百一040解題)忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人のとふまで

忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人のとふまで
『拾遺集』恋一・六二二(平兼盛:たひらのかねもり)(男性)

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解題

 冒頭の「しのぶ」は「ぶ(恋慕する)」ではなくて「忍ぶ(我慢する)」。何を我慢しているかと言えば「恋しい思いを表に出すまいとして、耐え忍んでいる」のである。そうまでして耐え忍ぶ理由はどこにあるのか、それは不明だが、とにかくその自らの恋心を隠し通そうとする忍耐の努力も、しかし、無駄だったようである・・・「あなた、恋の思いに胸を焦がしているのですか?」と、「人(第三者であるが、ひょっとしたら、恋慕の相手その人かもしれない)」に言われてしまうほどに、恋情がはっきりと表に出て、我知らずひとりでに自己主張を始めてしまっていたのだから。
 ・・・というこの歌は、和歌の世界では有名な、村上天皇(62代)時代の『天徳四年内裏歌合』(960年4月28日)席上での「題詠」で、お題は ― もうお判りであろう ― 「忍ぶる恋」である。内気な思春期の恋情がよく出ていて、清々しい歌だ。
 が、「歌合せ」である以上、この歌と直接張り合う対抗歌があった訳である。その歌は何か?・・・『小倉百人一首』でも隣り合っている次の第41番歌「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」(壬生忠見)である。
 で、結局、どちらの歌が勝ったのか?・・・両歌、甲乙付け難くて困っていたところ、歌合せの主宰者である村上天皇が、「忍ぶれど・・・」と盛んにこの歌の方を口ずさんでいたので、それによりこちらの勝ち、と決した・・・と、後代の『袋草子』(1158頃)を初めとする物語は伝えている。
 「歌合せ」とは、現代の「紅白歌合戦」からも類推が利く通り、二手に分けた集団ごとに、歌を(一首ずつ)出し合ってその優劣を競い、勝敗を決するもの。大晦日のNHKの歌合戦は「紅組 vs. 白組」に分かれて争うが、「歌合せ」の場合は「左方先手) vs. 右方後手)」である。
 それぞれの「」には、歌を出す詠み手以外にも、その詠み手の側に味方する人々が参加して、自歌は出さずとも、歌の優劣の議論には加わった。一方の側に味方する人のことを「方人」(左の方人/右の方人)と呼んだ・・・が、後代になるとこの「方人」は「左方右方として歌を出した作者本人」の意に転じ、「歌は出さずに応援に回る者」の意味では「念人」という新たな用語が生まれる。しかし、「方人」の原義は(歌学的にも古語全般に於いても)「一方に肩入れする者」であるから、「左・右いずれかの側に与する人」の意味での「方人」の妥当性は後代になっても揺るがない。有り体に言えば、敢えて念人」と専門用語を使っている場合は「自作ではない自分側の歌の応援者」の意味であることに間違いないが、「方人」と言う場合には「歌を出した者」なのか「自分側の歌の応援者」の意味で使っているのか、当人(あるいは脈絡)に聞かねば判らない、ということになる。
 出された歌を詠み上げる係は「講師」。歌が読み上げられることを「披講」という。平安時代には左・右それぞれに別々の「講師」が付いたというから、双方ともに、さぞや美しい声(あるいは、顔?)の読み手を引っ張り出して来ては、自分方の勝利に貢献させようとしたものと想像される。
 左右の歌を吟味してその優劣を論じる係は「判者」。判定理由を述べた言葉は「判詞」。決着の付け方には三通りあって、「勝」・「負」の他に「」(引き分け)の場合もあった。基本的には勝敗の決着は「判者」が付けるが、参加者の合議により決着を付ける場合もあって、それは「衆議判」と呼ばれた。鎌倉期以降の歌合わせは「衆議判」が殆どだという。それは当然、そうであろう:歌壇に於ける流派ごとの争いが鮮明化した平安末期以降、「歌合せ」は各流派の名誉と意地を賭けた歌学論争の場と化したのだから、その優劣を決するのがたった一人の「判者」であっては ― しかもその一人は必ずいずれか一方の流派に属する「方人念人」であることは構造的必然なのであるから ― その独裁制にしたのでは、勝敗の帰趨は最初から明白、不平等を通り越して勝負不成立である・・・歌壇論争としての「歌合せ」は、合議制の「衆議判」でなければ成立しないのである。
 そして、当然のことながら、「歌合せ」の形で競わせる以上、「左方右方」の歌を共通の尺度で判定するために、共通の「題」に沿って詠まれることが前提条件となる。その「題」も、その場で出されたものに即興で歌を詠み添える「当座」と呼ばれるものはであり、予め出される「兼題」が殆どであった。それも当然、そうであろう:「歌合せ」で勝利を得るために周到な事前準備をしたい(沢山の歌を作った中からの選りすぐりの一首を披露したい)のが人情であり、即席で片が付くような戦い方しか出来ぬ「当座」では(伊勢大輔和泉式部小式部内侍のような"何も考えなくてもすらすらと口をついて名作が飛び出してくる"天才歌人でもない限りは)困るのである。
 決められたお題に沿って歌を詠む「題詠」が、和歌の世界で重きを成し始めたそもそものきっかけは、「屏風絵」に書き添える「屏風歌」であった ― 自分が実際に見たわけでもない絵の中の情景に合わせて、気の利いた歌を書き添えるヴァーチャル美景賛歌を通して、紀貫之ら(決して高くない身分の)古今歌人たちは、高貴なる人々の知己恩顧を得て、和歌を日本の文芸の中核へと押し上げて行ったのである。やがて、そうして名を上げた彼らの詩的センスは、宮中行事や行幸御幸へのお供として借り出され、折々の場面での詠歌を通して、雅びなる宮廷生活の日常を彩るものとなって行く。が、そうした彼らの営みには、その詠歌の舞台の多くが「貴人の面前」であっただけに、「求められた題に沿って即座に歌を詠む即興的な詩的センス」が常に要求された。古今歌人たちは、後代の歌人のように、長い時間をかけて(時には、手下の歌詠み名人に代作させたりして)事前に「秀歌準備」を整える「兼題」的余裕は、多く、与えられていなかったのである。絶えざる緊張感の中で自らの詩的センスを常に磨き、披露せねばならなかった彼らの苦労は、いかばかりのものであったろう?・・・『古今和歌集』(905)に収録された著名歌人の作品の中には、「なんだ、こりゃ?」と首をひねりたくなるような"秀歌ならざるもの"が少なくないが、その多くは「当座」であって「兼題」ではない。彼らが置かれた詠歌事情の「即興性」を考慮に入れず、後代歌人の「兼題歌」と彼らの「当座歌」を同じ土俵の上で競わせて、「なぁーんだ、古今歌人も、たいしたことないじゃないか」などと判定するのは、不平等というものであろう。
 「歌合せ」に関して現存する最古の記録は、885年頃の『在民部卿家歌合』のもので、主宰者は第16番歌作者在原行平。『古今集』成立の20年も前に既にこうした文芸的営みが行なわれていたことを示すものであるが、平安前期の和歌黎明期に於ける「歌合せ」は、御座敷芸に近いほのぼのとした遊興で、「兼題」一色の後代のものと違って「当座」的色彩も濃く、当然、凝った趣向の歌よりも、言葉遊びに近い即席歌が多くなる。それが、後代、和歌が貴族文芸の中心となり、社会的名誉や出世の契機としての歌の重要性が増すと、「歌合せ」の真剣度も自ずと違ってくる。そこは、歌人個人の世俗的思惑のみならず、歌壇に於ける流派争いや、歌学論争の舞台ともなって行き、「判者」の「判詞」は一種の歌論書的色彩さえ帯びてくるのである。
 この40番(そして次の41番)の舞台となった『天徳四年内裏歌合』は、「兼題(全20題)」提示から本番まで、実に一ヶ月もの準備期間があったと言われている。その間、歌人達は、自らの面目(と出世)を賭けて、何十・何百首もの歌を用意した末に、選び抜いた最高の自信作をもって会場に臨んだことであろう。・・・その結果、この平兼盛の40番歌に敗れ去った41番歌の壬生忠見の悲憤が如何なるものであったかは・・・次の解題で触れることにしよう。
 平兼盛光孝天皇(58代)の末裔。父親の篤行王光孝帝の曾孫で、兼盛は950年に越前権守に任官すると同時に臣籍降下して「平」姓を賜わっている。官位の最高位は従五位上と、あまり高くはない。生年不詳だが、991年に没、おおよそ80歳前後での大往生と推定されるので、官歴不詳・生没年不明の壬生忠見に比べれば、まだしも恵まれていた人生と言えるであろう。
 この人にまつわる文芸関係の逸話としては、上記の壬生忠見との歌合せ以外にも、後に一条朝で彰子後宮の才女として活躍し『栄花物語』(正編)の作者として知られることになる赤染衛門の父親が兼盛である、という事実が有名。彼女は、兼盛と離縁した妻が赤染時用と結婚した後で産んだ娘なのであるが、離婚時には既に彼女を身籠もっていたので、兼盛はその親権を争って裁判に訴えたものの、敗訴したらしい。妙に現代的な話で面白い(・・・まさか後の赤染衛門の文名を予感してのことではなかったろうが)。

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