百一032解題)山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり
『古今集』秋下・三〇三(春道列樹:はるみちのつらき)(男性)

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解題

 古語の約束事では、「山川」と書いて「やまかは」と読めばそれは「山と川:rivers and mountains」、「やまがは」と読めば「山の中の川:rivers in the mountains」の意味になる:ここは後者の「やまがは=山中の川」である。そこに「しがらみ=柵=流れをき止めるために川に打ち込まれた木々の棒+そこに差し渡された木ぎれ・・・小型堤防・ダム」が懸かっている・・・ように見える・・・何故なら、水の流れが止まって見えるから。人里にある川ならば、生活の便を図って「しがらみ」を作るのは自然だが、山奥のこんな場所にそんな人造物を作る必然性があるのか?一体誰がこんな手の込んだことをしたのか?・・・そう思ってよく見ると、水の流れをき止めている(ように見える)のは、「」ならぬ「紅葉絨毯」・・・あまりに分厚く散り敷いた落葉が、流れ切れずに水面に留まっているのだった(その下では、水は何もなかったかのように流れているのだが)・・・いわばこれは、「木々の紅葉を吹いて落とした"風"が作った"風力ダム"」。
 そうした「自然の営為の人為性」ともいうべき意外性のある情景を、実際の山歩きの中で見つけて詠んだ歌。この歌を収めた『古今和歌集』には、「滋賀の山ごえにてよめる」との「詞書」がある。「山越え」と言うと、人も寄りつかぬ奥深い山を想像するが、京都から滋賀に至るこの山道は、大津(奈良県)の山中にある滋賀寺(崇福寺参詣のために、かなり多くの人々が往来した場所で、幾多の歌がこの「滋賀の山ごえ」絡みで詠まれている。
 作者は春道列樹。役人としても歌人としても、あまり華々しいプロフィールの残る人ではない。この歌は、歌材そのものに味があるので、歌人はその味わいを損なわぬ程度に料理すれば、美味しい歌の出来上がり・・・素材を見つけた時点で既に勝負あった感じで、そんなオイシい歌の材料をたまたま見つけたこの歌人はただ単に運が良かっただけ・・・とも思われる;が、よくよく見るとこの歌人の料理には、きちんとした隠し味が効いているのだ。
 この歌を、意味に忠実な語順で詠むと、こうなる:
1)山川に 流れもへぬ もみぢ葉は 風の懸けたる なりけり
 「山川に、流れきれずに滞る紅葉の葉っぱは、まるで風が作った人工的な流れ止めみたい、だなあ」
 ・・・この語順、悪くはないが、良くもない。意味が通る語順としてはこれしかないし、それで正しいのだが、歌としてはこれではよくない。料理に例えて言うならば、栄養価は高いが味は悪い、誰も食べたがらない失敗作:折角の素材の美味しさを、活かしきれていない感じである。どこが不味いかと言うと、「風の懸けたる」という一番の珍味の置き場所がマズい。これがこの歌のメイン・ディッシュであり、論理的に辿り着く最終到達点であることは確かだから、一番最後の大トリとして出すのは順当だけれども、そうなるとこの歌全体があまりにスムーズに淡々とることなしに流れすぎて、ちっとも面白くなく、本来なら意外性をもって受け止められるべき「風の懸けたる」が、当たり前にしか見えないのである。何のことだかさっぱり解らぬような語句の並べ方はマズいが、あまりすんなりと消化が良すぎるのも考え物なのだ。例えばの話、チューブに入った宇宙食はとても消化が良くすんなり身体に吸収されて栄養価も満点かもしれないけれども、そんなものより、やはり人間なら、噛みごたえのあるステーキを、栄養学的には無意味で有害な酒類ともども、時間をかけてゆっくりと味わいたいであろう?歌だって同じこと、すんなり解らぬ部分があって、それを噛みしめるうちに消化できるのが、やはり楽しいのである。意味と言葉の料理人たる詩人なら、素材は美味しく見えるように配置してやらねば嘘だろう?・・・では、次のような並べ換えはどうだろう:
2)山川に 風の懸けたる よ 流れもへぬ このもみぢ葉は
 「山川に、風が懸け渡しただよなあ、流れきれずにるこの紅葉の葉っぱときたら」
 ・・・さっきのチューブ式宇宙食みたいな語順よりは、歌としてはよいかもしれないが、それを引っ繰り返した倒置形にする過程で、ケレン味が強くなり過ぎたキライがある。いわば、メインディッシュの「風の懸けたる」を、デーンとアペリティフ(食前酒)の前に置いちゃった感じなので、食べ応えのある珍味を冒頭でガーッと食べちゃった後で、今更のように飲むあべこべの食前酒は、もう、メインディッシュの消化を助ける役割を演じきれずに、それはそれで独立した酒盛りを始めてしまう感じになる。つまり、上の句(一・二・三句)と下の句(四・五句)との連携が取れておらず、完全なる三句切れに終わってしまっているのだ・・・流れがスムーズすぎるのもよくないが、こうまで流れを切ってしまうのもまたよくない。
 ・・・かくて、先の2)の語順はそのままに、上の句下の句の流れを切らぬよう、次の語形が考案された訳である:
3)山川に 風の懸けたる は 流れもへぬ 紅葉なりけり
 メインディッシュがアペリティフより先に出て来る珍妙さも、両者の間を「よ!」で切らずに「は・・・」と後につなぐことで円滑な流れで下の句まで読み手の「これって、何のこっちゃ?」という意識をつないでやれば、「流れもへぬ紅葉・・・なりけり」として最後には気付きの「けり」を付けて万事綺麗に片が付く。
 ・・・恐らくは1)・2)という試行錯誤の生ゴミを経ての、このオイシい最終形、そこまでの「仕込み」の苦労が、言葉の料理人たる「歌詠み」には見えるのだ(「歌読み」には単なるヘンな語順にしか見えないだろうが)。これを『小倉百人一首』に入れた藤原定家の歌人の目にも、当然、一般人には見落とされがちな言葉の生ゴミがちゃーんと見えるから、よくぞここまで料理しました、ということで「シェフのお勧め料理」としてこの歌を取り上げたのであろう。
 春道列樹の作品としては、同じ『古今集』に次の二首も入集している:
 昨日といひけふとくらしてあすか川流れてはやき月日なりけり(冬・三四一・「年のはてによめる」と詞書あり)
 ・・・"昨日"に"今日"にそして"明日"か・・・流れ流れてずいぶん早く過ぎ去ってしまった年月だったなあ。
 (主意は第四・五句「流れてはやき月日なりけり」にあり、それ以前の第一・二・三句は「序詞」。「あすか川」に引っ掛けた「縁語」関係で「流れ」の呼び水にしている訳だが、その中に"昨日/今日/明日"を織り込んでいる技巧は、まずまず見事と評価してもよかろう・・・が、それだけの歌)
 梓弓ひけば本末わがによるこそまされこひの心は(恋二・六一〇)
 ・・・弓を引けばその上下の端はググッと射手の胸元に近寄る・・・の「寄る」じゃないけれど、「夜」になると燃え上がるのだよなあ、恋心というやつは
 (主意は第四・五句「夜こそれ恋の心は」にあり、それ以前の第一・二・三句は「序詞」。「夜」と「掛詞」を成す「寄る」の「縁語」として「弓」を引いているだけ・・・別に武士でなくとも、この「弓矢」の掛詞縁語序詞如き芸当は、多くの歌人がんだ)
 ・・・いずれも「言葉遊びのダジャレ歌」で、料理の仕方も味もいまいち・・・この第32番歌が定家の目にとまって『小倉百人一首』に入ったのには、やはり「素材の妙」という「天の配剤」も大きかったようである。

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