百一030解題)有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし

有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
『古今集』恋三・六二五(壬生忠岑:みぶのただみね)(男性)

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解題

 「有明の月」・・・夜のもののなのに明け方の空に忘れ物のように残っている月・・・和歌にしばしば詠み込まれる題材(「歌枕」)としては「自然界の横綱」と言ってよい。それだけに、古文読みたる者、その情趣はしっかり捉えておくべきであろう:一言で言えば「虚ろ」のイメージである。この歌に関しては、その「有明の月」のイメージを、誤った「つれなし=薄情だ」に絡めて捉えてしまったせいで誤解に陥る読み手が、古来、跡を断たなかったようである(このあたりはあの藤原定家も指摘している)。なお、言うまでもないが「有明」は「有明の月」を五音に収めるための略形であり、「有明け」を「月」も含まぬ「夜明け」の意に誤用するのは原義を忘れた後代日本人の専売特許であって、古歌の中では「空に"有"りつつ夜が"明"ける"月"」の語源に忠実な用いられ方しかせぬ語である。
 「ばかり憂きものはなし」については誤解の心配はあるまい:現代日本語にも英語にも普通に見られる実質最上級となる表現で、「(私にとって)夜明け前こそあらゆる時間帯の中で最も憂鬱な時間帯です・・・no other hour of the day is so painful to me as(more painful than) that immediately before dawn. / I feel saddest just before the dawn of a day.」の意味である。問題は、何故それほどまでにこの人にとって「夜明け時は辛い」のか、の理由・・・「有明の"つれなく"見えし別れより・・・明け方の残月が"薄情に"思われたあの(あなたとの)お別れ以来」というのであるが、この「つれなし=薄情だ」という詠み手恨みがましい感情の対象とその理由を、間違う人が、多いのだ。
 「月」は"無情"のものである:それ自体に感情はない:ただ、それを見る人間の心理を投影して、輝きもすれば曇りもする・・・まるで太陽の光と地球の影との関係で、満ちもすれば欠けもするのと同じように・・・そのことは誰もが知っている;ので、この「有明の月の"つれなさ"=薄情さ」を即座に「人の薄情さ」とみなすのだ。その「薄情な人物」として恨まれている相手が「詠み手自身」である道理もないから、自動的に「前夜に詠み手と一緒にいた相手が薄情だった/その"薄情な相手"と同じように、"有明の月まで薄情"に見えた」と解釈することになる・・・これが、短絡的誤解の方程式である。
 何故上記の解釈を誤解だと言い切れるのか?・・・この歌を詠み手がどういう状況下で作ったのか、その経緯について考えてみれば 上記の解釈の致命的な難点は、いとも簡単に証明できるのだ(「歌詠み」にとっては造作もないこと・・・だが、「単なる歌読み」には難しいかもしれない)。・・・証明してみせようか?
 まず最初に「月」の弁護を務めることから始めよう:「つれない相手」を恨む心情が「有明の月」に反射投影される理由が、この歌のどこをどう読んでみてもまるで見えてこない・・・これはおかしい。「月」が人間の心理を投影して曇ることがあるのは確かだが、「つれなし・憂し」というような極めて恨みがましく攻撃的な否定的感情をぶつけられるからには、この「有明の月」自体がよほど憎らしい存在の様態を示していなければ筋が通らない:人間、いくら何でも、何の理由もなく「月」に恨みの念を転嫁することなどあり得ないのだ・・・が、この「有明の月」、一体どんな姿をしていたと言うのであろう?例えば、満たされた心の投影としての月ならばそれは「満月」であるべきで、か細い「三日月」では役者が足りないし、負け戦の後で捲土重来を期して温泉で傷を養生する武士の心にう頭上の月は「弓張り月」(=矢をつがえる弓のように見える三日月)であるべきで、「満月」ではむしろ満たされぬ彼の心の傷を逆撫でするばかりで逆効果だろう。「有明の月」がこの詠み手の心に「つれないあの人と同じように薄情」と映るのは何故?「哀れな我が身と同様に可哀想」という風に同情的に見えない理由は?明け方近くまで残って頭上からこの詠み手を巡る悲しい夜の状況をずっと見守っていたその「悲劇の夜の目撃者」としての月を、「悲劇を引き起こした犯人」と同罪とすべき罪科は何処にある?・・・答えられる人物がいたら教えて欲しい:決して乏しくはない筆者の想像力を総動員しても、証拠の影すら見当たらないのである。答えられないのなら、「薄情」の心情を「有明の月」にぶつけるのはやめてほしい:そんな根拠のない八つ当たりの的にされたのでは、いくら"無情"の月とて、泣きたくなるというものである・・・やや、これはやや感傷的すぎて論証としてはか弱い出だしとなってしまったか・・・では、「月」はこの際置いといて、「人」の心そのものに切り込んでの決定的な反証を、以下にお見せしよう。
 もし「相手のつれない態度のせいで、夜明けの月まで薄情に見えた」というのであれば、その薄情さの"否定的光源"となった人物は「夜通し(少なくとも、前夜までは)一緒にいた異性」に間違いない:その人が自分に対して「薄情な態度を取った」からこそ「夜明けの月まで薄情に見えた」との解釈を前提に、目下この論が進行中であることを、念のためここで再確認しておきたい。そうなると、一緒に過ごした夜に、その薄情さで月まで(どうやったか知らないが)曇らせてしまったこんな異性と、この詠み手とは、その後、復縁していないである・・・既に縒りが戻っておればこんな恨み言は出て来ない;そして、もはや復縁の可能性すらもないである・・・さもなくばこんな恨みがましい歌は絶対に詠まない:そんな「恨み節」を相手から詠み掛けられて、「あぁ、私が悪かった、ごめんなさい・・・またもう一度やり直しましょう」などと、アナタならそう思うであろうか?そんなことを思う人間は一人もいまい。である以上、これは「復縁を求めて相手に訴える歌」ではあり得ない。「相手の薄情さに対する自分自身の恨みがましい感情を吐き出すだけの歌」ということになってしまうのである。・・・が、だとすれば、「もはや終わってしまって決して修復しないとわかっている失恋の相手の薄情さ」を、いつまでも執念深く恨み続けてこんな歌を詠んでいるこの人物の、如き執念深さは、何と醜悪なことであろう!失恋の痛手が辛いのはわかるが、それをこんな恨み節に乗せていつまでも繰り返し自身の傷ついた心にザラザラと擦り込み続けて苦痛を長引かせるなど、馬鹿もいいところだし、それで「あぁ、夜明けが来るたびに今も、自分は辛い・悲しい・憂鬱だ」というのなら、ばーか、そんなのテメェの自業自得だろ!?と冷たく言い放ってやりたいほどに度し難い人間である。こんな醜い気持ちでいる限り、この人物に、新たな恋の機会は決して訪れはしないであろう・・・懸案の"薄情な"異性との復縁が絶対にあり得ない事も既に明らかである・・・こうなると、完全に八方塞がりではないか!こんな阿呆な歌が、どこの世界にあるものか!そんな阿呆袋小路に陥るような解釈を、人の心の機微に通じた人間なら、一体誰がするものか!
 ・・・以上、証明終わり。
 という訳で、「相手の異性の態度が"薄情"だったから、有明の月まで"薄情"に見えた」の解釈は、この歌が「度し難い非建設的ボヤキの垂れ流し」というのような代物ででもない限りは不可能なので、別の解釈の可能性を探る必要がある・・・言っておくが、上記の100%間違いの解釈に陥ることそのものを、筆者は(そして定家も、如何なる歌詠みも)、決して責めるものではない ― 誰だって最初はその解釈に陥るのである ― 問題は、誤謬に陥ったその後で、その解釈の難点を丹念に吟味し、非が見つかれば直ちに別の正しい道を模索に向かうか否か、である:それをせぬ者は責められるべきであろう(歌に於いてもそれ以外でも)。「歌詠み」は皆それを反射的に行なう:自分自身に置き換えて、その作品の「詠歌状況」を探る本能があるから、過ちに陥ってもきっと立ち直る(し、立ち直りがまた早い)のである。「歌読み」の多くはそれをう:七面倒臭い「文系の証明問題」など、最短コースでそそくさとやっつけておしまいにしたいという手抜き根性が邪魔をするのである:「人の心の問題」だけに、目を背けさえしなければ、有情の人間なら誰でも正解に辿り着けるなのに。・・・結局、怠惰な連中に、歌(そして、人の心)は読めないのである;"詠めない"ことは言うまでもない。
 ・・・では、歌詠みはこの歌をどう正しく読み直すか?興味と勤勉さ(と、ひょっとすれば、自らが陥った過ちを素直に認めて謙虚に正そうとする心の広さ・・・)があるようならば、更に以下の文章をも御覧戴きたい:
 冒頭にも書いたが、「有明の月」の情趣はつまるところ「虚ろ」である。より詳しく書けば、こうなる:「自分としてはまだ満たされていない・・・のに、終わりの時が来てしまった・・・引っ込みがつかない、けど、引っ込むよりほか仕方がない・・・何と中途半端な、何とバツが悪い、何と耐え難い不完全燃焼であることか!・・・まるで、夜も終わって朝が来ようというのに、まだ沈みもせずに空に浮かぶ、あの宙ぶらりんな昨夜の残りの月・・・有り明けの月は、まさに今の我が身の投影ではないか」・・・そう、この歌の詠み手もやはり、「満たされてはいなかった」のである。が、「相手の異性の愛情の欠如」ゆえに「満たされなかった」のではない:この点を勘違いするからとんでもない誤読に陥るのである。正しくは、「愛に満ちた素晴らしい前夜」を「十分に満喫しないうちに、早くも夜明けが来てしまった」からこそ「未だ自分は満たされていない」と感じたのである。
 そんな「もっと、もっと!」と夜の延長を望む詠み手の心情にはお構いなしに、無情で律儀な「」が訪れる。ここで厳重に注意を促しておきたいのは、欲求不満のこの詠み手怨嗟の対象は、「」であって「有明」ではない、ということである。詠み手にとって「有明の月」は、自分と同様、「ほら、もう朝だ、とっととどこかへ消えな!」と無情にもせかす「」に追い立てられる、哀れな「間の悪い存在」であり、同病相憐れむ「被害者どうし」なのである。間違っても「有明の月が"薄情"だと感じた」と解釈してはならない:「有明の月・・・の如く満たされぬ思いの私を追い立てた""が"薄情"だと感じた」のである。・・・ここで、単なる「歌読み」はこう言って抗議するであろう:「だって、""のつれなく見えし別れより、とは書いてないんだから、その解釈はおかしい!」と。これに対する「歌詠み」の解説は、以下のようになる:
 ""は、第四・五句の「""ばかり憂きものはなし」で使うから、初句で使えば不格好な重複になろう?そして「""が"つれない(=薄情だ)"」と感じる理由をもまた、第一・二・三句の中で説明しておかねば歌になるまい?その理由は「早すぎる""に追い立てられて、素晴らしい夜を強制終了されてしまった不完全燃焼意識」であろう?その状況を端的に述べるための「歌枕(=よく歌に詠み込まれる情趣)」としては"有明の月"が最適任であろう?ともなれば、早すぎるにせかされて素晴らしい夜が早くも終わってしまったことで"有明の月"の如く不完全燃焼な気持ちで"薄情な"を恨みたい気分になった、あのあなたとのお別れの朝以来、という気持ちを表わす上の句としては、「"有明の(月の残る時間帯、その残月のような満たされぬ心情で、あの早すぎるが)"つれなく見えし別れより」でよかろう?"つれなし"の対象として詠み手恨みの的となるべき""が後続の第四句まで登場しない点は、確かに文章構造的には変則だけれども、「満たされぬ詠み手の心情の具体的イメージとして"有明(の月)"を上の句に置くことが必要」/「第四句との重複回避のため""を上の句に置くことは不可能」という二つの条件を同時に満たすことを考えた場合、この歌の初句は「""の」ではなく「"有明"の」でなければ成立しないであろう?
 以上の解説でお解り戴けたであろう:この歌の誤解の根本原因は、「"有明"のつれなく見えし別れ」にあったのだ・・・"つれなし(=薄情だ)"の対象が""である以上、「""のつれなく見えし別れ」と書いてもらわぬことには、「歌読み」がこれを誤解するのは無理からぬこととも言えるのである・・・が、その誤解で突っ走った末に、上で説き明かした「非建設的な恨み節」に立ち至った時、そこでもう一度正しい解釈をやり直す根性があれば、そして、初句と第四句に""を重複させることの不格好さをシミュレートする程度の「歌詠み」的実証精神があれば、更に「"有明"=詠み手=満たされぬ者どうし、同病相憐れむ」の図式を、自然界に於ける和歌の「横綱級歌枕」として把握しておく程度の文芸常識があれば、この歌の正解は、次のように導出され得ることになる:
 「まるで、もう夜明けが来てしまったのが信じられないように、引っ込みつかずに夜明けの空にぽつんと残るあの宙ぶらりんな有明の月のような気分で、早くも訪れてしまったというやつが何とも薄情に感じられた、あのあなたとのお別れ以来、私にとって、の時間帯ほど心に辛く感じるものは他にありません」
 ここまで読めば、次は、この歌の詠歌事情を推論する番である・・・詠み手はこの歌を、「無情な""に対する恨み節」として詠んでいるのであろうか?・・・そんな訳もあるまい。"無情"なる存在にいくら恨み辛みをぶつけても、相手は何一つ感じはしないのである。"有情"の詩人と"無情"の自然物とは、常に「反射・投影」の関係にあることを思い出して欲しい・・・「の薄情さ」を詩人が「あの素晴らしい夜が、満たされぬままに終わってしまった」という形で嘆いてみせるのは、その嘆きの歌を詠み掛ける相手(=その素晴らしい夜を共に過ごした異性)に対し、「満たされぬままに終わってしまったあの素晴らしい夜を、もう一度あなたと共に過ごせたら、この私のの薄情さへの恨みも、消えると思うのです・・・だから、もう一度逢ってください」と訴えたいからこそなのである。再度の逢瀬を相手に懇願するのに、「あの夜は、とっても良かったです・・・から、もう一度逢いたいです」と書くのは、煎じ詰めれば、相手を欲しがる自分の都合だけを一方的に述べるのに等しい。それを嫌って、この詩人は、こう書くのである:「あの夜は、あんなにも早く終わってしまったのが辛くてそれ以来ずっとというものが怨めしく思えるほど、それほど素晴らしかったのに・・・あれ以来、あなたにはお逢いできていません・・・ので、私は未だに満たされぬ思いを抱えています・・・夜明けのたびにこんな辛い思いをしている私の苦しみを、再び素晴らしい夜を私にくださることで、どうか救ってくださいませんか?」
 ・・・実際には、この歌、ほぼ間違いなく「後朝(衣衣)の文」(=夜の逢瀬の相手に数日以内に贈る「よかったです、とっても・・・」の挨拶の歌)なので、「あの朝以来、ずっと夜明けが辛いです」と大袈裟に嘆いて見せてはいるが、これは誇張で、たとえ長くてもほんの数日分の嘆きでしかない、という平安色恋事情をも、最後に書き添えておこう。
 如何だったであろうか?自らの感情を直接的に相手にぶつけることをせずに「哀れなる有明の月」と「薄情なる」に反射投影させる形で述べる手法、「逢いたくて仕方がない」と積極的に述べる代わりに「逢えずにいるのが辛くてたまらない」と否定的な感情を「」にぶつけて恨んでみせた上で「こんな私を助けると思って・・・逢ってくれませんか?」との思いを相手に読み取ってもらおうとする神経の細やかさ・・・あなたは、追従できたであろうか?
 こうまで見事に手の込んだ詩は、しかし、詠み掛けられた相手の異性の感性もまた詠み手同様に質の高いものでなければ、無駄足に終わるばかりか、とんでもない逆効果を招くことにもなろう。「恋のSOS」の救難信号が、「何の建設性もなく執念深くバッカみたいな恨み節!」としてゴミ箱にポイ、以後、道で出会っても風の噂に聞いても、この詠み手のことは「あ、あのヘビみたいに執念深い逆恨み詩人だッ!ペッ、ペッ、うぅ、気色悪ぅー・・・ったく、虫酸が走る!」という最悪の結末を招くことになりかねまい。そんな最悪のシナリオを恐れずにこの歌を贈れるほどの相手なら、その人との逢瀬は、なるほど確かに、素敵なものであったろう。それともこれは、現実の異性に向けたものではなく、仮想的な「文芸の極みを尽くした後朝(衣衣)の文」として詠まれたものか?(『古今集』の「詞書」は何一つ教えてくれない・・・)
 ・・・と、大いに興味をそそられるこの歌の詠み手壬生忠岑御多分に漏れず「下級役人ながら歌詠みとしては秀抜」ということで選ばれた『古今和歌集』(905)撰者で、四人の撰者の中では、入集数こそ37首と最も少ないが、ツボにはまった時のこの人の短歌の冴えは、あの紀貫之に勝るとも劣らない。その実力のほどを思い知らせるに十分(・・・すぎて、全然理解できない人も多数)と言える歌ではあるが、あまりに高級すぎる歌は、読み手を選ぶきらいがある・・・この文章の筆者は、この歌、見事だとは思うが、あまり好きではない:過ぎたるは及ばざるが如し、といった感じなので。一方、この『小倉百人一首』に加え、『新古今和歌集』(1216年頃成立)・『新勅撰集』(1235年)と二つの勅撰和歌集の撰者である藤原定家は、この歌を手放しで誉めていて、『古今集』中最高の秀歌は(・・・という『新古今』撰進勅命を出した後鳥羽上皇=第99番歌作者の質問に答える形で・・・)この歌だ、とまで言っている(居合わせた藤原家隆=第98番歌作者にして『新古今集』撰者の一人もまた同意見だったという)。この解題にここまで勤勉にお付き合い戴いた読者には、この故事を以て、鎌倉初期の「新古今調」というものの「人を喰ったまでに精緻にして理知的な技巧歌がお好き」という本源的特性を体感して戴く、という御褒美をも、差し上げられたことと思う。

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