百一046解題)由良の門を渡る舟人梶緒絶えゆくへも知らぬ恋の道かな

由良の門を渡る舟人梶緒絶えゆくへも知らぬ恋の道かな
『新古今集』恋一・一〇七一(曾禰好忠:そねのよしただ)(男性)

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解題

 「由良の門」とは、京都北部を流れる由良川が、京都と福井の海岸線が日本海に深く入り組んで出来た若狭湾へと注ぐところで、極端に狭くなっている(門戸状になっている)場所、つまりは「由良海峡」である。海峡付近は潮の流れが速く、変則である上に、川幅も狭い。そんな場所で、「舟人」が船の方向性を決める「」を失ったら、船はもう潮のなすがまま、「ゆくへも知らぬ」まま、どこへ流れ着くかわからない。そういう危険な舟の状態にも似た危うさを秘めた「恋の道」に、自分は既にもう踏み込んでいるなぁ、という歌である。
 「かぢをたへ」の部分は、これを「梶緒絶え」と読む説と「を絶え」とする説とがある。前者なら、何と言うこともない:「梶緒」とは「船の操舵装置=」を船の本体へと結び付ける「緒=縄・綱」の意味であるから、「梶緒絶え=をつないだロープが切れる」の意味にすんなり落ち着くだけである。一方、「を絶え」だと、中間の「を」は間投助詞(詠嘆)となる。一見格助詞になりそうだが、「絶ゆ」は自動詞(切れる)であって他動詞(切る)ではない:海峡の入口で自ら進んで「船のをつなぐロープを"切る"」ような自殺行為はしないのだから、他動詞として主語を目的語につなぐ働きの格助詞としての「を」という解釈は成立しないのである。すると、この「(間投助詞としての)を」が、今度は、「(ロープの意味の名詞の)」と同音のよしみでつながり、後者を介して前者を「絶え(=切れる)」とつながりの深い(しかし直接にはつながらない)「縁語」の関係で結ぶ、という修辞が見えてくる。「梶緒」として解釈した場合はこの縁語関係は生じない:「をつなぐ(ロープ)」と「絶え」とは、直接的な主語―述語関係でつながってしまい、イメージ連想としての間接的つながりにはならないから、である。
 この歌の意味の本筋は、第四・五句の「行く方も知らぬ恋の道かな」にあり、それ以前の句はこの意味の本流を導き出すための伏流、つまりは「序詞」である・・・が、しかし単なる「後続部の誘い水」として流してしまうには、「由良の門を渡る舟人梶緒(を)絶え」のイメージは実に強烈で、途方に暮れる舟人の顔や、飛び散る波しぶきの音まで、視覚的・聴覚的刺激となって、読む者の眼前に浮かんでくるようだ。
 こうしたイメージ訴求力の高さをもって、「序詞」それ自体が、後に続く意味の中核とは別に、歌全体の中で独立した重みを持つ「叙景パート」としての輝きを放つような歌をこそ、『小倉百人一首』撰者の藤原定家は「序詞歌の理想形」としていたのである。彼自身の晩年の自讃歌である第97番歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」もそういう性質の歌であり、「序詞の映像性」が、後続の意味の主要部「身も焦がれつつ」にまで及んでいる。『小倉百人一首』全体の中に「序詞」含みの歌が占める比率が実に19首というその数字自体、定家がこの修辞法を如何に重視していたかを物語っているし、この46番から51番までの6首のうち、実に4首(46・48・49・51)が「序詞歌」だという事実にも、偶然以上の定家の意図が感じられないでもない。
 この歌の作者曽禰好忠は、平安中期の人であるが、「丹後掾」という卑官の地方役人であったらしい、という以外の経歴は不詳で、生没年も不明。「古今調」へのアンチテーゼ如き奇抜な題材を歌にしたり、当時『後撰集』編纂と同時に研究が進められていた『万葉集』(759頃)の古語を織り込むなどして、和歌の世界に新風を吹き込もうとした彼は、後代になって評価された:この歌を収めているのも鎌倉初期の『新古今和歌集』(1210年代成立)である・・・が、存命当時の歌壇に於いては異端的存在だったらしく、貴人どうしの集う歌会などには縁がなかった人のようである。いつの世でも革新者とはそういうものであるし、また、この頃の平安の世には既に、「際は際」(人はみな、その分際に応じた存在でしかないし、分際弁えての振る舞い・付き合いに徹するべきだ)という階層意識が色濃く漂い始めていた:社会の安定期の好ましからざる副産物である。こうした世にあって「我が世の春」を謳歌する既得権益受益層(貴人連中)にとっては、「下賤の者の分際で」実力が高い者など(前衛歌人にせよ、頭脳明晰なる官僚にせよ)、自分達の存立基盤をむシロアリか細胞のようなもの、目の敵にされるのが当然の存在だったのである。そうした批判的鑑識眼を持ってめれば、巷間語り伝えられる出世物語の中で「面歌」(上位の者の歓心や世間の評判を得るきっかけになった出世作)として持て囃されている短歌には、「斬新な芸術美」を讃えられるような作品は殆ど皆無、あってせいぜい「伝統美の七光り」、「上司が喜ぶ(&上司でもわかる)程度の小技巧の冴え」、というのが現実。出世手段としての和歌の効用を説く「歌徳説話」向けの短歌と、『小倉百人一首』に収められるような秀歌とは、役者が違うばかりでなく、求めるもの自体が違うのである。
 曽禰好忠はまた、個々の歌の「詠みぶり」のみならず、歌の「詠み方・読ませ方」に於いても、新機軸を打ち出した人であった。彼の個人歌集『曾丹集』("曾"は"曽禰"の"曾"/"丹"は"丹後掾"の"丹")の中にある「百ちの歌」(960)は、(一人または複数歌人の歌を100首集めた)「百首歌」の走りであり、一年(今とは違い)360日ということで360首の歌を収めた「毎月集」なるものも作っている・・・どうやら好忠は多作の人であったようだが、当時としてはこれも"奇抜性のみを狙った粗製濫造のスタンドプレー"の謗りを受けたかもしれない。
 しかし、以後次第に和歌の世界に於いては、歌人の修練の意味も込めてこの「百首歌」が盛んに行なわれるようになる・・・なんとなく、野球の世界の"千本ノック"めいた話ではある。
 中世以降になると、「百首歌」は、当代の主要歌人の歌を勅撰和歌集に収録する際の"書類選考"用資料として提出を要求されることも多かったようである。詠む方はともかく(歌なんて出てくる時は一日十首ぐらい軽く詠める)、読まされる方は大変だったろう:一人百首の履歴書が、何百通も送られて来るのだから・・・これでは、勢い、「既に自分もよく知っているあの人のあの歌」へと、最初から見ずテンで決め打ちして逃げ込みたくもなろうというものだ・・・中世以降の勅撰集の、流派集束性の一因がこれ、とは言わないが、出すだけ出しておいて提出されてもロクに見もせぬ無礼・無責任な宿題(学校のみに限った話ではない)という日本国の伝統芸の腐った根っこが見え隠れする話ではある。
 また、寺社への寄進としての「百首歌」というのが流行るのも中世以降・・・こうした場合、中身は問題ではない:「有名なあの人の歌(書・字・絵・手形・足形・おことば・お下がり・食べ残し・着古し・墓石・etc,etc…)」という形ばかりの有難味を求める無節操なるファン心理への迎合手段・形骸化した御挨拶の一つにまで、和歌を貶めてしまっても平気な時代が、中世だったということである:「鰯の頭も信心から」であるから、そうした「寺社に供えの百首歌」を有り難がるのは勝手だが、そこに真摯なる文芸の輝きを求めても詮無きこと、あるのはただ乾涸らびた魚の骨みたいなつぎはぎ言葉の寄せ集めでしかない。

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