百一042解題)契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは
『後拾遺集』恋四・七七〇(清原元輔:きよはらのもとすけ)(男性)

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解題

 有名な恋歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山も越えなむ」(『古今集』東歌・一〇九三・よみ人しらず)を下敷きにした歌。
 元歌の意味は:「愛するあなたをさて置いて、もし私が浮気心を持つようなことがあれば、あの"末の松山"をが越えることになるでしょう」というもの。ここでわれている「末の松山」は、陸前の国(現在の宮城県多賀城市)にあり、海岸線から離れた所にあるので「絶対には越えない」とされることから、「末の松山が越す」は「あり得ぬこと」の代名詞という形の「歌枕」というわけ。現代風に言えば「常夏の島に雪が降る」とか「サハラ砂漠が水浸し」とかの感じ。
 この「まさか!そんなのアリ?!」の情趣を踏まえて、古今時代の代表的歌人の一人藤原興風は次のような歌を詠んでいます(『古今集』冬・三二六)
 浦ちかくりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る
 ・・・ここは末の松山、あの「が越えることは絶対にない」と言われる場所・・・なのに、あれっ?飛び散る白浪が迫って来たぞっ!すわ、こりゃ津波か天変地異か?!・・・と思いきや、よく見りゃ何のことはない、舞い散る白い浪花の正体は、折からの寒さで降り出した白雪、でした。
 ・・・という、実際の末の松山での詠歌ならぬ、宮中で詠まれた「題詠」のヴァーチャルソングでした。「波を雪に」あるいは「雪を波に」、はたまた「波・雪を花に」あるいはその逆に、という「白い色した自然の景物の混同」という「見立て歌」もまた、和歌の「歌枕」としては定番中の定番・・・ですが、その定番の多くの元を作ったのはほかならぬ古今時代の歌人達なのですから、古今歌人興風のこの詠みぶりを後代の目で見て「陳腐なmannerism(マンネリ)歌」と酷評するのは、不当でしょう:それはまるで、後代SF映画興隆の起爆剤となったあの"Star Wars"の70年代的映像を見て「ありふれた特殊効果で、陳腐」と見下すのと同じこと・・・あっちの作品を私達がこぞってマネしたからこそ「マンネリ」になった訳で、物真似の元ネタをまえて「そんなの見飽きた、オマエはマンネリだ!」と言うのは、よく似た親子が並んでるのを見て「まぁやだ、このお父さんったら、息子さんにソックリ!」と言うのと同じく、よくよく考えればアホっちいこと・・・まぁ、言ってる本人の見立てとしてはそれで正しいんでしょうけど、「パースペクティブがズレてる」って、そういうこと。
 さて、その「歌枕」を、こちら42番歌では「末の松山こさじ」の形で引用しています。直訳すれば「末の松山は越えまい=あり得ないことは、するまい」ですが、この訳し方をしたら試験では零点。古典文法というパースペクティブから述べれば、助動詞の「じ」は受験生泣かせの曲者で、単純に「・・・はあり得ないだろう」という打消推量なのか、はたまた「・・・するつもりはない」という打消意志なのか、二者択一の選択を迫られるもの;なのだから、ただの「・・・まい」の訳では玉虫色:打消意志なのか打消推量なのか、判断せずに逃げを打っているように見えちゃう以上、採点官からは零点をもらっちゃう訳です。
 「じ」の意志性の有無の判断材料は、無論、脈絡:自分自身の意志と努力でしたりしなかったり出来ることについて、ある特定の道を選択的に排除しようとする意思表示と見た場合は「・・・なんてするものかっ!」となり、そんな肩肘張った頑固さがない(多く、主語は自分以外の第三者の)場合は「・・・ってことはまずないだろう」という暢気他人行儀な訳し方で事足ります。英語世界の"意志未来のwill"と"無意志未来のwill(及び、英国人御用達shall)"という助動詞の基本をきちんと踏まえてる人にとっては、こんな「じ」の識別ぐらいは朝飯前ですけど、古文読者の誰もに英語の心得がある訳でもないので、この「じ」の識別問題は、大学入試の定番商品:落ちたくなければ、脈絡を見落とさぬことです。
 この歌の脈絡では「じ」は打消意志になり、「絶対に、末の松山は越さぬことにしよう!」、換言すれば「あり得ぬことは、絶対に、するつもりはない!」との解釈になります。でも、「あり得ぬこと」って具体的に何?という問題が残る訳ですが、その答えは、元歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山も越えなむ」に於ける「君を置きて徒し心が持」つこと:「あなたという人がありながら、それをさておいて他の異性への浮気心を私が持つこと」。そんなことをして「末の松山が越す、なんて事態を招く"つもりはない"(打消意志)」という訳です。
 先程引き合いに出した藤原興風の「浦ちかくりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る」の場合は、「末の松山」の「歌枕」として「絶対にあり得ないこと」(不可能性)しか引っ張って来てなかったけど、こちら42番歌の場合は「浮気心を持つ・・・なんて絶対にあり得ないこと」という形の両刀遣いの二刀流で「末の松山」から枕二つ引っ張って来ちゃってる訳ですね。さすが恋歌、そうして枕二つ並べて恋人と二人で共寝しつつ、「契りきな・・・約束したね」「かたみに・・・お互いに」「袖を絞りつつ・・・濡れてぐしょぐしょの袖を絞りながら」などと、その枕の上で、しかし、この人たちの袖がびしょびしょだったのは、何故でしょう?これが次なる問題。
 よほど感情的に高ぶってたんでしょうけど、その高揚感から「お互いの袖が涙に濡れた」にしても、その感情の高ぶりの原因が何だったのかは、この歌からでは何一つ判りません。お酒を飲んだ後で事に及んだところ二人とも泣き上戸だった、とか、大雨に降られて雨宿りしたホテルの中での情事だった、とか、想像の余地だけは色々あるけれど確定的な答えは何一つないし、そうした下ネタ的ベクトルでしか発展しない話をこれ以上書きっても下品にしかならない・・・ので、ここは一つ、歌学的な話(ちっとも科学的じゃないけど)でまとめさせてもらうなら、この「袖を絞る」という「悲しみの歌枕」は、「二人一緒に"浮気心を持つ、なんて絶対にしないっ!"と誓い合ったあの夜」には、実は無関係なんです ― あの夜には、二人とも、泣いてないんです・・・だって、変わらぬ愛を誓い合う時に、泣いてるなんてヘンでしょう?アドレナリンびんびん、筋肉ゆるゆる、にこにこしながらぼそぼそくのが愛の言葉でしょ?それを、二人とも泣きながら誓い合うなんて、おかしいと思いません?・・・どちらか一人(たいてい、女性)がわんわん泣いて「わだしぃ、、、あなだをぅ、、、ぜっだいぃ、ぎらいになんでならだいんだがらぁ・・・」とか涙鼻水ズルズル垂らしつつ聞き取りづらい声絞り出してて、その肩を(泣いてないほう、たいてい、男の)恋人がよしよしと抱いてなだめすかしてる図、なら(美しくないけど)アリかもしれない。けど、二人揃って「わだしぃ、こごろがわり、ぜっだいじなぃ・・・/おれごぞぉ、ぜっだい、ぎみ、ずでなぃ・・・」とかやってる場面なんて、想像し難い、っていうか想像したくない、っていうか、そういう想像できる人なら「かたみに袖を絞りつつ」涙声での愛の誓い合いなんてあり得ない(・・・というか、嘘っぽい)、って感じるはず。
 だから、この「袖を絞りつつ」という濡れ濡れ表現は、第四・五句の「末の松山こさじ」に於ける「」を先取り(というか、環流)する形で「おっと、早くも、濡れちゃった」という性質のものなんです。変わらぬ愛を誓い合っている段階では本当はお互い「笑顔、笑顔」だったものを、後日「誓い合ったというのに、あの人は、私を置いて他の異性への浮気に走ってしまった」というウェットな展開が待つことを既に承知のこの歌の詠み手が先走って、「袖を絞る」のウェット語感を、勇み足で入れちゃった、ということでしょう。詩人的には、この部分を見ただけで、「あ、この作者、作り話を書いてる」って断定できちゃう表現・・・まぁ、詩に嘘は付き物/和歌の多くは「題詠」、なので、これ、別に非難じゃないんですけどね。
 という訳で、「あり得る解釈は全てアリ」になっちゃうこの「かたみに袖を絞る」理由となる現実三面記事的背景事情なんてクダラぬ事柄に、ヘンにマジメに関わり合うような真似をしたら、その時点でその人、「自分は歌詠みではありません」&「自分は大した歌読みでもありません」と暴露しているようなもの。「末の松山が越す」ことはあり得ずとも、「末の句本の句へと環流する」ことは、詩文にはしょっちゅう起こる事なんだから。「かたみに袖を絞りつつ」は、「誓い合った夜の両者の泣き濡れた様態」ではない(可能性が高い)ということを、認識しておくべきでしょう。
 ということで、この42番歌のの流れをおさらいしておきましょう:
1)「末の松山が越すことはあり得ない・・・あなたを差し置いて他の誰かと私が浮気する、という、これまたあり得ない出来事でも起こらない限りは。」
2)「・・・と、古歌の歌枕など二つ並べつつ、お互い涙で袖をぐしょぐしょに濡らしながら・・・」
 ・・・って、この部分は「末の松山」で早くも濡れちゃってる・・・後日悲恋の予兆でしょうか、はたまた詩人の勇み足でしょうか・・・現実的に、如何なる理由によるものかは、判別不能につき、このまま流しておきましょう。
3)「・・・あなたと私は、変わらぬ愛を誓い合いました・・・よね?"末の松山が越す・・・原因を作るような浮気心を持つ・・・なんてことは絶対にするものか!"と・・・」(で、言外で、作者は次のように嘆くのです ― なのに、あなた一人だけ、私を置いて、末の松山彼方へと、とともに消えてしまったのですね・・・ザッバーン!波浪グッバーイ!
 ・・・ここは「契り"き"な」と過去形助動詞になってるところがミソ。つまりこの歌では、実は初句から、「これは、既にもう過ぎ去った愛の追想」と断わり書きを入れていた訳で、その意味ではこの歌の最初の時点にして既にもうこの詩人は「この物語の破局の時点からの時間遡行的描写」の自由を手に入れていた訳で、そう考えれば先程は「勇み足」と書いてしまった「末の松山で泣き濡れた袖を絞る」のグショグショ描写の先取り表現にも、ある程度の正当性はあったとも言えそう:だけど、「かたみに=お互い」の部分には論理的矛盾が残る(・・・だって、悲恋に泣いてるのはこの詠み手一人であって、他の恋人と今頃はヨロシクやってるの相手のほうは、多分、泣いてないんだから)。
 総括:
 「かつて、変わらぬ愛を誓った」ことも、「結局、あなたがその誓いを破った」ことも、言葉の上では明言せずに、「末の松山」という「歌枕」と過去の助動詞「き」の一語で表わす、という密度の濃い集約的修辞法と、破局の悲愁を初句の「き」で予告してしまった上で、かつての二人の愛の最高潮の場面を改めて後段で描く倒叙法(かつてのアメリカTVドラマ『刑事コロンボ』みたいな、真犯人を先出ししちゃう描き方)は、お見事。・・・その愛の最高潮の時点で既にもうちゃっかり袖を(それも後日泣くことになる作者だけじゃなくて、作者を裏切る相手のほうまで二人分)「末の松山」で予兆的に濡らしちゃってる点は、意識的修辞法というよりむしろ、作者の勇み足に近いかもしれないけれど、まぁこの程度の変則性は「poetic license(詩的放縦)」ということで許してあげてもよいでしょう。
 この歌の詠み手清原元輔。第36番歌作者清原深養父の孫(一説には、息子)で、『枕草子』の清少納言(第62番歌作者)のお父さん。官位は低かったものの、歌人としての力量ゆえに、第二の勅撰和歌集『後撰集撰進のため951年に宮中の昭陽舎(通称"梨壺")に臨時に設けられた勅撰和歌集編集専門部署「和歌所」の専任編集員である「寄人」に任命された五人の歌人のうちの一人。これが後の世に言う「梨壺の五人」で、他の四人は源順大中臣能宣(49番歌作者)・坂上望城紀時文
 「和歌所」は、『後撰集』以降、勅撰集が作られるたびに設けられるのが常となりました。所謂「八代集」の中では、第三代『拾遺和歌集』だけが例外的に「和歌所」なしで成立しましたが、それはこの和歌集が(既にもう成立していた藤原公任の私撰集)『拾遺抄』を種本として成立したからです。
 しかし、後代所謂「十三代集」の時代に入ると、藤原定家の『新勅撰和歌集』(1235)と冷泉為家の『続後撰和歌集』(1251)の二作までは宮中にきちんと「和歌所」が置かれたものの、次代続古今和歌集』(1265)以降は廃止されてしまいました。(・・・形式上は「撰者の自宅」が「和歌所」とされたのでしたが・・・)これは、この時代の"勅撰"和歌集が、既にもう実質的に"歌壇各流派の同人誌"にしていたことを象徴的に示す事例と言えるでしょう。
 『後撰集』の中には、それを編んだ「梨壺の五人」の歌は一首たりとも入っていません ― 「寄人」としての職権濫用への自制心が働いたのでしょう。が、勅撰集も、後代になればなるほど、編者(とそれに近い流派の歌人たち)の歌ばかりが幅を利かすようになってしまい、文字通り最後の第13代(勅撰集全体で言えば第21代)「新続古今和歌集」(1439年)に至っては、2000を越える和歌の中に、撰者飛鳥井雅世が属した「二条派」歌人の歌以外、ほとんど一首も入ってません(京極派・冷泉派歌人は徹底黙殺)し、女流歌人の歌もとっても少ないです。日本人御得意の「生きてない"芸道"」としての和歌は細々と残ったけれど、真の「芸術」としての和歌は、平安の世の終わりと共に、八代集の最後を飾る『新古今和歌集』(1210年代)あたりで、死に絶えたのだ、ということでしょうね。

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