百一044解題)逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
『拾遺集』恋一・六七八(中納言朝忠:ちゅうなごんあさただ)(男性)

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解題

 (第40番歌の平兼盛vs.第41番歌の壬生忠見の対決エピソードによって)古典世界では有名な、村上帝(62代)の『天徳四年内裏歌合』(960年4月28日)での「恋」の題詠歌(この題だけで全部で5つもの勝負があったのだ)。あちらの恋は「忍ぶ恋」であったが、こちらの恋は「びつつ、わず終わり、忍ぶ恋」の趣で、恋しい告白をした後で、相手の女性に肘鉄を食らって、それでもなおその酷薄な女性は相変わらず身近にいる、そんな酷い境遇に懊悩する男の思いをったもの・・・現代にも通じるものがある詩情だ・・・が、考えてみれば「恋情」に時代はない:原始時代も現代も宇宙の彼方を飛び回るSF的未来の人類も、千年一日如く、同じ悩み・同じ喜びに、相も変わらず身を焦がしているのであろう・・・。
 ということでこの歌は、「歌合せ」の対抗歌ともども紹介しておくことにしよう:
第19番勝負:題「恋」
左:藤原朝忠(勝)
 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
 あなたの姿を見ることも全然なくなってしまえば、いっそ、私を袖にした薄情なあなたのことも、袖にされた我が身の惨めな境遇も、恨みがましい目で見ることもなくなるでしょうに・・・(相変わらずあなたのすぐ近くで過ごしながら、あなたとお近付きにはなれぬ我が身の苦しみの、何と残酷なことか)。
 ・・・実際、大勢の女房達のいる宮中で過ごす貴人男子には、この種の慨嘆を託つ者も少なくなかったのであろう。
 *「絶えて」は「逢ふこと―の―絶えて=あなたの姿を見ることが、なくなって」という主語―述語関係としても機能するが、文法的には「絶えて(強調の副詞)+し+なくは=完全にないならば」が本線、という「掛詞」。
 *「逢ふことのしなくは」は、現代的感覚では「"逢瀬"を"する"ことがなければ」と錯覚するが、実際にはこの「し」は強調の副助詞であって動詞「す(為)」連用形ではない。解りやすく言えば「逢ふことなくば=逢うことがなければ」であり、これに強調の副詞「絶えて」が付くと「もう全くあなたと会うことがないならば」の意味になる。なお、念のため言っておくが、ここでの「逢ふ」は「恋人どうしとしての逢瀬」ではなく、「ただ単に近くに居るから目に入る」だけである。「逢瀬」の甘い夢は、既に、砕け散っているのである。
 *「なかなかに」は、「かえってむしろ、いっそ逆に」という逆説的な表現。普通ならば「相手の女性に逢う=嬉しく思う」/「相手の女性に逢えない=恨めしく思う」となるところ、この男性は既にその意中の女性にフラれているので、「相手の女性の姿を二度と再び見ないで済む=逆に嬉しく思う」/「相手の女性の姿だけは今も相変わらず目に入る=かえって一層恨めしく思う」というパラドックスの図式である。
 *「恨みざらまし」は、元来の組成に忠実に解剖すれば「恨み+ず+あら+まし=恨むこと+なしの状態で+存在している+ことであろう」となる(「まし」は反実仮想の助動詞)。
 対する相手の歌は:
右:藤原元真(負)
 君恋ふとかつは消えつつふるものをかくても生ける身とや見るらむ
 あなたに恋を打ち明けて、「いや」と言われて、消え入るようにすごすごと退散したこの私・・・あれから随分時は経ちましたが、恋する男としての私は死んでも、一人の人間としては今なおこうして生きています・・・そんな私を、あなたはどう見ているのでしょうか?「私に拒絶されたら死んでしまう、とか、大袈裟なこと言ってたわりには、今ものうのうと生きてるわね、あの人・・・」と、そういう目で見ているのでしょうか・・・。
 *「かつはA(かつはB)」は、「一方ではA(他方ではB)」の相関表現で、"他方ではB"とのカップリングで初めて完結するアベック表現なので、何との対照の図式を成しているかを見落とさぬ眼力が必要。ここでは「一方では"消え"=恋して、フラれて、死んだように消え入って」、「他方では"ふる"=世に生き長らえる」の対照とみる。見方によっては、「恋しい思いは(表面的には)消えつつ(内心ではずっと保ち続けて)年月を経る」とも取れる;粘着性の強い恋情の持ち主ならば、この解釈もあり、であろうか(・・・ストーカー的執念深さが法的制裁さえ受けかねぬ昨今では、この解釈も感情も、あまり流行るまいが)。
 *「斯くても=このような状態でも」の部分は複数の解釈が可能。上の現代語訳ではこれを「あなたにフラれても、のうのうと・・・失恋の痛手で命を落とすこともなく生き続けている」としてあるが、この他にも「あなたへの恋情を表面には出さず消え入るようにして今なおこうして愛し続ける、という仮面をかぶったような態度で・・・恋など成就せずともいいのだと言わんばかりに生きている(本当は平気じゃないくせに)」の解釈も可能。
 *「ふる」は「経る」であるが、多く「(雪が)降る」との「掛詞」を成すものとして、同様に「雪」と縁の深い「消え」との相関性を感じさせる・・・この歌には「ゆき」の文字も音もないので、「縁語」を形成するものとは言えないが、微妙な味を出していることは確かである。
 ・・・総じて、ああもこうも解釈可能な表現を多く含みすぎ、欲張りすぎているために、黒白付け難いこうした歌は、「歌合せ」では分が悪い。すっきりと判り易い「逢ふことの・・・」の歌の前に「負」とされたのも、当然であろう。が、これまた何とも痛切な男の心情がひしひしと感じられる歌ではある。
 乾坤一擲の「命懸けの告白」をして、惨敗を喫したとて、まさか本当に腹切って死ぬ訳にも行かない男は、相変わらず生きているのだが、心の中には今なお死ぬほどの痛恨の思いを抱えているのである。
 いっそ、その痛恨の元凶となった女性が眼前にいなければ・・・とは思っても、かつて愛した人のことを、「消えてしまえ!」と願うことも出来ない純情を抱えた男は、ただただこう願うしかない:「自分のことを、ひどくめめしい駄目男、とだけは、どうか思ってくださいますな」。
 自分をフッた相手が消えてくれないならば、自分からどこか別の場所へ逃げてしまいたい、あぁ、旅にでも出ようか(フーテンの寅さんパターン)と思っても、宮仕えの悲しさ、それもわない。
 別の女性との新たな恋の喜びに浸ってしまえれば、壊れた恋の悲しみなど塗りしてしまえるのに、この歌の男はそれも出来ずにいる・・・だいたい、フラれて地べたに叩きつけられた後の立ち直り方として、「別の異性に助け起こしてもらう」のは女性の得意技であって、男はそれをしとせぬ生き物なのだ。女性は、男性よりか弱い存在であることを許容(&期待)される生き物だから、男に助け起こしてもらうのは当たり前。だが、男は、なまじ自分が女よりも強い存在(であるべきだ!)と思っているから、その阿呆な自尊心が邪魔をして、惨めに弱り切っているところへ助けの手を差し伸べてくれる女性がいても、素直にその情けにすがることが、なかなか出来ない馬鹿な生き物なのである。
 そうして別の異性にすがってしまえば、あれほど恋いっていたの(つれなく憎いがしかし愛しい)あの人への、自らの想いの純真さを自らの行為で踏みにじることにもなる、などと、愚かな忠義立てに殉じたがる(ある意味、自殺的な)不器用さもまた、女性よりは遙かに男にこそ目立つものである。まぁこれは、「ひたむきに打ち込んだ愛の美しさを自分の手で汚したくない・・・から、新たな恋には走れない」というよりむしろ、「カッコよく決めるつもりだったのにズッこけた自己イメージの醜悪さに耐えきれない・・・から、立ち直ろうとして手を出したらまたつっかい棒はずされてズッこけたりしないかと思うと、コワくて、すくんで、動けない」というのが、惨めな男の実情であって、立ち直りには「別の異性の助け」さえあればいとも容易に平癒する女の恋の痛手と違い、「時の助け」も借りないことには男の悲恋の深手はえぬもの・・・というのが、古来変わらぬ男女の失恋様態の相違に関する心理学的観察所見・・・別に、こんな病気の見立てが出来たとて、自ら発病した場合はやっぱり大ゴケするのだが。
 そうした「フラレ男の境遇は、女性の悲恋よりタチが悪い」という「時を越えた真実」を、痛々しいまでによく示す好個の痛恨歌のライバル争い・・・甲乙付け難いものがあるではないか(・・・まぁ、どちらが勝っても悲しき負け犬の遠吠えなのだが)。
 こちら44番歌の作者は藤原朝忠。第25番歌(「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」)の藤原定方の五男で、中納言(従三位)にまで昇り、京都平安京の土御門大路に壮大な邸宅を構えたため「土御門中納言」と呼ばれた。
 この「土御門」という名にピンと来た人は、それなりの古文読みであろう:そう、古文世界で「土御門殿」といえば、あの『大鏡』を初めとする幾多の古典文物で何かと話題に上る貴族社会最大の権勢家「藤原道長」のことである。藤原朝忠の娘穆子が左大臣源雅信(当時、道長の父たる藤原兼家ぐ地位にあったのはこの人だけ)にいで娘倫子を生み、その源倫子正妻とした藤原道長は、彼女を通してこの「土御門邸」と、源氏有数の実力者の財力とを、引き継ぐことになるのである。古典時代の社会では、男子は「社会的地位は父から継ぐ」/「経済的資産は妻を通してその実家から継ぐ」のが習い。逆に、女子は「社会的地位は夫を通して得る」/「経済的資産は実家から継ぐ」ものであった。結果的にこの朝忠は、後一条(68)・後朱雀(69)という二人の天皇を、義理の孫にあたる道長の血筋を通して、自らの玄孫として得ることになったのである。

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