事などを語ったその際に・・・この歌が出た、というのである。
 正式な「晴れ」の歌ならぬ「」の歌を多く含む/「詞書」が異様に長かったりしてヘン、という『後撰集』の特徴を実によく示す歌と詞書ではあろう・・・些か格調に欠けるのと、紹介に手間取る難点があるために、後代には「入内する娘の桑子を気遣い、醍醐天皇に奉った」などと略式で形式張ったもっともらしい能書きが付くようになってしまったが、この歌の飾らない直情性を思えば、『後撰集』の雑然とした「詞書」こそ正しい、と見るのが自然であろう。
 和歌には真実が宿る・・・が、その真実も見る者の解釈次第で幾筋もの流れを生じ得るものなのである(「みかのはら・・・いづみがは」とて、二つの流れに分かれたことを思い出してほしい)。ましてや、和歌周辺コトバの恣意に満ちた能書きは当てにならぬ:そんなものに、自らの和歌の解釈の幅を狭めさせることなど、歌読み/歌詠みなら、ゆめゆめ許してはならぬ事なのである。

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