百一053解題)嘆きつつひとり寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る

嘆きつつひとり寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る
『拾遺集』恋四・九一二(右大将道綱母:うだいしゃうみちつなのはは)(女性)

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解題

 平安時代の男女関係は、悲しいほどに男性優位で、「一夫多妻」に「妻問婚」。女性はひたすら家にあって、自分を妻(の一人)とした男性が、訪ねてくるのをじーっと待つ。けど、旦那様だって私一人だけ相手にしている訳じゃあないお忙しい身、仕事もあれば、他の女性だっている(・・・のだろう・・・)し、来てくれない時は寂しい限り・・・あぁ、今夜もやっぱり来てくれないのかなぁと、「嘆きつつ一人寝る夜」はとっても長くて、「(翌朝の)明くる(迄の)如何に久しきもの」であるか、つれないあの男は知ってるのかしらね・・・知らないでしょうね、だって、「とかは知る」は、"反語:~だろうか、、~ない"だもの。
 そんなふうに「よがれ(世離れ/夜涸れ・・・夜の御無沙汰)」で女を泣かせる男が、ある日の夜明け近い時間帯、不意に訪ねて来ては、「さぁさぁ、早く門を開けとくれ」と言ってきたら、貴女はすぐ開門します?少しぐらいジラしてやろうって、意地らしいこと思いません?
 その上さらにこの場合、その男が、最近、自分以外の女を作ったらしい、となれば・・・その別の女性との逢瀬に忙しくて、このところ数日来自分のとこはお留守だった、と知ってたならば・・・貴女なら、いそいそと喜んですぐ開いちゃいます?意地でもジラして開けません?
 この歌の女性は、あんまり殊勝なほうじゃなかったので、家来に「開けちゃ駄目よ!」と命じて、放っときました。そのうち、相手の男は、牛車の音をガラガラ立てて、帰ってしまったようです(・・・どうも、例の、新しい女性のおうちの方へと去ったような気がするのは私の嫉妬かしら?)。さすが勝ち気なこの女性も、このまま放っておくのもどうかと思ったので、翌朝、いつもよりも飾った綺麗な手紙で(しかし、色せかかった菊の花など添えて、「どうせ私の花の色はうつりにけりないたづらに、でしょうけど」と皮肉の味付けも忘れずに)、「同じ"あくる間"でも、門の"開くる間"さえも待ちきれずに去ってしまった貴方堪え性の無さじゃあ、独り寝の夜の"明くる間"の長さに何日も耐え続けてる私の辛さなんて、きっとわからないでしょうね」と、開門しなかった自分を責めたがるだろうあの人に向かって、先制攻撃を仕掛けます。
 相手の男の返事は、こう:「いやぁ、開くまで待ってようかと思ったんだけどね、いきなり召使いが来て"宮中から急用です"って言うもんだから、仕方なくそっちへ行っちゃった。ごめん、ごめん。」・・・なーに、この言い訳?あんな夜明け時に、宮中の用事って!もーっ、この藤原兼家って男は、なんという鉄面皮なのかしらっ!
 見え見えの言い訳を平然とする兼家兼家ですが、以後、この男がそうした言い訳もせずに「例の女」のところへ通ってると知るたびに、嫉妬に狂ったこの妻は「なによ、もうこうなりゃバレバレだから、いまさら言い訳の必要もないってこと!?"いやぁ、宮中に急用が出来てね"ぐらい言ってから浮気なさいよッ!!」などとヘンテコな怒り方をしてたりするのが、本気なんだか冗談だか、よくわからないところがまた凄い、そんな『蜻蛉日記』(974頃より)からの、藤原道綱母(936?-995)の皮肉を込めた歌の顛末でした。
 彼女は藤原倫寧の娘で、才媛誉れも高く、その評判を聞きつけた兼家見初められて、二十歳の頃に妻(の一人)になり、一人息子の道綱を生みます。が、その後、兼家サンは、上に出てきた新しい女(藤原時姫という名の、いかにも時めきそうなお姫様です。彼女は兼家との間に、道隆道兼道長超子詮子という三男二女を生むことになります)を正室として、道綱母のところにはあまり寄り付かなくなります(まぁ、彼女も、『蜻蛉日記』を書いちゃうほどのヒトだから・・・)。以後、道綱母は、待てど満たされぬ悲しき結婚生活の鬱屈した心の内面を、恐ろしいほど赤裸々な日記の文章に書き残し、兼家サンの悪行を呪う難解極まる古文の数々は、千年たった今もなお、世の大学受験生達を悩ませ続けている訳です・・・女の執念、恐るべし!
 もっとも、彼女の日記の功績は、鉄面皮で薄情な浮気者としての藤原兼家の姿を10世紀以上に渡って世に告発し続けただけ、ではありません。女流日記文学という新たな形態を、中古の日本に根付かせる役割をも果たしたのです。『蜻蛉日記』以前の日記文学と言えば、紀貫之の(女性仮託して書いた)『土佐日記』(935)がありましたが、あれはあくまで男の手になるものである上に、和歌を漢詩に代わる日本の文芸の主役に押し上げようとする貫之の野心の賜物ですから、ある種「歌物語」的性格をも帯びていました:55日間の旅行記に57の歌が添えられているのですから、『伊勢物語』に近い性格があったことは明らかです。それに対しこちらの『蜻蛉日記』は、徹頭徹尾、人物の心理描写が主役。その緻密な(場合によっては、ネチネチと執念深い)心の内面スケッチは、後代の平安女流文学者に確実に引き継がれました。『源氏物語』(1008頃)・『紫式部日記』(1008頃から)はその直系の後継者と言えるでしょう。
 ということは、つまり、紫式部もそれ以外の大勢の人々も、当時既にもう『蜻蛉日記』を読んでいたということ;即ち、あの時代の「日記てふもの」は、他人の目にも触れるもの/読んでもらうことを意識して書かれたものだった、ということになる訳です。いわば、現代に於けるblog(WEB-log)と同じで、「私は、こんなこと思ってる人なのよ」とか、「見てみて、私って、こんな文章や詩を作れる人なのよ」とか、「ねぇねぇ、聞いて、あの人ったら、こんなヒドいやつなのよ!」とかを、世間に訴えるために用いるメディアが「日記」だった、ということなのです。これ、古典を知る上では結構重要な知識です。最初っから「よそ行き顔」して書いてた訳だから、いかに事実っぽく書いてあっても100%鵜呑みには出来ないし、他人に見られることが前提である以上、そこで自分自身の文章力だの学識だのを「見せつける」ためのレジュメ(紹介状)代わりに使うというのもアリだった訳です。清少納言の『枕草子』(995-1000頃)だって、『源氏物語』だって、作者達のそうした野心満載の作品だったのです。もっとも、『蜻蛉日記』の作者を突き動かしたものは、そんな世間的野心じゃなくて、純粋なる兼家サンへの怨念だったようですけど・・・。
 その藤原兼家という人についても、どうしても書いておかなきゃいけませんね。彼について書くということは、この時代の貴族の(特に、次代道長の)権力闘争のおどろおどろしさについて触れる、ということであり、そのドロドロの様態を見据えた上でないと、『源氏物語』も『栄花物語』も『大鏡』も、何一つまともに読めないのですから。
 兼家が兄の伊尹とともに、邪魔な源氏一族を中央朝廷から駆逐して、いよいよ藤原北家一人勝ち時代への門を開いたことは、別のところ(第48番歌)で既に書いていたと思いますが、その後の彼には(千年ものの告発日記以外にも)政治的地獄が待っていました。
 972年、伊尹が「摂政」に昇進した直後に49歳で急死(謀略の犠牲になった人々の呪い、という噂がしきりでしたが)すると、次はいよいよ兼家の時代・・・となるでした。彼自身そのつもりで次代の「関白」位を望みます・・・が、意外や意外、その位を射止めたのは、兼家の兄の兼通でした。
 兼通兼家よりも年長ながら、伊尹の存命中は、出世競争では悉く兼家後塵を拝する日陰者の存在でした。長兄伊尹兼家の実力を高く評価しており、兼通としては「自分は兼家のせいで冷や飯を食わされている!」という被害者意識を強烈にらせていました。その兼通はその昔、彼ら兄弟の共通の妹である藤原安子(927-964) ― 村上天皇(62代)の中宮として、冷泉(63代)天皇・為平親王円融天皇(64代)の三人の男子と一人の女子を産んだ女性です ― にお願いして、彼女の生前、次のような書状を書かせていました:「関白は、兄弟全員、順番通りに、回り持ちの形で、よろしく」。兼通は、この書状を、安子の息子で当代の天皇である円融に見せようとしました(この時点で安子は既にもう亡くなっています)・・・兼通は、自分は冷遇されていると思い込んで宮中への出仕をサボったりしていたので、円融天皇はこの男が大嫌いで、兼通の姿を見た途端に逃げようとしたけど、結局話を聞く羽目になり、例の書状を見せられました。すると、お母さん孝行だった円融天皇は「あぁ、懐かしい。確かに母の筆跡だ・・・亡き母がそれをお望みなら、兼通を関白に据えるのが正しいだろうね」と、既に兼家に決まりかかっていた決定を白紙に戻し、兼通を関白に任命してしまいます。
 そこから、常軌を逸した兼通の「兼家いじめ」が始まりました。
 兼家時姫に生ませた二人の娘のうち、姉の超子は既に、円融の兄の冷泉天皇に入内していました。彼女は最終的に三人の皇子を産むことになります:居貞親王(後の三条天皇:67代:第68番歌作者)・為尊親王敦道親王(下の二人の皇子はいずれも、あの天才歌人和泉式部と関係を持つことになる男性達)です。
 一方で兼家はまた、超子の妹の詮子の方は、円融天皇に入内させようとしていました。これを、兼通が妨害します。兼通側では既に円融に対して自らの娘の媓子を(円融より12歳も年上の彼女を27歳という当時としてはかなりの年増で)入内させており、彼女が皇子を生んでくれれば、天皇の外祖父としての自分の権力の座は盤石になる、と皮算用を弾いていたのです(・・・が、結局彼女と円融の間に子供は生まれませんでした)。
 ですから、兼家の娘が円融天皇のになるなんて、兼通としては絶対に許せなかった訳です・・・この状況が、兼家の立場を苦しいものにします:円融天皇が兼家の魂胆を疑り始めたのです。年頃の娘の詮子がいるにもかかわらず、自分のとして入内させないということは、兄冷泉院にがせた娘超子が生んだ皇子を天皇位にけて、その外祖父としての実権を兼家が握ろうとしているのではないか、そのためにいずれ自分を排斥しようとするのではないか、と勘繰り始めた訳です(兼通の悪意に満ちた讒言の結果でしょう)。こうして、兼家円融天皇からまれ始め、超子冷泉天皇の第一皇子居貞親王を産むと、ここぞとばかり兼通円融の疑心をりにかかり、兼家の立場は悪化します。
 この他にも、もうとてもここには書けないほどの狂気に満ちた嫌がらせの数々をした挙げ句兼通は977年、53歳で世を去ります・・・贈り名の「忠義公」が何だかものすごく複雑な響きです:兼家への嫌がらせ以外、仕事らしい仕事をしなかったとんでもない人ですからね、この人は。藤原氏にはちょくちょくこういうスゴい人が出てきます:権力者側から見た敵のことならケチョンケチョンに悪く書くのが当たり前の「藤原歴史物語」だから、そういう場合は多少差し引いて考える必要もあるでしょうけど、この兼通という人は権力者側だし、彼が弟の兼家に対して取った行動の数々は宮廷人事として隠しようがなく、勢力拮抗した同族同士のことなので隠蔽や脚色の必然性もないのだから、ほぼ事実と考えてよいでしょう。きっと、兼通サン、兼家のことを「できることならこの世から消し去りたい!」と思ってたんでしょうね(・・・「できることなら太宰府にでもブッ飛ばしたい・・・が、口実がないからそれが出来ないのが悔しい!」と言った、とは『大鏡』に書いてありますけど)。
 この呪いに満ちた兼通という存在がようやくこの世から消え去って、兼家は息を吹き返します・・・と同時に、どんどん悪乗りの度を加えて行きます。
 978年にはようやく詮子円融天皇に入内させ、980年には待望の第一子懐仁親王(後の一条天皇:66代)が誕生します。
 その直前の979年には、既に亡くなった兼通の娘で円融天皇より12歳も年上だった媓子が、遂に一子もけることもないままに寂しく世を去っています。これにより空位となった円融帝の中宮の座を、兼家詮子の親娘は望みます・・・が、彼らの意に反して中宮となったのは、兼家が政治的にホサれている間に兼通の後継関白となっていた藤原頼忠の娘の遵子でした。この決定がなされたのは982年。詮子は既に円融の第一皇子を産んでいますが、遵子は一人も子を産んではいません(・・・その後も、一人も出来ない運命なのですが)。兼家詮子親娘は、この決定に猛烈にふてくされて、懐仁親王ともども東三條の屋敷に引き籠もってしまって宮中には顔も出さず、憂慮した円融天皇が使いを送ってもろくに返事もしないという始末・・・この時代の天皇と藤原一族の力関係がよくわかるしょーもないエピソードです。
 円融天皇は、「我が子に相撲の節会を見せてあげたい」と言って兼家にたびたび誘いをかけ、しぶしぶ応じて出仕してきた兼家に対し、天皇はこう言って懐柔を図ります:「自分はもう在位16年と長いから、そろそろ引退して帝位を冷泉天皇の第一皇子師貞花山天皇:65代)に譲り、その次代詮子の産んだ懐仁親王を、と考えている。」・・・これを聞いて、兼家の謀略の血がムラムラと沸き上がります。
 984年、円融天皇はその言葉通りに花山天皇に譲位しますが、兼家とその一派は、即位後僅か二年にしてこの花山天皇を退位させてしまいます・・・今度はどんな"藤原マジック"を使ったと思います?仕掛けはこうです:
1)花山帝の寵愛する女御の藤原忯子(通称「弘徽殿女御」)が亡くなり、帝は失意に沈んだ。
2)悲しみのあまり「出家したい」という花山帝を、兼家の三男の道兼がしきりにけしかけ、「私も一緒に出家しますから、今すぐ山科元慶寺に参りましょう」と言って、強引に帝を宮中から連れ出してしまった。
3)元慶寺に着くと、道兼花山帝を手っ取り早く剃髪・出家させてしまった。
4)その後で道兼は、「髪をり落とす前の姿を、父兼家に見せてから、出家したい」と言って元慶寺から退散、そのまま戻って来なかった。
5)花山帝は「された!」と知るが、既に仏門に入る手続きを済ませてしまった以上、もう手遅れ。宮中から消えた天皇を捜しに人々がやって来て真相を知った時には、「兼家の娘の詮子が産んだ懐仁親王(8歳)が一条天皇として即位」の段取りが出来上がっていた。
 ・・・どうです、兼家サン(+その息子)の鉄のような権力奪取の意志と面の皮の厚さ、半端じゃないでしょ?これほどの男なら、『蜻蛉日記』で千年間やっつけられ続けたって痛くもくもないでしょうね、きっと。
 更に、これだけでは決して安心しないのが藤原一族。自分に敵対しそうな勢力は消し去ってしまえッ!と思う訳です(・・・だって、自分自身がこれだけ悪いことしちゃうんだから、他人だってそれと同じことしちゃう、って思うのが悪人の常)だけど、幸か不幸か、兼家さんが葬り去ろうと思っていた潜在敵には、娘が天皇にいで皇子を生んだ人なんて一人もいませんでした:これでは、「外戚として将来自分の孫を天皇位にけようとしているッ!」という讒言が利きませんから、追放処分にもできません。
 そこで、「相手を遠くへブッ飛ばすことができないなら、自分が相手の手の届かぬ高みに昇っちゃえばいいじゃん」とばかり、兼家さん、自らを従一位・准三宮(or准三后or准后)の地位にけてしまいます。これは「三后(=皇太后皇太后皇后)に準ずる地位」ということで、本来天皇の臣下でありながら「皇族扱い」という特別な立場。これにより、兄兼通のイヤガラセの数々の結果「右大臣」という第三位の官位だった兼家は、そんな役職はポイと捨ててしまい、一気に「宮中の役人の誰一人として逆らうことの許されない別格最上級の雲の上の存在」に変身したのでした。
 こうして怖いものなしになった兼家とその一族は、好き放題をやり出しました。天皇位にけた後も相変わらず自邸の東三條殿で一条帝を育てていた兼家は、「帝がおられる以上、この東三條殿は宮中に等しい」という屁理屈で、屋敷の一部を宮中の清涼殿を模して作り替えます。宮中の主要な地位は、息子道隆道長らを初め、兼家の息の掛かった人々で独占します。平安末期の平清盛みたいなことをやった訳ですが、この時代は平安時代でも一番の安定期だったので、こうした無茶をしても朝廷が傾く訳ではなく、平家一門のような悪名が後代まで轟くことにはならなかったのが、兼家一派(と、息子の道長)にとっては幸いだったと言えるでしょう。
 下世話な方面では、兼家の娘の詮子押し退けて円融天皇の女御となったものの、結局一人の子宝にも恵まれなかった(藤原頼忠の娘の)遵子につながる人々に対しては、詮子とその子一条天皇に連なる人々はみな一様に、敵意の姿勢を露わにしました。遵子の弟は、あの有名な藤原公任(第55番歌作者)。当代随一の文化人として、誰もが一目置かざるを得ぬこの人も、兼家詮子サイドから見れば憎いライバルの弟、どうしたって風当たりが強くなります。遵子立后の際に公任得意気な態度を取ったことも、彼らは終生覚えていて、以後、事あるごとに、当てつけがましく嫌味な態度を取り続けました。公任が失態を演じるのを期待しつつ、あれこれ誘いを掛けていたフシさえ折々見えるのが、何とも藤原氏的で、笑っちゃうのですが・・・むしろ、そうしたミミッちいねちねちした悪意の風を颯爽と跳ね返してしまってひとつもコケることなく、逆に自らの名を上げるエピソードとして後代に残してしまうほどに、公任の才能は超絶的だった、という事実の方が、文芸史的には遙かに見所があることだったりしますけど、ね。
 因みに道長の娘の彰子側に身を置いていたあの紫式部が書いた『源氏物語』へのリップサービスとして、公任が紫式部の前で「このあたりに、紫の上はおられませんか?」と言った際、彼女は押し黙って何の気の利いた返答もできずにいたくせに(・・・この女性の体質は良くも悪しくも"小説家"、当意即妙の才には欠けていましたからね)、後日『紫式部日記』の中でこの時のことを次のように書いて、逆に公任をやっつけようとしています:「光源氏みたいに素敵な人もいないのに、紫の上がいるわけないでしょうに」・・・後で時間かけて言葉を選びながらる「日記」の中でなら、何でも書けますからね ― Hindsight is the wisdom of fools.(後知恵は愚者の英知) ― この時代の「日記」である以上、紫式部はこれを「これ見よがし」に書いている訳ですが、これによって彼女は、社交的反射神経の鈍さを露呈させられた自分自身のケチな個人的復讐を果たすと共に、御主人さまである道長さん(を偏愛したというその姉の詮子さん)への忠義立てをも果たしたことになる訳です・・・この時代の日本人の体質が、よーく解る気がする、ドロドロのエピソード、キライです、こういうの・・・もっとも、『源氏物語』という名の権威は「准三宮」並みだから、大方の日本人はこんな紫式部の態度の根っこにあるものを、まともに見据えたり批判したりしようともしないんでしょうけどね。
 ・・・ということで、藤原兼家という人は、幾つもの地獄をかいくぐりながらもしぶとく生き延びて、やりたい放題のことをした末に、西暦990年、一条天皇の元服を機に「関白」に任ぜられた僅か三日後に病気を理由にこの地位を嫡男道隆に譲って出家、その二ヶ月後には病没しています・・・誰かに呪い殺された訳でもない62年の生涯でした。
 兼家さんの5年後に、道綱母も世を去っています。生年不詳の彼女ですが、享年はたぶん、60歳。『蜻蛉日記』の記述の最後は、39歳の大晦日兼通が死ぬ前、兼家が生き地獄を味わっている最中でした。その後の兼家の政治的放縦を、彼女はいったいどう見ていたのでしょう・・・そちらの感想もっておいてもらったなら、さぞや壮絶な読み物が出来上がっていた・・・かしら?それとも、女の執念で書きる対象としては、政治や戦争といった表立っての綱引きは、内面の葛藤に比べて不向きみたいだから、"兼家の謀略大作戦"はやっぱり『大鏡』あたりに任せておくのがよいのかしら?

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