百一028解題)山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば

山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば
『古今集』冬・三一五(源宗于朝臣:みなもとのむねゆきあそん)(男性)

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解題

 「山里の風情で見るべきものは、何?」・・・「そうですね、人里と比べれば常に寂しいものですが、特に冬の寂しさはひとしおですね」・・・「ほう、どんな風に?」・・・「はい、人目も"離れ"、草も"枯れ"、と、"かれ・かれ"尽くしの季節ですから」・・・と、これがこの歌の趣旨。「かれ」を巡る「掛詞」での言葉遊びに味がある歌で、『古今集』には「冬の歌とてよめる」と言わずもがなの「詞書」が添えられている・・・と、こう書いてしまうといかにも身ももなく面白味のない歌に感じられてしまう。それだけではつまらないので、もう少し突っ込んで、見えない興趣を探してみようか。
 「山里の冬」と言ってもこれは、雪で白く覆われた山の風情ではない。白い雪山には視覚的に見るべきものがある・・・「白」は古典時代の人々にとっては純潔の象徴、愛しい色なのだ・・・それでは「寂しさ」一色のこの歌の趣旨に反する。見るべきものが何もないからこそ「人目も離れぬ=誰一人見向きもしなくなってしまった」訳である。この「ぬ」は否定助動詞「ず」の連体形ではなく、完了助動詞「ぬ」の終止形(・・・てしまった)である:即ち、少し前まで「人目は離れず」だったことを言外に読み取らせる形である・・・そう、少し前までの山里には、見るべきものがあったのだ:だから人目もあったのだ・・・冬の山里の少し前の季節に、人目を引く景色と言えば、それは「山一面の紅葉の錦」・・・それが今では「草も枯れぬ」ということで、「人目も離れぬ」につながる訳だ。
 こうして考えればこの歌の「冬」、実は、「(紅葉の終わった)晩秋」であって「(雪の舞い散る)冬」ではないということがわかる。さりとて、「"秋"ぞさびしさまさりける」とは書けない:「秋の山里」には「紅葉」の連想が付きまとうから、絢爛豪華でちっとも寂しくないのである・・・仕方がないから「冬」と書いた・・・「冬」と書かれてしまったから、古今撰者としてもこれを「秋」の部立ての最終部に織り込む訳にも行かない・・・仕方がないから「冬」の部立ての二首めにこれを置いたのである:本当は「秋、だろう、これ?・・・」という撰者自らの季節感との違いに舌打ちしながら・・・なればこそ彼(貫之か友則か躬恒か忠岑か誰か)は敢えて「冬の歌とてよめる」と言わずもがなの「詞書」を添えて、「私としては、秋の終わりの歌だと思うのだけど、ね」と言外のツッコミを入れたのである。
 因みに、「古今集・冬歌」の冒頭は「竜田川錦おりかく神無月しぐれの雨をたてぬきにして」(三一四・題しらず・よみ人しらず)である・・・紅葉で有名な竜田山、その麓を流れる竜田川の11月の風情は、山から散り敷いた紅葉を横糸に、降る雨を縦糸にして、まるで錦織りのようだ・・・と、目にもなる自然の美景を擬人化技法で詠んだ歌である(「おり」は「竜田山から竜田川へと紅葉が"降り"」/「川に散り敷いた紅葉の横糸と降る雨の縦糸とで錦を"織り"」の掛詞)。「竜田川の錦」の部分にはやはり秋の名残りが強く感じられ、「秋に入れてもらえない冬」の風情という点ではこの「山里は冬・・・」と趣を同じくしている。
 どうであろう、少しはこの歌、面白く感じられてきたであろうか?・・・では、もう少し「この種の歌」の作歌背景について掘り下げてみようか。
 人里離れているとはいえ、山の風情は年中人に見放されているわけではない。冬枯れの前には色取り取りの紅葉に釣られた「紅葉狩り」の人々を引き寄せるし、春の山辺に咲く桜は人の心を魅了してやまない(古典時代の花見の桜は、ソメイヨシノではなくヤマザクラ)。「春来てぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」(『拾遺集』雑春・一〇一五・藤原公任)は、「春来てぞ・・・春が来たからこそ」人里から客人を呼んでもてなす主人に見立てた山里の風情を擬人法的に詠んでいる・・・が、裏読みすればこれは「桜花紅葉ならでは誰ぞ訪はむ?山のに見る影ぞなき」(おそまつ!な自作歌デス COPYRIGHT fusau.com 2009)という事でもある。年がら年中人々でわっている都でもない場所は、人寄せにつながる特別な取り柄でもない限りは、基本的に寂しいのだ。
 では、「どんな条件が整えば、寂しくない」のか、逆にまた、「どんな条件が整うと、寂しくなる」のか、そのあたりを解明してみようではないか・・・と、そんな風なことを考える人々が、昔の和歌の世界には大勢いたのである。ある場所・ある季節・ある感情・・・と、あれこれのお題を取り上げては、「Aの風情やいかに?」とか「AとBとはいづれかれる?」とか、歌人達がそれぞれの意見を自作歌を通して述べ合ったのである・・・そういうことをし始めたのが、『古今集』の時代なのである。そしてこの流れは、古典時代を通じて連綿と後代の歌人達へと引き継がれて行くのである。「仮名序」で紀貫之は(漢詩の六義に例えて)「そもそも、歌のさま、六つなり・・・そへ歌/かぞへ歌/なずらへ歌/たとへ歌/ただごと歌/いはひ歌」などと言っているが、これにってこの種の古典芸に(今更ながら)新語を振るなら「定め歌(合戦)」とでも言うべきであろうか、和歌を通しての各種テーマの品定めを、後代まで続く「題詠」最大の目玉商品・ロングセラーとして、世に定着させたのが『古今集』なのであった。
 この第28番歌を、そうした切り口で見るならば、同じ『古今集』から切り出した対戦相手どうしを並べて競わせてみるとよいだろう:
 「山里は秋こそことにわびしけれしかのなくねにめをさましつつ」(秋上・二一四・壬生忠岑
 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(秋上・二一五・よみ人しらず:『小倉百人一首』第5番歌)
 「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(冬・三一五・源宗于:『小倉百人一首』第28番歌)
 ・・・読者なら、いずれに軍配を揚げるであろうか?・・・次の歌も「山里」テーマで詠まれたものではあるが、季節感を織り込もうとあれこれ腐心する歌人達をよそに、この人、自分だけ「概念的総括」に走って突き抜けてしまっている・・・歌詠みの世界ならずとも、こういう人(空気の読めない仕切屋さん)はちょくちょくいるものだ。まぁ、無粋といえば言えるが、ついでに紹介しとこうか:
 「山里はもののさびしきことこそあれ世のうきよりは住みよかりけり」(雑下・九四四・よみ人しらず)
 ・・・山里は物寂しいことは確かだけれど、辛いことの多い人里よりは住み易いものさ。
 さて、「定め歌」の定番としては、やはり「春秋の定め」を紹介せぬ訳には行かないであろう。まずは、「秋の方人(肩を持つ人)」から:
 「春はただ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる」(『拾遺集』雑下・五一一・よみ人しらず)
 ・・・現代語訳の必要はないだろう。対する「春の方人」は、鎌倉初期の後鳥羽上皇の歌である:
 「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ」(『新古今集』春上・三六・後鳥羽院)
 ・・・こちらはさすがに解題が必要であろう:「新古今調」のりが効いていてストレートではない歌だから。前半部の叙景についてはさほど問題あるまい。「霞む」とあるから、季節は「春(の霞)」とわかる。「水無瀬川+霞む」とはあるが、短絡的に「川霧で霞んでいるのだ」と思ってはならない:もしそうなら視界は悪く、遙か彼方の山は最初から見えないのだから、「見渡せば」もないだし、「山もと」だけ霞んで見えるという歌の趣旨がき消されてしまう。川沿いの空気は澄み切って何一つ淀んだものはないのである。桜花の頃のどんよりと重い「花曇り」の季節は過ぎ、さりとて「夏」でもない。寒くもなく、暑くもなく、やかに突き抜けた空気の中、視線がどこまでも遠くへ届く自然の中で、山の頂上まで春の空を背に鮮やかだ・・・が、その山麓だけ、ぼーっと白く霞んでいるのである。夏も間近の春山の典型的な風情である。下の句に「夕べ」とあるので、水無瀬川沿いの清流の風情よりも、夕陽に染まってほの赤い春霞のスカートをまとった山の姿の方が主役、読み手の視線も下方からやや上方修正しておく必要があろう。
 さて、この季節の爽快感を感動的に総括するに、如何なる下の句がよかろうか?後鳥羽上皇の立場になって、幾つかシミュレーションを試みようか:
上の句:「見渡せば山もと霞む水無瀬川・・・」
1)「こよなく見ゆる春の夕暮れ」
・・・「これを越えるものは他にあるまい、と感じられるほどに素晴らしい」というのは、あまりに最上級的断定言辞で気が引けるし、その直情性は『新古今和歌集』よりむしろ『万葉集』に近い(例:「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鳴くも」『万葉集』十九・四二九一・大伴家持)。こちらの歌は「新古今時代」を代表する歌人でもある後鳥羽院のものなのだから、もう少し含みのある理知的な言い回しが欲しい。
2)「春の夕べに如くものぞなき」
・・・「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」(大江千里)の「本歌取り」っぽい感じにしてみても、これでは理知的というより手抜きの感が強く、その断定的な響きも相変わらず「ますらをぶり」の万葉調。古今的「たをやめぶり」の優雅な詠みぶりには程遠い。
・・・発想を換えてみよう:「この春の夕暮れの風情は素晴らしい」と主張する詠み手に対し、、「物のあはれは秋ぞまされる」と反論してくる人達だっているだ。あの清少納言も『枕草子』の中で断定的に言い放っている:「秋は夕暮れ」と。なら、その「秋」を"仮想敵"として前面に出し、「春秋の対決」の風情を色濃く織り込んでやったらどうだろう:
3)「秋にも勝る春の夕暮れ」
・・・うーん、やはり、いま一つしっくり来ないようである。これでは最初から「秋こそ"物のあはれ"のチャンピオン」と基本的に認めた上で、「今回のこの景色に限って、特別に、春の勝ち」とでも言っているかのような姑息な感じが、見苦しい。
4)「秋の夕べといづれれる」
・・・もうこうなったら、断定的に「春の勝ち!」と詠み手が宣言するのはやめて、読み手に判断を委ねて、「こんな素晴らしい春の夕暮れの山川の風情を前にして、あなたはそれでも"物のあはれは秋ぞまされる"とか"秋は夕暮れ"とか言い張りますか?」と、反語的疑問文をぶつけてみてはどうか、という訳である・・・が、これも姑息に逃げを打っている感じで、歌に力が籠もらない。上の句の叙景の清新な魅力が、下の句で一気に腰砕け・・・「腰折れ歌」の典型である。
・・・では、読み手に代わって詠み手の方で、その反語的疑問文の答えまで出してやったらどうか?
5)「春より秋と何思ひけむ」
・・・「今まで"春より秋のほうが上"だなんて、どうして思っていたんだろう?」・・・うーん、しかし、これでは格好が悪すぎるか・・・では、この際だから、『枕草子』の清少納言の「秋は夕暮れ」を「本説取り」の形で(それも捻りかせた逆順で)頂戴して、次の文言ではどうだろう:
6)「夕べは秋と何思ひけむ」
・・・うん、これ、絶品!「夕暮れ時の風情は何と言っても"秋"だなんて、なんで今までそう思っていたのだろうか?(清少納言サンたちに惑わされてたんだな、きっと)・・・見よ、この水無瀬川から臨む山の夕暮れを!春宵の絶景もあるのだよ、やっぱり」・・・これがいい、これにしよう!
 ・・・などと、後鳥羽上皇が実際紆余曲折を経たかどうかはともかくとして、彼の新古今歌が成立するためには、それに先立つ平安の世に、数多の「物のあはれは秋ぞまされる」論が既に幅を利かせていた、という既成事実が下敷きとして存在しなければならなかった訳であり、また、そうした「春秋の定め」が、歌詠み/歌読みの意識の中に確たる位置を占めていなければ、「夕べは秋と何思ひけむ」の反語的問い掛けも、「何のこっちゃ?」と聞き返され(or 流され)てしまうである・・・事程左様に、「定め歌」というやつは、歌学ジャンルの定番商品だった訳である。
 毒を喰らわば皿まで・・・更に二つほど「定め歌」の駄目押しをば:
 *「Aと言えばやっぱBでしょ!」型ご当地ソングの決め付け歌:
 「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも」(『古今集』東歌・一〇八八・よみ人しらず)
 ・・・東北名物色々あれども、何と言っても第一番はあの塩竃の浦。浜辺を漕ぎ行く船が船引く引き綱の、しみじみ心に染みることよ。(・・・第14番歌の源融は、この「定め歌」あたりに魅了されて塩竃風情を模した「六条河原院」を造営したのであろうし、第93番歌の源実朝はこの歌の「舟」と「綱手かなしも」へと「本歌取り」の形でオマージュを捧げている)
 *「AとBといづれかれる」型タイマン勝負決着歌。下の例は、「(まだ来ぬ人を)待つと(恋しい人と別れて)帰る朝と、どっちの辛さがより辛い?」というお題への返答例:
 「待つ更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは」(『新古今集』恋三・一一九一・小侍従
 ・・・愛する人の来訪を待ちながら、時間だけが刻々流れて、日が暮れて、夜も更けて、来てくれないのかしらと悲しい思いに高鳴る胸に、拍車を掛けるかのように鳴り響く深夜の時報の鐘の音・・・あの息詰まるような切なさに比べれば、夜通し愛し合った末に、まだ飽き足りないのに夜明けを告げる鶏の声にせき立てられていそいそとお互い帰り支度をする「衣衣(後朝)の朝」の、未練を断ち切る辛さなんて、大したことはありません。
 ・・・多くの古典物語では、この歌の紹介の後に、「彼女はこの歌の評判により、以後、"待宵小侍従"と呼ばれるようになった」などと続く。特に平安後期以降、この「Aさんと言えばやっぱあのB歌、でしょ?」から来る「BのAさん」(例:"沖の石の讃岐"こと第92番歌作者など)なる二つ名は、「とにかくそう書いとけば、歌にも当人にも、そしてそれを書いてるこの文章にも、由緒ありげなが付く」という何ともジャパネスクな短絡的射幸心に起因する決め付け言辞として乱発され、実に芸のない雑草の如きはびこり方の様態を示していて、批判的鑑識眼を通して見ると何とも見苦しい。
 「A型、と言えば几帳面で神経質、でしょ?」だの「B型、と言えば突発的にヘンなことするアブない性格、でしょ?」だのと、非科学的を通り越して新興宗教的な決め付け言辞を平然として何ら恥じることがないばかりかそれに乗らない人間を「非日本人!」として切り捨ててやろうとする排他的身内意識確認コトバとして「血液型ヒトサダメ」を振り回す現代日本人のいかがわしき(如何は?これ、いかんのとちゃうのん?とツッコミ入れたくなるよぉな)様態は、実に、平安の世に起源を持つ千年もののジャパネスク・カルチャーだった・・・のであろうか?
 だいぶ他の歌に紛れて霞ませてしまったが、この第28番歌の作者源宗于は、光孝天皇の皇子是忠親王の子。臣籍降下して「源」姓を賜わったのが894年、没年は940年(生年は不詳)。「寂しさ」を基調とするこの歌の印象からの短絡的連想で「詠み手自身も、元は皇統であるにもかかわらず、官位は振るわずに寂しい一生であった」などとジャパネスク解説をでっち上げる本やセンセが多いが、史実としてはそれは間違い:「正四位下・右京大夫」まで昇っているのだから、"源氏"としては決して不遇な人生であったとは言えない。「正四位」というのは「三位」に次ぐもの、即ち、国政の中核を担う公卿」に昇格できる家柄にない者にとっては到達し得る官位の「極位」なのであり、「清和」・「河内」などの"源氏の棟梁"の多くは「正四位」であったし、桓武平氏で初めて昇殿を許されたことで有名な平忠盛(・・・あの清盛の父親)も「正四位・刑部卿」であった。
 ・・・と、歌も、歌人も、とかくいい加減な片付け方ばっかしてるジャパネスク言辞の表層をで回しているばかりでは、本当の事は解らない、という好個の例ではあった。

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