百一045解題)あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな

あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
『拾遺集』恋五・九五〇(謙徳公:けんとくこう)(男性)

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解題

 これまた"恋歌の『拾遺集』"の収録歌で、「詞書」には、「物言ひはべりける女の、後つれなくなりはべりて、さらに逢はずはべりければ」(恋文のやり取りなどして、逢瀬まで漕ぎ着けた女性が、その後冷淡になってしまい、自分とまったく逢ってくれなくなったので)この歌を詠んでその酷薄な女性に送った、とある。
 何で逢ってくれなくなってしまったのか、までは「詞書」には書いていない。恋文のやり取りを通して思い描いていた「夢の君」と、逢瀬の末に目にした「生身の君」の落差の大きさに、相手の女性ががっかりした、とも考えられるし、男の多情ぶりを後になって知って幻滅したのかもしれない。政治情勢の変化で、父親が「もうあの男とは逢うな」と言う場合だってある。中古では、親にとって「娘の夫」は、その男を通じて「社会的地位」を手繰り寄せるための大事な手蔓なのであるから、親の一声は大きいのだ。
 というわけで、理由は判らないが、そうして自分に対して冷たくなってしまった女性に対して、男は、復縁を求めるにしても、ストーカー的に迫ったりはしない:「ねぇ、俺のどこがイヤなわけ?教えてくれない?絶対直してみせるからさぁー」などと無粋に食い下がるが如き振る舞いは言語道断・恥の上塗り、平安の貴公子はそんなことはせず、自らの心情を託した歌を送って、相手の同情心に訴えるのだ。
 しかしそれにしても、「身のいたづらになりぬべきかな=私のこの身は、虚しく死に絶えてしまうに違いない」とは、何とも大袈裟な表現である。それにまた、「いたづらになる=死ぬ」などと容易く口に出していいのか?「言霊思想」の生きていた時代には、悪い意味のある言葉を口に出すとその言葉に宿る悪いものを実際我が身に引き寄せてしまう、という禁忌が意味をなしていただから、「死」を平然と口に出すことに対する抑制心が働くのではなかったか?・・・と、そういう疑問が沸かないでもない;が、意外なことに、古典時代の文物には「死ぬ、死ぬ」が結構よく出てくるのである。
 「死」に関する語は「忌み詞」として嫌われる、という現実は確かにあった反面で、誇張的表現として使われる「死」はあり、だったのである。「死に入る」と書いてあっても実際に死ぬ訳ではなく「死んだようにぐったりする/気絶する」だけだったり、「死に返り」が「もぅぉおーっ死にそぉーなほどぉっ・・・」という強調語として平然と『源氏物語』あたりの文章の中にも乱れ飛ぶのが古文の世界;なので、間違って登場人物を頭の中で勝手に殺しちゃったりすると、すぐ後で何もなかったかのように生き返り、死者と生者が入り乱れてるゾンビ映画の如き様相を呈することになる。
 この歌の男が「自分はきっと死んでしまう」と訴えているのは、しかし、誇張表現として「死にそうなほど辛い」の意味で言っているだけではなくて、本当に、生物学的に「自分は死ぬに違いない」と言っているのである・・・これは、結構、凄いことである。そうしてまず自分を死なせておいて、その死んだ自分を(葬儀の席上で)見て、「"あはれ"とも言ふべき人="まぁ、可哀想に"とでも言ってくれるに違いない人」は「思ほえで=(今この歌を作っている時点で私の脳裏には誰一人として)思い浮かばないで」、誰にも同情されないままに、一人惨めに苦しんだ末に、哀れ、この私は、フラレ男としての生涯を閉じることになるのでありましょう(・・・享年ン歳。死因=恋煩い。。。チィーン・・・南無妙法蓮華経色即是空空即是色・・・)。
 ・・・と、この男、悲恋に苦しむ己れの苦境を女性に訴える方便として、歌の中で実際に自分を殺して見せている訳である。歌の趣向としてもこれはかなり大胆で、作者の豪気な性分えるが、こんなにまでして「お願いだから、僕を死なせたくないなら、助けると思って、僕を"あはれ(可哀想可愛い)"と思って、また逢って!」と訴えたその相手の女性との間に、実際に復縁が成ったのかどうか、気になるところでもある・・・が、そのあたりのことを史実はまるで語ってはくれない。
 判っているのは、この歌の作者が、摂政太政大臣(正二位)まで昇りながら、栄華の絶頂で49歳の生涯を閉じ(死因=糖尿病)、その2年後には二人の息子の藤原挙賢と藤原義孝(第50番歌「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」作者)も20代前半にして(『大鏡』によれば同じ日の朝と夕にいっぺんに)短すぎる人生を閉じている(死因=天然痘)ということ、これら非業の死がいずれも、伊尹若年の頃に年長の藤原朝成を差し置いて「し討ち」の形で天皇の側近の要職「蔵人頭」の地位を射止めたことを恨んだ朝成りである(と『大鏡』には書いてある)ということ、以後、伊尹の直系の子孫は衰微の一途を辿ったということ、ぐらいである。
 伝説の話はさておくとしても、「藤原伊尹」の名は、古文の世界に於いては(文芸的にも政治的にも)押さえておくべきビッグ・ネームであるから、彼にまつわる史実のあれこれを、箇条書き的に整理しておこう:
1)951年、史上初めて宮中の昭陽舎(=梨壺)に置かれた勅撰和歌集編集専門臨時部署「和歌所」の「別当(特殊な役所の長官)」として、『後撰和歌集』編集作業の統括責任者となった。・・・つまり、歌人としてもそれだけこの伊尹は評判が高かった訳である。
2)父の藤原師輔伊尹はその長男)は右大臣として村上天皇(62代)の所謂天暦の治」を支えた実力者であった。
3)弟には藤原兼通(次男)・藤原兼家(三男)がいる。後者は、藤原道長の父であり、『蜻蛉日記』(974)著者藤原道綱母の夫としても(ケチョンケチョンな形で)有名。
4)妹の藤原安子は村上天皇にぎ、三男一女をもうけた。そのうちの男子二人が冷泉天皇(63代)・円融天皇(64代)として即位し、彼女を通して天皇家の外戚となった藤原師輔の藤原北家の政治的権力は強まり、8代の天皇の治世に於ける摂政・関白位を独占した。
5)冷泉天皇の次代には、年功序列で言えば安子の産んだ次男の為平親王が即位するであったが、親王の妻が左大臣源高明の娘であったため、源氏が天皇の外戚として権力の中枢に食い込んでくることを恐れた藤原氏の画策により、三男の守平親王が皇太子(後の円融天皇)になった上、源高明讒言により陥れて太宰府に左遷させた(「安和の変」)。この陰謀の首謀者は藤原伊尹(弟の兼家も関与していた)とする説が有力である。
6)伊尹は、年少の兼家兼通よりも優遇し、伊尹の生前は兼家の勢いが兄の兼通を圧倒した。そのため兼通兼家を激しく憎み、伊尹が早死にした後、官位では自分よりも上位だった兼家だった関白位を陰謀によって奪い取って以後は、兼家の栄達を執拗なまでに妨害したので、兼通の存命中の兼家は政治的に死んだも同じであった。
7)兼通は977年、53歳で逝去するが、その直前には、「右近衛大将」であった兼家を「治部卿」という下役へと強引に降格させてしまう・・・が、こうした臨終間際の「最期っ屁」の嫌がらせにもかかわらず、その後は兼家が政界で息を吹き返し、権謀術策を駆使して花山天皇(65代)を退位させ、娘詮子が産んだ一条天皇(66代)の外戚として准三宮(天皇の家臣でありながら、太皇太后皇太后皇后に次ぐ皇族扱いを受ける地位)・従一位にまで昇りつめる。その子孫達(特に、道長)も大いに栄えるが、一方で、伊尹兼通の家系は衰運を辿った。
 ・・・とまぁ、平安の世もこの藤原伊尹あたりになると、藤原家内部の勢力争いを軸に、『ゴッドファーザー』も『ダラス』も『華麗なる一族』も真っ青な、皇室をも巻き込んだ『仁義なき戦い』の繰り広げられるドラマチックな波乱の時代へと突入して行くのである。

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