百一038解題)忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
『拾遺集』恋四・八七〇(右近:うこん)(女性)

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解題

 {(将来、あなたに)忘れられることになる我が身であろうとは想像もせずに}{かつて、私が変わらぬ愛を誓った}/{私への変わらぬ愛を誓った}『あの人』の<命>が(神前での誓いを破った罰として失われることになるであろうことが)実に残念です・・・え、<忘れ去られる私の境遇>はどうなるのか、って?・・・ううん、いいの、そんなことは別に何とも思いません(もう、あの人とのことなんて、忘れて吹っ切っちゃったから)。
 わずか三一文字の短歌の小宇宙に、奥行きと広がりを織り込む究極の技芸たる「錯綜」(共通構造)が実に見事に効いていて、その意味では卓抜の技巧歌であるが、そこに込められた情念の濃密さは、技芸の絡繰りを塗りしてこれを殆ど感じさせない・・・実に、二重の意味に於いて、恐ろしい歌である。
 「忘らるる身」が受動態である以上、これが「私」を指すのは論理的に当然のことだが、「忘らるる身をば思はず」・「誓ひてし」・「人」と続くことで、「将来あなたに忘れられることになる我が身の境遇を予想もせずに」・「あなたへの愛を誓った」<私>に言及するばかりでなく、「将来忘れ去ってしまうことになる女だなどと予想もせずに」・「私への愛を誓った」<人(=あなた)>への意味の広がりをも手にしている点に目が行くようでなければ、この歌の恐ろしさには思いが至るまい。四句目の出だしの「人」には、上の句(第一・二・三句)全体が限定修飾語として{忘らるる身をば思はず誓ひてし}<人>の形で掛かるのだ。この多重性の絡繰りは、並々の歌詠み能く行ない得るものではないし、凡庸な歌読みであればそれを読み解くことすら出来ずこの歌に「二句切れ」などと噴飯ものの紋切り判を押すことで、真の歌詠み/歌読みの失笑を買うことになろう。
 時制的には「過去」を主題とするこの上の句錯綜構造が、四句目で「現在~未来」に転ずるとともに、「あなたの命が、もったいない」という唐突な意味上の展開を見せる。読者はここで考えることになる:「命?もったいない?・・・死ぬ、ってこと?何で?」・・・そこで改めて読者の視線は、最前の上の句で述べられた二人の過去へと引き戻されることになる:「将来忘れてしまう女だなんて思いもせずに、変わらぬ愛を、神に誓った・・・のに、こうしてその誓いを破った・・・からには、貴方は、神罰として命を失うことになるだろう」というのである。何と恐ろしいことをさらりと言ってのけていることか!・・・この歌が詠まれた当時の紀元十世紀半ばの日本に於ける神前での誓いの重さを差し引いてもなお、この「人の命の惜しくもあるかな」はずっしりと重い・・・そこに、忘れ去られた女の恨みが込められていればこそ、「単なる神罰」よりもずっと重い・・・神仏がその霊威を失って久しい現代にあっても、この女の情念の重みだけは、千年前とまるで変わらぬものであろう。
 更に恐ろしいことには、このとてつもなく重い怨念を、この詠み手は、自らの言葉としては一言も口に出して訴えてはいないのである。それどころか、形の上では「神罰で失われることになる貴方の生命を思うと、残念でなりません」と、相手本意のお悔やみを申し上げているのである。そこに更に駄目押しするかの如く、情念の海の底から再度浮上してくる言い回しが「忘らるる身をば思はず」・・・「失われる貴方の命への遺憾の念を思えば、貴方に忘れ去られた我が身のことなど、何とも思いません」として、この第一・二句は、三度目の錯綜を以てこの歌に最後の味付けを施している・・・それは、表面的には、我が身のことよりかつての恋人の境遇を気遣う殊勝な女心ではあるが、これを字面通りに受け取ってしまう感性しか持ち合わせぬ者に、恋の歌を読む(ましてや、詠む)力はない。「忘れられた我が身のことなどどうでもよい」と言うからには、この女にはもう、自分を忘れた男への未練はない(・・・わけではないかもしれないが、自分を忘れた男のことを、自分も忘れてやろうと意志的に努力する段階に至っていることは確かである)・・・この段階で女が望むのは、自分に冷たくした男との復縁ではない:男への報復である。それを為すのに、この女は、嫉妬に狂った自らの自暴自棄な言葉や行動に訴えたりはしない・・・公平にして冷徹なる神の裁きが、不実なかつての恋人の身の上に下ることを、淡々と願うのである・・・しかも、心の底ではそう願っておきながら、言葉の上では彼の「約束された不幸」を、早々と悔やんでみせるのである・・・
 げに恐ろしきは、言葉少なな女の胸の内である。ここまで殊更殊勝に淡々と言葉をぐ時の女は、その穏やかな口先と寂しげな表情の奥底に、単なる言葉や行動では表わし切れぬほどに激しい感情の荒波を隠しているものである。激し過ぎるからこそ、表には出さずに秘めおくべきものもあるのだということを、この歌詠みは、自らの情念の深さと、言葉への才覚の確かさをもって、皮膚感覚で知っているのであろう。常人を越えた感情的深度は、全ての詩人になくてはならぬ特性ではあるが、その深みと絶妙な均衡を成す言語学的自制心がなければ、言い表わすべきものと秘めおくべきものとの見境も付かず、結局は私的感情の垂れ流しに終始した駄文のミソクソ文字を放り散らすばかりで、詩的興趣の泉から湧き出た流麗なる三十一文字など望むべくもない。この右近という人は、紛れもなく、詩人なのである。
 馬鹿な女や、薄っぺらな男であれば、自らの感情の大きさを他者に知らしむるに、海中に没した氷山の巨大さを感じ取らせるに十二分な大きさの氷柱を水上に露わにすることで事を達しようとする:即ち、声の限り、力の限り、ぎゃあぎゃあわぁわぁ騒ぐのだ、「俺は・あたしは、悲しいんだー/嬉しいんだー/好きなんだー/辛いんだー/寂しいんだー/ムカつくんだーッ!」・・・実に、動物的なやり口である。中味の奥深さを自負する男性、たしなみのある魅力的な女性は、洋上に浮かぶ氷山の一角では、海面下にむ氷山の巨大さを表現しようがないことを知っている。その巨大さを他者に知らしむるには、自らの動物的に暴力的な表現・行動に依るのではなく、他者の想像力の助けが必要であることを知る彼ら/彼女らは、氷山の一角を特異な形で研ぎ澄ますことで、水面下に没した氷山全容の巨大さへと人の注意を引こうとする。
 殊更殊勝な相手本意の言動の下に、忘れ去られた自分の思いの深さをじっくりと沈めた上で、「私を忘れた貴方への判決は、神罰による非業の死・・・可哀想だけど、自業自得、よね?」と、複雑極まる錯綜構造を駆使しつつさらりと言ってのけるこの女性の文芸的技巧の確かさ、情念の深さ、この歌の恐ろしさ・・・お解りいただけたであろうか?
 作者の人物像に関しては、殆ど資料は残っていない。醍醐天皇の中宮穏子の下に出仕していたらしいが、生没年は不詳、宮中に於ける960・962年の内裏歌合と966年の内裏前栽合に参加記録が残るぐらい。「右近」という女房名があるところから逆算して、右近衛少将「藤原季縄」の娘、ということにされているが、これとて一説にはその姉妹であったとも言われ、定かではない。歌の本には「情熱的な女流歌人で、複数の男性と関係があった」などと書かれることが多いが、当時の宮中の女房たちに関しては「和歌の贈答記録がある」というだけでも「貴族男子と関係あり」と評されてしまうのだから、彼らと彼女との間にみっちりとした肉体関係があったか否かは神のみぞ知るところ。まして「情熱的な女流歌人」なる風評たるや、その典拠は確実にこの「忘らるる・・・」の歌であって、日本に於いては本人のプロフィールが全く不明の中でも小さなエピソード一つでそのイメージが如何に容易く決まってしまうものか、を示す無数の事例の一つでしかない。
 であるから、彼女のことを知りたければ、やはり、その詠んだ歌に拠るよりほか仕方がない・・・ので、今に残る彼女の短歌を更に二つばかり紹介して結びとしよう:
 おほかたの秋の空だにわびしきに物思ひそふる君にもあるかな
 「別に特別な事情がなくっても寂しげな秋の空が、貴方に飽きられて一人ぼーっと見上げる私の目には、より一層わびしいものに感じられることですよ」
 (「あき」は「秋」と「厭き」の掛詞
 身をつめばあはれとぞおもふ初雪のふりぬることも誰にいはまし
 「初雪が降れば、誰彼となく声かけてそのことを教えたい気分にもなるけれど、私の胸中に長年かけて積もらせたこの思いばかりは、いったい誰に告白したらよいものかしら」
 (「つめ」は「詰む=宮中に出仕する」と「積む=長い時間を経る」の掛詞
 (「ふり」は「(雪が)降る」と「(思いが)経る」の掛詞
 (「つめ」は「積め」を介して「雪」につながる縁語
 ・・・いずれの歌も、技巧的な工夫が随所に織り込まれている点では、『古今集』時代の特徴をよく表わしていて、「忘らるる・・・」の歌に通じるところがあるが、込められた情念の深さに於いては及ぶべくもない。やはり「複数の男性と関係を持った情熱的な女」なる言い草の根は、この「忘らるる・・・」の言葉の陰に宿した女心の恐ろしさにこそ(&それにのみ)あり、と見るのが、文芸的に正しいようである。

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