百一048解題)風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな

風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
『詞花集』恋上・二一一(源重之:みなもとのしげゆき)(男性)

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解題

 この歌に関しては、これまで一般に言われてきた解釈をまず最初に掲げておき、それとは異なる筆者独自の解釈を後に掲げる形で解題してみよう。歌の解釈というものの多様性と、その多様な解釈を生む原因の、一端なりとも示せると思うから:
<一般に広まっている解釈>
 「吹き寄せる風が強いので海の波が岩に打ち寄せては砕け散るように、あなたのつれない態度を前にして、私の恋もまた砕け散ってしまい、相思相愛の夢破れた後で、ただ一人悲しい恋に胸を砕いている今日この頃の私です。」
 ・・・「甚き風=物凄く冷淡なあなた」/「岩打ち砕くる波=相手に告白して拒絶されて砕け散った私の恋」という見立ては、この部分だけを見れば、妥当なものであろう。が、難点として残るのが「己れのみ物を思ふ頃かな」である。わぬ恋は確かに辛いものだが、告白して拒絶されて砕け散った失恋ならば、いっそサバサバするもの、諦めもつき易いというものである。にもかかわらず、相手からは「あなたを好きではありません」と断言されたにもかかわらず、相変わらず「自分だけは、あなたのことが好きなのです」と「物思ひ=恋の悩み」を続けるであろうか?そうした「一人いじいじの恋煩い」が許されるのは「告白する前」の期間限定であり、「告白して、拒絶されて、砕け散った後」になおそれを続けるのは異様ではないのか?この人はストーカー体質なのか?それともこの「物思ひ」は恋情以外の一般的な憂愁なのであろうか?
 ・・・と、こうした疑問にぶち当たれば、上の解釈も砕け散る・・・ので、以下、「己れのみ物思ふ頃」であっても"ストーカー!"の謗りを受けずに済む恋情へと、解釈の方向性を変えて解題することにしよう:
 初句「風をいたみ」の「み」は原因・理由を表わす語(・・・ので)で、<「風が強いので」(第二句)「岩打つ波」が(第四句)「砕け」散る>という因果の図式を構成する。吹き荒れる強風に押し寄せる荒波という自然の情景描写は、この詠み手心象風景と重なって、「己れのみ物を思ふ頃かな・・・意中の相手にはまだ告げず、自分一人の心の中で、恋しい思いの荒波が、しばしば立っては胸砕く」という狂おしいまでの物思いの煩悶際立たせる、絵画的構図を持った「序詞歌」となっている。
 「風をいたみ岩うつ波の」の部分が「くだけて」を導出する「序詞」構造であるが、岩に当たって砕け散る波の如く、意味の核心部を「おのれのみ」 ― くだけて ― 「物を思ふころかな」と真っ二つに引き裂く形で「序詞」が割って入る絵柄は、この種の「絵画的序詞」が大好物・大得意の藤原定家をもらせたことであろう。この位置に「砕けて」が挿入されたことで、恋慕の激情に身を削る思いがする恋の初めの昂揚感が、視覚的強烈さで見る者の眼前にほとばしるのだ。
 これほど強烈な思念をそのまま相手にぶつける訳にも行くまい(そんなことをしたら相手は怯えて逃げてしまうに違いない)と思えるほどに強いこの恋情は、しかし、このまま自分一人の胸の内に秘め続けておくことも到底できぬほどに激しいから、もうじきこの人は、その怒濤の思いを歌に込め、愛する人の元へと送ることになるのであろう。歌に込めたその想いが相手に通じるか、惨めに砕けて散って終わるか、それはまた別の物語である。ここは、そうして相手を巻き込むドキドキ双方向ストーリーの前哨戦、自分一人の胸中で展開する、狂おしくも楽しい、砕けてはまた盛り上がる、とりとめもない物思いの芽生えの頃のイメージスケッチである。
 いかがであろう、こういう解釈は?・・・どちらの解釈をよしとするかは読者の自由な選択に委ねるが、こうした複数の解釈が現に生じているという事実については、よくよく心しておいてもらいたい。以下、そうした解釈の多様性の原因となった、この歌の作歌事情について述べることにしよう。
 実はこの歌、「砕けて物を思ふ頃かな」の部分が最初からあり、それ以外の部分のみを新たにこの歌の作者が作って継ぎ足した歌なのである。なればこそ、この部分のみが歌全体の意味の整合性に微妙な不協和音を投げ掛けることとなり、一般に行なわれている解釈と、この筆者独自の解釈の、二つを生むこととなったのである。が、それが単なる「意味の不協和音」ならば、歌の場合、何の問題もない:その不調和の中からこうして複数の解釈が生まれるのだから、それはむしろ喜ぶべきことである(もし「音響・情景の不調和」ならば、それは致命的であるが、この歌にそれはない)。
 「まず最初に言葉ありき」の形で成立する歌に於いては、その言葉・語句・表現を用いて行なう意味の帳尻合わせに於いて、この種の齟齬を生じる場合が少なくない。言葉の噛み合わせを綺麗に決めることが優先されるから、意味を噛み砕く過程で、未消化のものが残り易いのである。同様の感じは、第42番歌「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山こさじとは」に於ける「かたみに袖をしぼりつつ=二人一緒に涙で泣き濡れた袖を絞りながら」"変わらぬ愛を誓い合う"という異様な情景の背後にもんでいる:これもまた、「末の松山こさじ」の文言を土台に組み立てたことに起因する不整合感である。何もこれは「本歌取り」や「本説取り」といった元ネタの下敷きがある場合のみに限らない。事実や心情ならぬ言葉が先導する形で詩が出来上がる場合の、所謂「""より""」の歌の場合の、よくありがちな展開、として覚えておくとよいであろう(・・・詩人なら、敢えて「覚えておく」までもなく、見た瞬間に「覚ゆる」違和感、ではあるが)。
 この「砕けて物を思ふ頃かな」を最初に用いたのが誰であるかの確証はないが、時代としてはこの作者より20年ほど先行する(当時の"前衛歌人")曽禰好忠もまた、この同じ文句を用い、次のような ― いかにも彼らしく、意図的に"雅びならざるもの"を素材に織り込んだ ― 歌を作っている:
 山がつのに刈り干す麦の穂の砕けて物を思ふ頃かな
 山里に暮らす下層民の畑に刈り取られ干されている麦の穂・・・が、はぜて砕けて米になる・・・ように、思わぬ想念が心の中に乱れ飛ぶ、恋する季節になったものだなあ。
 ・・・素材や表現の斬新さは面白い(当時としては不評だったらしい)が、「山がつの畑に刈り干す麦の穂の」の「序詞」部分と、肝心の「砕けて物を思ふ頃かな」の主意部とのイメージ連動性が些か貧弱で、こちら48番歌の「叙景/叙情」の完璧なる融合が生み出す躍動感溢れる絵画的訴求力には、遠く及ばない。と言うよりむしろ、この「山がつの・・・」の歌のちぐはぐさを見て、48番歌作者が「自分ならもっと、この部分はこうして、見事に決めてみせるのになあ」と思い立ったことが、「風をいたみ・・・」の制作動機となった、と見る方が自然であろう。曽禰好忠の経歴には不詳の部分が多いため、彼のこの作品こそが「本歌」/こちら48番歌がその「本歌取り」という断定は文献学的には少々危険だが、奇抜な素材・発想・語句・表現を好んだ好忠の前衛性やその活躍時期を考えると、こちらが「くだけてものをおもふころかな」の元祖と見るのが文芸史的には妥当であろうし、完成度の違いから見てそれが文学的には当然の判断となろう。「砕けて物を思ふ頃かな」を生み出したのは曽禰好忠かもしれないが、芸術的に完成したのは、こちら48番歌の作者、源重之の方である。
 源重之の父源兼信清和天皇(56代)の曾孫;だが、重之伯父源兼忠の養子になっている。この時代の養子は、親が子の社会的栄達にとって良かれと思ってするものであった;裏を返せば、生来の地位では出世は見込めぬからこそ他家へ養子に出す訳であり、そこから運が開ける者もあったが、多くは不遇な人生のまま終わっている。重之もまた官途に恵まれなかった一人であった。
 彼にとって出世の最大のチャンスがあったのは、冷泉天皇(63代)がまだ皇太子(憲平親王)だった頃に、その身辺護衛隊長たる「帯刀先生」となった頃である。「先生」とあるけれども「剣術指南役」ではなく、「東宮御所にあって刀を佩く(=武具を身に帯びる)皇太子警護役の武人達の役所の長官」の意味であり、幕末新撰組で言えば局長の近藤勇あたりのコワモテのイメージの武士である。
 冷泉帝が即位すると、重之もまた「右将監左将監」に昇進する。「将監」とは、天皇の身辺警護を司る近衛府」の役職(全部で8つ:それが更に左・右に分化する)の中では上から数えても下から数えても4つめという平凡な地位(因みに、上位3つ「大将」・「中将」・「少将」の階級はその後の軍隊にもそのまま引き継がれ、最下位の「番長」の呼び名は学校・クラブ等の小型集団の"荒くれ大将"としては現代もなお健在である)。そのまま冷泉天皇の天下が続けば、重之の出世のチャンスも更に拡大したのであろうが・・・残念ながらこの帝は即位後僅か2年で帝位を弟の円融天皇(64代)に譲ってしまい、重之の出世の機会も永遠に失われたのであった。「誰の近くに身を置くか」で(コネと根回しがモノを言う)当時の官途は決したのである。結局彼は、地方官を転々とした挙げ句、最後は、日本文芸史上名高い「藤原実方の"陸奥歌枕の旅"」(第51番歌参照)という失意の左遷行に付き合う形で陸奥国下向し、その地で没した(・・・と伝えられている・・・それぐらい、記録にも残らぬほどに、晩年の彼は冷や飯を食わされていたのである)享年60歳(前後・・・これまた、正確な記録は残っていない)。
 中古の日本の歴史でこうした目まぐるしい天皇の譲位劇が行なわれる場合、100%に近い確率でその背後には藤原一族の暗躍がある。
 冷泉天皇は村上天皇(62代)の皇子だが、第一皇子は異母兄弟の広平親王であり、その後ろ盾は外戚の大納言藤原元方であった。対する冷泉憲平親王)側の後ろ盾は、彼の生母藤原安子の兄たる外戚藤原師輔。両藤原勢力の綱引きの結果、「次第」(年功序列)をして憲平親王が(生後間もなく)皇太子と決まり、村上帝の死の直後、18歳で冷泉天皇として即位する。
 しかし、若いこの帝を支えたのは外戚の師輔ではなく、彼の異母兄である藤原実頼であった。師輔は既に死去しており、その三人の息子達(伊尹兼通兼家)もまだ若輩、という状況下で、師輔の異母兄にして藤原一族の長老格実頼が(永らく空位であった「関白・太政大臣」として)引っ張り出されたのである・・・が、政治の実権は実頼にはなく、若輩ながら実力者の中納言伊尹蔵人頭兼家が、万事に於いて陰から政治を操っていた。彼らは、関白実頼に政治の実権を握らせるつもりは最初から毛頭なく、その表看板たる冷泉帝を長く帝位にかせ続けるつもりもなかった・・・要するに「伊尹兼家が表舞台に立つ実力を付けるまでの、時間稼ぎのワンポイント天皇」として、冷泉天皇は使いされた訳である。
 そして、こうした形で天皇の首をすげ替える際の「藤原家のお家芸」である「天皇狂気説」も、例によって、冷泉には(名ばかりの天皇位と同時に)プレゼントされることとなった。但し、この時代にもなると、かつて陽成天皇(第13番歌作者)を葬り去った時などよりは、悪意に満ちたシナリオ作りも遙かに用意周到であった:冷泉天皇狂気説の仕込みはその即位前から既に始まっており、これを「関白位の復活」の口実として利用したのである。
 温厚な人柄で親しまれた「貞信公」こと藤原忠平(第26番歌作者)の死後、藤原氏の専横を警戒した村上天皇の牽制によって、「関白」を置くことは久しく許されぬままであった。伊尹兼家の父で当時最大の実力者だった師輔も、この地位を欲しながら、結局右大臣止まりだったのである。その復活のための言い訳として、「冷泉天皇は生まれつき頭がおかしいので、実権を持つ補佐役の"関白"が必要」という布石をその幼年期から既に打っていたのだから、いやはや、見事なもの、藤原の謀略もなかなか堂に入って来たものである。中古も、ここまで、熟していたのである。
 よしんば、冷泉に実際に幼少期からの狂気の傾向があったと仮定した場合も、伊尹兼家は、その後見人たることを自ら放棄して伯父実頼お鉢を回して実権なき補佐役とした上、「関白」復活の口実としてちゃっかり利用したのであるから、「所詮、天皇は藤原の小道具」という事実に、何の変わりもない。
 ・・・「藤原家御用達歴史物語」を通してしか中古の日本を知らぬ日本人達は、「幼年期から狂気の病があったため、18歳で即位したものの、20歳で病気が悪化して退位」などと噴飯ものの"史実"を振りかざしては、"狂気"として伝わるエピソードの御粗末さ(大声出しては人を驚かせた、だの、チンポの絵描いて村上帝に送った、だの)も検証せず、その"狂気の人物"がこの種の病気の持ち主にしては短くない61年の生涯を(皇太子時代・天皇時代とは見違えるほどに)目立った奇行もなしに過ごして世を去ったという事実も、まるで不思議とも思わず鵜呑みで受け入れてしまう訳である・・・古文はおベンキョしても、古典時代の日本(に象徴されるダメ社会の典型的様態)を学ぶことはまるで出来ない人々・・・彼らが平然と生きている限り、「藤原氏的三文ドラマ脚本家」の立場も未来永劫御安泰である。比較的藤原氏に対し客観的・批判的と言われる『大鏡』とて、その作者の耳へと漏れ伝わる話の殆どは藤原家御用達放送局の脚色を施された風聞なのであるから、古文の中に残る話はどう足掻いても結局「藤原ヒストリー」の色彩を免れぬ訳であり、中古の権力者達の色眼鏡を通して見、色鉛筆を以て描いた色物歴史絵巻の中から、無着色の真実を見抜くためには、別種の色眼鏡をもって高所から取捨選択や虚偽補正を施して物事をめるパースペクティブの上に立ってのレンダリング作業が必要なのである;が、古典文法と古文単語という障害物を乗り越えて古い時代の文物の意味を苦労して読み解いたその時点で、「自分が折角努力して辿り着いた情報は、価値の高い正しい情報である(べきだ!)」という「労苦のモト取りに走る知的貧乏人根性」が顔を出す日本人が、あまりにも多過ぎるのである・・・語学が達者な知識人はみな、そうした知的スタミナ不足故に愚昧層が必ず嵌る陥穽を冷徹な視線で見抜きつつ、自らは易々とその穴ぼこを飛び越えて「比較的正しい(絶対的に正しくはないことは彼らが一番よく知っている)歴史」の高見の見物が出来る・・・のだが、日本人にはこの点、根性も体力も知性も、余りにも、足りない。・・・天皇狂気説の前にまず、日本人病気説に思いをした方がよろしいように思われる:病因=文物を読み取る知的カルシウム(文法・単語・論理性・etc.)欠乏症に起因する文章読解力そのものの不足/読み取った後の情報を更に知的フィルターにかけて濾過・純化する二次作業まで知的余力が続かぬことに起因する無批判・無消化・無反省鵜呑み体質/情報の客観分析に必要な知的視点(パースペクティブ)を確立するのに必要な広範にる知識・情報・好奇心等々の欠落/おベンキョさせられ過ぎの学生サンの無理矢理やらされているという被害者意識とノルマ消化主義的体質の固着化に起因する「文章読みの労力なんて最小限にしなきゃやってられない」という手抜き根性と「苦労して読んだ末に得た情報が"無価値"だなんて、そんな勿体ないことは絶対に許さない!」という知的貧乏人根性・・・etc, etc.・・・如何であろう、「藤原氏謹製***狂気説」なんぞより、よほど真実の響きがある「日本人ビョーキ説」とは思われまいか・・・思われまい、ね、きっと。ま、思いたくない人は勝手にどうぞ、信じたいことだけ信じてお幸せに(しかし、この筆者をはじめとするアナタガタ以外の世界の人間には迷惑かけずに)生きてってくださいな。
 ・・・かくて、「冷泉天皇には幼年期から狂気の病があった」というこの周到なる布石によって、まずは待望の「藤原関白」を復活させた伊尹兼家兄弟(次男の兼通は、実力不足により、長兄伊尹から冷や飯を食わされていたので、この時点では影が薄い)は、次なる政略として、藤原家の対抗勢力たる「源氏」を中央から一掃する暴挙に出る:「安和の変」である。
 冷泉帝には、同じ母親(藤原安子)から生まれた二人の弟がいた:上は為平親王、下は守平親王(後の円融天皇)である。順番から言えば、冷泉の次は当然為平親王が皇太子となり、次代の天皇位にく道理であった・・・が、この親王の妻の父親は、藤原家の対抗勢力中最大の実力者である左大臣源高明:この婚儀は、親王の父である村上天皇(62代)が、家臣の最大勢力たる藤原師輔(の孫)と源高明(の娘)の双方を絡ませることで相互に牽制させ合い、いずれか一方だけが極端に突出して権勢を誇ることがないようにするために、敢えて両家のつながりの均衡点為平親王を置いた、という性質のものである。村上帝は(あの温厚篤実貞信公以降は)関白を置かず『天暦の治』と呼ばれる天皇親政を取りながらも、政治の実権は藤原師輔(及び実頼)に握られていたという思いがあり、天皇親政がより正しく機能していた二代前の醍醐天皇(60代)の『延喜の治』への回帰を目指すための布石として、藤原家の実力伸長を、源氏の勢力を以て抑制しようと図ったのである。この時代、天皇もまた、戦っていたのである:最も身近で最も厄介な敵、藤原摂関家の執拗な圧力と。
 村上帝のこの思惑は、しかし、逆効果を生む。帝の死去と共に冷泉帝が即位すると、次帝として公認されることになる皇太子の座をも同時に決定する運びとなる訳であるが、そこで正当なる次帝候補となるのは、当然、為平親王。ともなれば次の帝の代には、天皇の后の父親として、やがては后の生んだ皇太子(=次々帝)の祖父(外戚)として、源高明が絶大な権力を振るうことになる可能性が高い。そんな事態になったら非常に困る藤原伊尹兼家兄弟は、当然、策謀を巡らした。長幼の「次第」を強引にし、為平親王押し退ける形で弟の守平親王を皇太子(後の円融天皇)に据えたのである・・・この間、3ヶ月の「皇太子空位期間」がある・・・歴史の真実は、こうした不自然な間隙にこそ読み取るべきものなのである:「次第」通りなら生じぬのこの余白は、本来そこに入るべき「為平親王」の名を「守平親王」に書き換えるために伊尹兼家が要した工作期間、である。そもそも「幼年期から狂気の皇太子として知られていた冷泉天皇」というのが事実だとすれば、18歳で即位する前の段階で「太子を辞退させる」ことまではせずとも、「冷泉次代天皇となる皇太子を早々に決めておく」という備えは、冷泉帝即位の遙か昔に(公式的にはともかくも)整っているのが自然であろう?その「自然な流れの中での為平親王」を、不自然に「守平親王」に書き換えるための綱引き合戦が行なわれていたからこそ、3ヶ月の空位期間があるのである・・・和歌の読み解きより遙かに容易で遙かに魅力に欠けるのが、こうした人間どもの思惑の果てに書き散らされた粗雑なる歴史の・・・あくびが出るような単調な醜さである。
 その後更に伊尹兼家は、「源高明謀反の動きあり」という密告に始まる一連の政治的謀略により、彼の一族を朝廷から駆逐し、藤原氏独裁の邪魔になる勢力を京都から一掃してしまう。・・・「太宰権帥」への左遷という点に至るまで、醍醐天皇(宇多上皇)時代の藤原時平による菅原道真追放劇とそっくり同じなのが、「おいおい、またかよ・・・」といった感じである。異なるのは、道真は右大臣/高明は左大臣、という点だけ:道真の怨霊に呪い殺されたという時平(享年39)の先例を、彼らは知らなかったのか、知っていてなおかつ平然とそれを実行するほどの剛胆な兄弟だったのか・・・権力の頂点に昇り詰めた太政大臣伊尹は49歳で急死、二人の息子挙賢(21)と義孝(20)(第50番歌作者)も二年後には天然痘で同じ日の朝夕に相次いで急死、以後家系は没落、という『大鏡』の記述さえ、「またか・・・」の感を催させるから恐ろしい。
 呪いの件はともかくも、いずれにせよこれは、どれだけ無茶なことをしても、その不義をめ、裁く者が存在しなければ、人間は幾度でも同じ悪事を繰り返す、という実例である・・・「歴史をおベンキョさせられてる」人間ばっかで、「歴史を学ぶ」人間は少なく、「歴史から学ぶ」知識人が殆ど存在しない国の、これは典型的な悲劇(見ようによっては喜劇)である。藤原氏にとってのみ殊更に都合の良い事ばかり書いてある歴史書にも、源高明謀反の確実な証拠を示すものは何もない:藤原氏側による陰謀だとする記述が如何なる"歴史書"にもないのは、言うまでもない。こうした度し難き日本の歴史との付き合いに必要な"史的センス"は、世上流布しているお座なりな短歌解釈をす"詩的センス"などより、遙かに重要な死活的重要性を持つのであるが・・・現実の日本は致死的状況である。
 ドラマとしてはもう本当に「えぇ加減にせぇよ!見飽きたわ、そんな茶番劇!」と言い捨てたくなるこうした「藤原謀略史としての日本中古~中世史」を、後代の日本人の誰一人としてまともに見たがらないのは当然すぎるほど当然のことである;が、歴史は、自らを無視する人間に対しては、「歴史は繰り返す」という強烈な形で、しっぺ返しを食わすものである。クソッタレな事件、ケッタクソ悪い悪党ほど、真正面から見据えて、そのムカッ腹が立つ姿を眼に焼き付けておかねばならぬのだ:少しでも似た物・者が身辺にき始めたら、間髪入れずに叩きし、「過去の愚か者どもの二の舞を避ける」ための転ばぬ先の・害虫駆除の方便として。
 もっとも、藤原氏が、藤原氏以外の一族を排斥するための謀略は、この「安和の変による源氏追放」によって終わりを告げることになる。・・・が、心配には及ばない:古文の世界にこの種のネタが尽きることはなく、他山の石はまだまだゴロゴロ転がっているのだ・・・この後は、藤原氏の誰かによる、藤原氏の他の誰かを陥れるための、いかにも藤原氏らしい謀略劇が、延々繰り返されることになり、その様態は、「藤原氏による藤原氏のための日本の歴史」をった古文書の中では、例によって「藤原文物らしい書かれ方」をすることになる。そうした中から、現実世界の豊富な実例を踏まえてのドロドロの人間模様を織り込んだ『源氏物語』のような作り物語や、『栄花物語』のような作り物としての歴史物語の秀作も生まれてくるのが、(伊尹のように呪い殺されることもなく生き残った弟の)兼家の息子の道長の娘の彰子いだ一条天皇(66代)時代・・・平安文学の花盛りの時は、もうすぐそこまで来ているのである・・・もっとも、その前に、藤原兼家には、随分ひどい目に遭わされる運命が待っているのだが(・・・まずは「精神を病んでいる」としか形容できぬほど兼家憎悪した兄の兼通からの言語に絶する迫害によって政治的生き地獄に突き落とされ、そして、嫉妬の鬼と化した感のある妻の容赦なき筆禍によって死後千年以上にってなぶり者・慰み者となるのであるが)・・・そちらの話は第53番歌「なげきつつ・・・」作者藤原道綱母藤原倫寧女)の場面までのお楽しみとしてとっておこう。

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