百一043解題)逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり

逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
『拾遺集』恋二・七一〇(権中納言敦忠:ごんちゅうなごんあつただ)(男性)

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解題

 「逢ひ見る」とは「逢瀬(デート)をして実際に生身の相手の姿を見る」ということで、多く、単に「会う」のみならず「肉体関係」を含む。現代語からは想像もつかないこうした艶っぽい含意を持つ古語には、他に「言ふ(言い寄る)」・「住む(夫婦の仲になる)」・「呼ばふ(求愛する)」等がある。
 古典時代の恋愛は男性主導型で、女性は基本的に受身の姿勢。男性が「これは」と思う女性を見初めたら、彼らの恋のゲームは、まず「書見る」ことから始まる。艶めいた思いを込めた「懸想文」を、気の利いた和歌の詠み込みを主役として作り上げ、意中の相手に贈ってその気を引く/受けた側でその歌が気に入ったなら返歌を送る、ということを幾度か繰り返した末に、初めて「逢ひ見る」に至るのであって、最初から相手の顔が見えていてその外観上の魅力に引かれて口説きにかかる(男性・女性の先攻後攻も固定されていない)現代風恋愛とは、事情が異なるのである。
 勿論懸想の最初の切っ掛けとなるのは、「透垣」だの「御簾」だのの隙間からチラと垣間見えた女性の瞬間的美形かもしれないが、多くの場合、「才女らしい(・・・本当は、頭の良い従者が気の利いた和歌を代詠しているだけかもしれないのだが・・・)」とか「美人らしい(・・・本当は、良家の子息を引き付けようとして親が流している宣伝に過ぎないかもしれないのだが・・・)」とか「何人もの男が袖にされたらしい(・・・本当は、美しからざる自らの姿を見られたくないから拒絶を続けているだけかもしれないのだが・・・)」とかの噂を聞きつけて、「それなら、この俺がオトしてみせよう」というような、「人聞き」のみが男の求愛行動の発憤材料になるという(現代からみれば)ヘンテコな恋模様も、数多乱れ飛んでいた時代なのだ。
 それだけに、実際「逢ひ見ての後」に、「ありゃりゃ?・・・」となる男だって、少なくなかった訳である。そうなると、当然、以後はその女のには(男も文も)通わなくなる。相手をオトすまでの恋は、自らの想像の中で思い描いた麗しの女性に向けてのヴァーチュアル恋愛賛歌に彩られていて美しいが、逢ひ見た現実の相手のフィジカル・リミットが、ヴァーチャルにらませてしまった夢の姫君の理想像を超越して美しいことは、悲しいかな、多くはない。一度逢ってくれたきりで以後二度と来てくれない男の不実を、嘆く女性が多い所以である・・・「以前は、あんなに素晴らしい愛の言葉で、私を夢中にさせてくれたのに」と彼女らは嘆くが、夢中になっていたのは男の方とて同じこと、その夢中に見る想いの君にこそ自分は恋していたのであって、折角の美しきイメージの中の美女を、現実の貴女との逢瀬で台無しにしたくはない、という(残酷だが)無垢の願いが、古典世界に「待つ身の女」の悲劇の氾濫を生む(という側面も確かにある)のである。
 であるから、女性にとっては、初めての「逢瀬」の直後こそ、女としての幸せを賭けた、のっぴきならぬ勝負の時なのである・・・と言っても、自分の方から攻めに出ることなど許されないのが辛いところで、彼女らはただひたすら「待つ」のである:生身の自分の姿を見た男性が、「もう一度逢いたい」と言ってきてくれるのを・・・その思いを伝える手紙が「後朝(衣衣)の文」である。それが届けば、「生身の貴女は、想像の姿よりも、よかったです」ということであり、届かなければ、「貴女との恋は、想像世界の懸想文のやりとりを以て、終わりにしておこうと思います」ということである。そういう大事な役割を担った手紙であるから、「後朝の文」は、逢瀬の直後の数日以内には ― 相手の女性が待つ身の狂おしさに焦がれ死にしないうちに ― 届けてあげるのが男としてのみである。そして、相手の女性に「よかったよ」と告げるためには、単なる散文ではなく、思いを込めた歌を詠み添えることが大事なのは言うまでもない。
 この歌は、そんな「後朝の歌」として詠まれたものである。何の技巧も凝らさず、現代的感覚にもストレートに訴える情感を、しみじみ素直にい上げている。「""より""」で魅せる歌の見本のような名品である。技巧の浅さは、思いの深さの逆説的表現なのだ・・・どきどきしながら待つ身の女性が、こんな歌をもらったら、どれほど嬉しかったことだろう ― 「あなたと相思相愛の深い仲になってから、私は随分色々なことを感じ、考えるようになりました・・・それに比べれば、以前の自分は、何も思わずに生きていたものですねえ。」
 恋をして、それがうと、人は、色々な物事が見えてくる(あるいは、以前とは違って見えてくる)ものなのだ・・・特に、自分自身が、今までとは違った人間に見えてくるものなのだ:なにせ、人に(それも、大好きな人に)はっきりと認められ受け入れられて愛されていることを確信できるのだから、今までより一回り大きな自分を、どうして感じずにいられようか。
 人は恋をして初めて一人前になる、と古来よく言われる。生物学的には「生殖能力が熟し、性欲が生じ、交配を通じて子孫を生じ、種族保存に資することで、同族の繁栄の一翼を担う」からこそ「色気付いて初めて(種の繁栄の)役に立つ」という即物的意味に解され得るこの文言ではあるが、現実には、「他者に受け入れられ、自分も満更ではないな、との自信が生まれる」ことと、「相手を幸せにしてあげるために、自分には何が出来るか?」を真剣に考え始める意識との相乗効果が、恋して後の人を一人前の立派な社会人にするのである。
 「自分のことだけしか見えない」のが子供、「自分を含めた周りの世界」をどうにかしようと頑張るのが大人。この図式で言えば、恋しても自分のことしか見えていないような利己的恋愛をいくら重ねても人は大人になどなれないし、「恋などしなくても自分はちゃんと周りのことを考えている」という生来真面目な人や、「恋などしなくても、恋人から自信をもらわなくても、自分はちゃんといっぱしの人間であると確信している」という自意識や能力の高い人は、本源的自信に欠ける人よりも、恋慕渇望指数が低い、ということにもなろう。
 ・・・等々、書こうと思えばこの解題集の総体を上回るほどの「恋に思う」文があれこれ書けてしまうほど、恋情は様々な想念を生む(無論、子孫をも生む)・・・ものだけに、恋の話題はここらで切り上げておいた方がよさそうだ。
 この作品を収めているのは、第三の勅撰和歌集『拾遺集』(1006)。和歌の世界では"恋歌の拾遺集"の異名を取るほどに恋情の名作が多いのがその一大特徴であるが、もう一つ面白い史実として、この和歌集は、勅撰集であるにもかかわらず、宮中にその編纂事業専任(臨時)部署たる「和歌所」も置かれずに編まれた、という不思議な生い立ちを持つことが挙げられる(所謂「八代集」の中では唯一の事例である)。
 撰進勅命を出したのは花山院(65代)、撰者は院の側近の藤原長能源道済の二人、とされているが、事が宮中で運ばれたものでないだけに、このあたりも記録としての確証はない。そうまで曖昧な"半 公式"的生い立ちを持つのは、この歌集が、当時の和歌の大御所である藤原公任(966-1041)が既に著していた私撰和歌集『拾遺抄』をベースに(多少の増補を行ないつつ)成立したものだったからである。既製品に少々上乗せするだけの歌集撰進作業なら、わざわざ宮中の役所で行なうまでもなかった訳である。
 元来が藤原公任の個人的趣味で選ばれた和歌名作選であったからには、当然、そこには彼自身の作品も含まれる。このことから、第二の勅撰集『後撰集』(950年代)に於いて一旦確立されかかった「撰者自身の作品は勅撰和歌集には収載しない」という約束事は、完全に立ち消えになってしまった(・・・以後、撰者とそれに近い人々の歌が勅撰集には満ち溢れ、入集希望の歌人達が撰者に何かと働きかける醜悪な事態も頻発するようになった)という事実も、見逃す訳には行くまい(・・・これは、無論、公任の責任ではないのだが)。
 とかく「学才の人」として菅原道真にも擬すべき堅苦しい文人のイメージがある公任が、"恋歌の拾遺集"の生みの親、というのには意外性があるが、これは、公任という詩人個人のパーソナリティに照らして見るよりも、歴史的パースペクティブからめれば、すんなり合点の行くことである。・・・公任が自らの私撰集に『拾遺抄』と銘打ったのは、前代『後撰集』の選に漏れ、先々代『古今集』(905)にも含まれていない「過去の遺物を拾い集めた歌集」という意味である。一方、『後撰集』はその当代の貴人達の日常的な和歌の応答を数多く含むものであったから、その『後撰集』選外作ともなれば、当時の作品は少なくなり、自動的に、その前の『古今集』の時代へと飛ぶ訳である。かくて、『古今集』(での選外作品)や、それに先立つ『万葉集』(759頃)の作品が、『拾遺抄』の主たる収集対象となる。そして、『古今集撰進のために集められたものの収録されずに遺った和歌に「素朴すぎて理知性に欠ける恋歌」が多かったのは有名な話であり、『万葉集』が直情径行型の恋歌を多く含むのも常識中の常識・・・『拾遺抄/拾遺集』中に於ける恋歌の比重が高まる道理である。別に、公任自身が「実は、恋歌、好きだったんです・・・」という訳ではないのである。
 この歌の作者藤原敦忠についても触れておこう。彼は、あの(菅原道真左遷劇の張本人であり、道真のりで39歳にして若死にしたとされている)藤原時平の三男である。美貌にして管弦の名手(別名「枇杷中納言」)、天皇の側近中の側近である「蔵人頭」を経て932年には権中納言(従三位)にまで出世したが、父親同様、満37歳にして早逝している。これもまた道真のりか、と人々に噂され、虚構的要素を多分に含む歴史物語『大鏡』は、作中で敦忠自身に「我は命短きなり。必ず死なんず。(私は短命の一族の者だから、近いうち必ず死んでしまうに違いない)」などと不吉な台詞を吐かせている。

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