百一035解題)人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
『古今集』春上・四二(紀貫之:きのつらゆき)(男性)

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解題

 これは、二句切れに味がある歌。意味の上からは、第二句の結びは逆接の已然形「知らね」として不完全終止の形でそのまま後に続けてもいいところだけれど、敢えてそうせず終止形の「知らず」で打ち切ってしまって、「変わりやすい人の心は、今はどうなってるかわかりません(ピリオド)」。ここで一旦幕を引いてしまい、再び幕が上がったその先に、「自然」の情景描写を「ACT2」として新鮮に読ませようという心配りが、二句目最後の「ず」を「ね」としなかった点に感じ取れます。終止形/連体形で味わいがまるで違ってくることで有名な松尾芭蕉の俳句「秋深し・・・は何をする人ぞ/秋深き隣は何をする人ぞ」の違いに通じるものがありますね。
 試みに、あまりよくない改作を敢えて提示して、この歌の良さを再確認してもらいましょうか:
1)人はいさ心も知ら<ね>古里<の>花<は>昔の香に匂ひ<けり>
2)人はいさ心も知ら<ぬ>古里<に>花<ぞ>昔の香に匂ひける
3)人はいさ心も知ら<ぬ>古里<も>花<や>昔の香に匂ひける
・・・どうです、初句から「古里」以降へとだらだら続くのって、まるでなってない感じ、でしょ?二句までで一幕引いちゃうこの歌のい魅力、感じていただけたでしょうか。
 そうして、プイと横を向くようにして「人心」に関する記述は唐突に打ち切って二句切れにしてしまった後で、人から目を逸らしたその視線の先に、昔ながらの花が咲いているのを詩人は見付けます・・・香りに言及している点から(それと、この歌の詞書きに縛られて)、この花は一様に「梅花」とされていますが、ほんとはスミレでもヒナゲシでも何でもいいのです:「香」はこの歌の主役じゃないから。だって、そうでしょ、この詩人は「漂う香りに誘われてこの花を発見した」わけじゃなくって、「変わってしまった人の心から目を背けてみたら、変わらぬ昔の色と香りのままで、今も優しく自分を迎え入れてくれる懐かしい庭先の花が相変わらずそこに咲いているのを見た」わけだから、嗅覚誘導型の歌であっては、むしろ、いけないんです、この歌は。
 え?そんなこと言ったって「香ににほひける」って書いてある、ですって?あらら・・・じゃ、作り替えてみますか?「色ににほひける」って?語呂が悪いでしょ?なら、「にほひ」で「色」には後で言及することになるから、ついでに「か」で「香り」にも言及しといた方が、音調的にも意味的にも、二重の意味で得、でしょ?だから作者はここを「か」にして「いろ」にしなかったのだ、という判断ぐらい、詩人的には十分「アリ」なんです(研究者的にはナシ、でしょうけど)・・・あ、因みに、「にほふ」は現代人には専ら「匂う・臭う」だけど、古典時代には嗅覚より色彩中心の語で、その原義は「仁(に・・・アカ)+秀・穂(ほ・・・ヌキンデル)」、つまり鼻より目に訴える感覚語だった、ということ、念のために付け加えておきます。
 ついでに、気になる人のために、この歌の『古今和歌集』内での詞書も書き添えときましょうか(・・・でも、詩文を読むのに、あんまりこういう散文に縛られてちゃ、だめですよ・・・):
 初瀬にまうづるごとにやどりける人の家に、久しくやどらで、ほどへてのちにいたれりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむやどりはある、といひ出だして侍りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる。
 「初瀬詣でのたびに宿所とした人の家に、永らく宿ることをせず、長年経った後でそこに行くと、家の主人が、ほらこうして宿所だけは変わらずにありますよ、と言い出したので、そばに立っていた梅花を手に折り取って詠んだ歌。」
 ・・・というわけでこれ、久しく訪れなかった作者に対して、「もう忘れられちゃったのかと思ってましたよ」と皮肉っぽく永の御無沙汰への恨み言を言った宿の主人への、軽い言葉のジャブ反撃の歌です。「あなたは、私の変心を疑ってるようだけど、私の心は昔のままですよ・・・それより、あなたの方こそ疑わしいですねえ・・・」というオウム返し風しっぺ返しは、当時の貴人問答の一典型だったようで、この雅びなる応答形式を忠実に踏襲して、大弐三位(紫式部の娘さん)も第58番歌(「ありまやま・・・」)を作っています。彼女のそれはいかにも作り物っぽくぎこちない技巧でぎくしゃくしてますが、こちら貫之さんのはさすがに日本和歌界最大の功労者の作、詩的完成度が全然違います。二句切れで「人心花心」を仕切ってみせる演出もいいし、懐かしい香りに乗せて昔の思い出が脳裏に浮かぶあの不思議な感覚も行間から漂ってくるようです・・・西欧では、嗅覚が過去の記憶を呼びます現象のことを「プルースト効果」と呼びます:この種の体験が印象深く語られている長編小説"A La Recherche Du Temps Perdu:失われた時を求めて"のフランス人作者Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proustの名に因むものです。貫之の歌のほうは、目の前で皮肉を言った人への(本心ならざる)軽い意趣返しですから、嗅覚が呼び覚ます過去の思い出に浸って眼前の相手を置き去りにするような追想世界への没入までは当然演じていないわけですが、そんな嗅覚仕掛けの時間遡航体験を詠み込んだ歌を作っていたなら、「プルースト効果」ならぬ「貫之効果」なる用語が、千年も前に、この日本で生まれていたかもしれません・・・だったら面白かったでしょうにね・・・「プルースト効果」の説明には長編小説への回りくどい言及が必要だけど、「貫之効果」なら、たった三十一文字、十数秒で、直に相手の心に届きますからね・・・あ、そう言えばあった、あった、『古今集』夏・一三九「五月待つ花橘をかげば昔の人の袖の香ぞする」・・・けど、あたた・・・、駄目ですね、これ:「よみ人しらず」でしたから。でも、その気になって探せば、この種の「***効果」の即効説明に使える象徴的な和歌って、結構多くあるような気がしますけど。
 作者紀貫之は、日本で最初の全編和歌(殆どが短歌)のみの勅撰和歌集『古今和歌集』の編者の一人。その他の編者には、凡河内躬恒(第29番歌「こころあてに・・・」)、壬生忠岑(第30番歌「ありあけの・・・」)、そして貫之の従兄弟にあたる紀友則(第33番歌「ひさかたの・・・」)がいます。現存する最古の和歌集(短歌以外の形式のものも多く含む)『万葉集』(759頃)以降の和歌の集大成として、醍醐天皇の勅命により905年に成立。収録和歌1111(異本のも含めると1140)のうち、万葉調の長歌(5)・旋頭歌(4・・・上の句下の句ともに五七七形式)を除く全てが短歌形式。この集をもって、以後、「和歌と言えば短歌」の流れが出来上がります。
 と同時に重要なことは、『古今集』を境にして、宮廷貴族の文芸の中心的立場が、従来の漢詩文から和歌に移ったことです。『古今集』以前は、天皇のを受けて編纂される勅撰集と言えば、それは常に漢詩文集でした。中央の貴族の間では中国語(漢文)の権威が高く、和歌などは女の詠む/読むものとして、一段低い扱いを受けていました。中国伝来の正統文字(漢字)が「真名」と同時に「をとこで(男手)」と呼ばれたのに対し、漢字を崩して作った略字「仮名」はまた「をんなで(女手)」と呼ばれ、その女文字でられる和歌というものも、それなりの扱いしか受けていなかったのです。これは、漢詩が和歌より優れていたから、という文芸的理由によるものではありません:中国語(漢文)を読み書きできる者としての中央官僚の権威の高さの象徴として、漢詩文が用いられた(漢詩・漢籍の門外漢の如きは、知的エリートではない、として排された)、という政治的な図式です。律令制度の範を中国に取った日本の朝廷では、その公文書も漢文表記でしたから、中央の官僚にとって、中国語(漢文)の読み書き能力は必須の知識(&その他諸々に対する自らの優位を印象付けるための魔法の呪文)であり、選ばれたエリート層としての彼らの学才の証拠として、漢詩文をんじたり、漢籍の知識を披露したりすることが、誇らしげに行なわれていた、という訳です。
 この「漢籍こそが真の知的エリートのし」という風潮は、その後も長く中央に残りますが、その中国語(漢文・漢詩)の権威の高さの裏付けとなるべき中国型律令制度による中央集権体制という政治的土台は、『古今集』成立当時には既に揺らいでいました。
 律令制度とは、ものすごくわかりやすく言えば「国民総背番号制」で、「日本全国の人民・土地をことごとく中央政府が把握・管理し、各人に応じた国への負担義務を平等に遂行させる」というもの・・・ですが、首都(京都)を離れた土地になればなるほど、そこに暮らす人民の実態は戸籍台帳の杜撰な記載の行間から漏れてしまって、中央への報告などは有名無実と化し、土地の開墾意欲を盛り立てるために免税特権を認めてある種の私有地化を許した「荘園」が各地に乱立して有力貴族の財源となっていたのが実情で、これに起因する税収不足が中央政府の財源を圧迫し、その権威を弱めてもいました。『古今集撰進勅命を出したのは醍醐帝ですが、彼はまた「荘園整理例」を出した初の天皇でもあります。それほどに、この時代、中国型中央集権国家の図式は既にもう崩れかかっていたのです。
 であれば当然、中央政府の公用文字たる中国語や、中国語で記された漢籍の権威の高さも、日本独自の文物の前に、その輝きを失いつつあったのだ、と論じることも可能でしょう。それを象徴する出来事が、200年に及んだ遣唐使の廃止(894年)です(唐はその後907年に滅亡しています)。そして、その遣唐使廃止の建議を宇多天皇に対して行なった菅原道真 ― その後「学問の神様・天神様」として祭り上げられることになる、日本史上最も有名な知的エリート ― が、政治的ライバルの藤原時平一派の陰謀によって中央政界を追われ、九州の太宰府に左遷されてしまうのが901年(彼はその地で903年に死亡・・・後に、彼のりを怖れた京都の人々の計らいにより、この地で「太宰府天満宮」としてられることになりますが・・・)。
 時平が道真を葬り去ろうと決めたのは、道真が中央集権的国家体制の再建を目指す政治改革の旗頭だったからこそ、です。既に地方に「荘園」という名の自らの財務基盤を確立しつつあった有力豪族(その多くが藤原氏)にとって、朝廷による地方支配の復活を主張する道真に代表される知的エリートの中央官僚は、まさに目の上のタンコブだった訳ですね。しかし、その藤原時平にしてからが、道真追放後、どうにも立ち行かぬ中央の財政という現状に直面して、902年には日本初の「荘園整理令」を出すなど、結局は道真が目指したのと同様の施策に行き着くこととなります・・・が、歴史の長い目で見ると、結局この律令体制への復古の試みは成功することなく終わり、以後、「国民総背番号制」という几帳面な手法による人民支配の試みが復活することはなく(・・・コンピュータ時代の現代では、それを再びやりたがる役人サンが沢山いるみたいですけど・・・)、以後、「土地からの租税収入(のうちの決められた税率分)だけは国庫に納めるように(・・・残りはピンハネOK)」という比較的緩やかな朝廷支配体制(「律令国家」と対比して「王朝国家」と呼ばれたりします)へと推移して行くわけですが、その過渡期にあたったのが宇多醍醐朱雀帝の時代。
 そんな、中国に範を取った政治体制の終焉と時を同じくして、日本独自の文字・文学形態である「総かな三十一文字でられる短歌」が、漢詩文を圧倒して日本の宮廷文化の中心の位置に躍り出た象徴的出来事が、初の勅撰和歌集としての『古今和歌集』の成立だったわけです。時に905(延喜五)年4月18日。
 漢詩と和歌との対照的関係は、『古今集』の場合、中央知的エリートとその他諸々の下級官吏との関係にそのまま移し替えることができるようで、この和歌集の編者として選ばれた四人はみな官位が極端に低く、中国型中央集権体制への復古を目指す菅原道真派のパワーエリート達とは何の接点も持ち得ぬような下っ端の役人ばかりでした。別の見方をすれば、中央集権支持層の「漢文派」の勢力を切り崩すために、藤原時平側の新日本秩序志向派が、中央の出世コースから外れた下級役人ばかりを「和歌派」として大抜擢したのだ、と言うことも可能かもしれません。いずれにせよ、撰者の四人は(役人としてはともかく)歌詠みとしては当代一流の誉れ高く、身分の低さにもかかわらず天皇のお供として詠歌したり、著名貴族の邸宅の屏風絵に相応しい歌を詠んで献じたりでその名を上げていた人達でしたし、時平もまた宮廷内で盛大な歌合せを催すなど和歌愛好心の強い人だったと言われています。
 そんな四人の編者の中でも、和歌の日本文学に於ける位置付けを確かなものとする上で最も顕著な功績を示したのが紀貫之でした。彼の功績はこの『古今和歌集』編者としてのものに留まらないからです。
 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」の書き出しで有名な『土佐日記』は、彼が土佐国(現在の高知県)の地方官(国司)としての四年間(930~934・・・時に貫之64~68歳)を過ごして京都に帰る時の紀行文を、「ひらがな=をんなで=和歌をる文字」で記したもの。そのために彼は敢えて自らを女性に仮託して書いています。「男なら漢文だろ?」と言われてしまう御時世だったからこそ、和歌の側の人間として「仮名文学」を書きるには、そうせねばならなかった訳でしょう。55日間の旅の記録に57首の和歌を添えているところからも、著名な漢詩文の意趣と殊更に競わせるが如く自らの和歌を並べる記述があるあたりからも、黎明期にあったこの文学ジャンルを自らの力で盛り立てようとする彼の創作的情熱が感じられます。
 彼のこの和歌文芸推進者としての情熱は、また、筆者不詳とされる『伊勢物語』の作者も、実は紀貫之ではなかったか、との仮説へと自然に結び付きます(文献学的裏付けはないのですが)。在原業平とおぼしき男を(多く)主人公とする、「短歌に、その歌の背景事情を書き添えるものとしての詞書をより拡大させた物語を添えて、どちらが主役とも脇役とも言えるような、散文+韻文の読み切りエピソード群」たる『伊勢物語』は、成立年代的には当の在原業平(825~880)の没後であることが確実視される上に、『古今集』(905)との強い関連性も感じられる点で、その編集作業の余勢を駆っての(あるいは同時進行、または、勅撰和歌集撰進という大仕事を控えての習作としての)紀貫之(866~945)の創作的情熱の派生物、との推論も、至極自然に感じられるのです。
 貫之は『古今和歌集仮名序』の中で、在原業平の歌を評して「言いたいことが余って、和歌の三十一文字だけでは言葉が足りていない感じ」と言っています。これ、字面通りに受け止めると「舌足らずな歌」という批判になりますが、逆読みすれば「和歌だけじゃ足りないんだよねえ、業平の場合・・・だから、その歌にまつわる事情を述べた散文も同時に添えないと、その面白さが十分には伝わらないのさ・・・だから、書いたのさ、詞書きの拡大発展版みたいな物語を、ね」とも取れるとは思いませんか?・・・そう取った上で、『古今集』と前後して読むと、貫之/業平と『伊勢物語』の錯綜するイメージが、これらの作品を面白く読むための上質なスパイスになることだけは(作者が貫之であろうとなかろうと)確かです。
 それほどまでに和歌の世界の興隆に大いなる情熱を捧げ最大級の功績を残した紀貫之でしたが、六十代後半という高齢で自ら京都を離れて土佐(高知)の地方官として現地に赴任せざるを得なかった、という事情からも知れる通り、官吏としての人生には決して恵まれませんでした。『土佐日記』を書き上げた10年後の945年に80歳で死亡しますが、最終的な官位は従五位上・・・ところが、死後960年も経った1904年4月18日、時の明治政府によって、紀貫之は「贈従二位」へと六階級特進させられています(「贈」とは、死後に賜わる官位を意味するもの)。この日は、他でもない、『古今和歌集』成立からきっちり千年後。「やまとうたは・・・」で始まる「仮名序」の筆者にして中心的編者たる貫之を改めて称揚することで、新生大日本帝国の国威掲揚を図ったもの、でしょうか・・・政治の世界の人々のやること・考えることは何だかよく解りません・・・けど、勲章だの官位だのはともかく、歌に宿った真正の価値だけは、千年経とうが万年経ようが、変わらぬ芳香を放ちつつ光り輝いています・・・草葉の陰の貫之さんも、従二位の称号よりは『伊勢物語』作者に任ぜられることをこそ喜ぶんじゃないかしら・・・ということで、彼に成り代わり(僭越!)一首:
 人はいさ心も知らず 古ることは歌ぞ昔の香に匂ひける

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