百一054解題)忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな

忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな
『新古今集』恋三・一一四九(儀同三司母:ぎどうさんしのはは)(女性)

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解題

 「忘れじ」は、普通に読めば「"君のことを"忘れるものか」・・・だけど、これだと「別れ際の挨拶」の感じが強くて、またの逢瀬に期待をつなぐ女の立場としては、少々不吉な響きあり・・・だから、ここはもう少し言葉を補って、「"君への愛は変わらない、という今夜の誓いを”忘れるものか」としておきたい気分。
 そんな「永遠の愛の誓い」が、実際「行く末まで=未来永劫(変わらず守られ続けること)」は「難ければ=難しいのだから」、「今日を限りの命ともがな=今日を最期に尽きてしまう私の命ならどんなにいいことでしょう」・・・幸せの絶頂にある今この瞬間を、人生最高の思い出として抱きながら死にたい、という、女ならではの情感を込めた歌。
 女の願望って、よくよく見れば刹那的・・・一瞬一瞬が良ければいい、って、そういう意味での刹那的じゃなくって、花火の散華の一番いいところみたいな自分(たち)を、人生のプロフィールを凝縮した一枚のスナップ写真みたいな形で大事に抱いて生きていたい(あるいは、抱きながら死にたい)、そういう願望は女ならみんな持ってるように思う。綺麗な残像がまだ残ってる間だけ見て/見られていたい、散り終えた花火の落ち行く先まで見ないでほしい、花なら咲いてるうちだけ見に来てくれれば、散り際なんて見守ってくれなくてもいい、綺麗なまま、幸せなまま、人生の波の頂点に、いつまでもいられたらそれが一番いいけれど、それが無理なら、綺麗じゃなく、幸せじゃなく、人生の波もなくなる前に、いっそこのまま死んじゃえたら、それがいいかもしれない・・・なぁーんて、不吉なことを本気で望んだりするその気持ち・・・この歌、すごく素直に表わしてます。
 「詞書」にはこうあります:「中関白、通ひそめ侍りける頃」中関白こと藤原道隆(953-995)が、詠み手の女性と恋愛関係を持ち始めた頃に詠んだ歌・・・やっぱり、「題詠」じゃなかったんですね、この気持ち。 
 この女性の名は高階貴子。父親高階成忠(923-998)の家柄はさほど高くなかったのですが、和歌はもとより漢詩文のみもある才女として、円融天皇(64代)時代に「内侍=天皇と謁見相手との取り次ぎという重要な役割を果たす女官」として宮中に出仕(女房名「高内侍」は"高(階)"+"内侍"に由来)、そこで運命の男性「関白 藤原道隆」に見初められ、正室として迎えられて三男四女をけます・・・「忘れじの行く末まで・・・も」、とっても深く愛されたことがわかります。
 彼女が産んだ子供達は、あの清少納言の『枕草子』の中でお馴染みの「中関白家」の面々。その主立った人たちは:
1)内大臣 伊周(974-1010)
2)一条天皇中宮 定子(977-1001)
3)中納言 隆家(979-1044)
4)僧都 隆円(980-1015)
 当時の社会では、「女子がどれだけ位の高い男性にぐか」が、一族にとっては非常に重要で、母の貴子が(あの藤原兼家嫡男として「関白」位を譲り受けた)道隆見初められて幸せをんだのと同じように、長女の定子は一条天皇(66代:980-1011)の「中宮」となりました。伊周隆家も、官位昇進の正当な作法など全く無視した父道隆の強引な引き立てで、異例のスピード出世を遂げます(・・・そして世間の顰蹙を買い、これが後日の災いの種を播くのです・・・)。
 定子を「中宮」として立てる「立后」に際しても、道隆は無茶を押し通します。「中宮」とは本来「皇后」の別名です。律令制度の下では、天皇の后という特別な立場の女性は(当代・先代・先々代の)三人までと制限されていて、これを「三后」と呼びます。しかしながら、定子が一条天皇にぐ時には、この三后の地位が全て埋まっていました。具体的には:
1)「太皇太后」=先々代の天皇の正妻(または当代の天皇の祖母)
・・・昌子内親王冷泉天皇(63代)正妻
2)「皇太后」=先代の天皇の正妻
・・・藤原詮子円融天皇(64代)の女御(この人が一条天皇を産んだのですが、正妻にはなれませんでした)
3)「皇后」=当代の天皇の正妻
・・・藤原遵子=先代円融天皇(64代)の正妻皇子には恵まれませんでした)が相変わらず在位
 娘を天皇にがせることで自らの社会的地位を向上させたかった道隆としては ― なんたってこの人、あの鉄面皮兼家の息子ですから ― ここで当然、彼女らの誰か(無論、一条天皇の生母の詮子は除きます)に何らかの罪をなすりつけてでも強引に空席を作ろうとしたことでしょう・・・が、残念ながら昌子内親王にも藤原遵子にも、冤罪の種はありません。そこで、道隆は「屁理屈作戦」に出ます。律令制度のルールブック『令義解』の条文では「皇后」=「天子嫡妻」としていることから、円融"上皇"の嫡妻である「藤原遵子皇后」以外に、一条"天皇"の正妻として「藤原定子皇后」を立てる余地はあるだ、要は、定子を「中宮」と呼び、先に「中宮」だった遵子は「皇后宮」と呼んで区別すればいいんだ、という強引な理屈です。本当は「中宮」も「皇后(宮)」も同じなのに、"実"ではなく"名"を取ってのこの詭弁、さっすが兼家サンの息子、やる時は(どんな事でも、どんなにしてでも)やる、って感じです(・・・が、この強引さを引き継いだのは、何も長男の道隆だけではありませんでした:弟の道長もそうだったのです・・・それがやがて「中関白家」の悲劇につながります・・・)。
 一条帝より三歳年上の姉さん女房としていだ定子は、『枕草子』に描かれている通りの聡明で気さくで誰からも好かれる女性だったようで、このあたりは、お酒と社交と冗談が大好きなお父さんの道隆と、才女の誉れ高かったお母さんの高内侍の、良いところを受け継いだようです。一条帝との夫婦仲もとてもまじかったようですが・・・「明るい中関白家」の悲劇は突然に訪れます。
 995年、藤原道隆は43歳にして急死してしまいます:死因はお酒の飲み過ぎによる糖尿病の悪化。徐々に身体を悪くしている実感があった道隆は、「関白」職を息子の伊周に譲って一族の安泰を図ろうとしますが、一条天皇はこれを許しません。前例を無視して一族を昇進させてきた道隆の強引なやり口には、いい加減みんな辟易していたのです。道隆は、自業自得で招いた自らの信望のなさを思い知らされ、我が子達の行く末を心配しながら、世を去ります。
 結局、道隆亡き後の「関白」職は、道隆の弟の道兼が引き継ぎます・・・が、何とこの人、就任後何日も経たぬうちに病気で死んでしまいます(世間は「七日関白」と呼んだそうです)。
 この時点で、次の「関白」となるのは伊周・・・のでした。一条帝自身、かつては強引な道隆のやり口を許さずに否定したものの、愛する中宮定子の兄である伊周を「今度は関白に」と、思っていたのです・・・が、ここに割って入ったのが一条帝の生母の藤原詮子でした。どういう事情かは知りませんが、彼女は4つ年下の弟である道長溺愛し、逆に伊周のことは毛嫌いしていたようです・・・どうも、このあたりの藤原一族の愛憎は極端で、『大鏡』その他を通じて伝わる話を、話半分どころか数十分の一に薄めて聞いても、あまりに凄まじく偏っているので、書く方でも困ってしまうのですが・・・とにかくこの生母の詮子が息子の一条帝に泣いて頼んで「どうか伊周を関白にすることだけはやめて!道長にして!」と取りすがったので、一条天皇も仕方なくその意を容れて、道長に、とりあえず「内覧」を許します。「内覧」とは、最終的には天皇が見ることになる全ての書類を、天皇に先立って閲覧することを許されること(及び、その役職)のことです。国政全般の流れを掌握する枢要な立場/特権で、「摂政・関白」にはこの権限が自動的に付与されます。が、この時点で道長の役職は「権大納言」、大臣の位に達していないので「関白」にはけません。
 道長は、「内覧宣下」を受けた4ヶ月には「右大臣」に就任し、「藤原長者」となります。これで名実共に「関白」たる資格者となった訳です・・・が、どうした訳か、彼は「内覧」の立場に留まって「関白」には就任しません・・・結局道長は終生、役職としての「関白」にはかず、「摂政・関白」の特権たる「内覧」を保持した「右大臣(995)/左大臣(996)」に留まっています。ここには、道長一流のしたたかな計算がありました。「摂政・関白」は天皇の後見人であり、天皇の政策や決断を左右する"影響力"はあるものの、政策の"決定"は出来ません。行政府の最高機関である「太政官」の議決にも、「摂政・関白」は関与できない決まりでした。しかし、「太政官」の最高位「左大臣」として議決に関わりつつ、「内覧」の権限をも同時に持っていた道長は、天皇との関係次第でいつ失われるかもしれない「関白としての影響力」よりも、遙かに強力で実質的な国政支配権を掌握することができた訳です。
 道長が「関白」を選ばず「左大臣」にとどまりつつ「内覧」を握り続けたのには、そうした事情がありました。似たように「名より実を取った」男達の話は沢山ありますが、幕末の新撰組副長の土方歳三が、元自分と同格の「副長」だった山南敬介を名ばかりの「総長」に据えて、その後は自分が単独の「副長」として実戦指揮権を掌握した話もその一つ・・・土方が「自分は織田信長の生まれ変わりだ」と言っていたという話がありますが、信長もやはり、既に形骸化していた室町幕府や朝廷の呈示する官位・役職の多くを辞退して、代わりに(一見、遙かに慎ましく見える)実質的な地権や商権を求めていた男・・・土方歳三はさておくとして、信長道長、とってもよく似たところがある男たちだとは思いませんか?
 こうして、朝廷実務を主体的に掌握しつつ動かす実務関与型の独裁者としての道を歩み出した道長には、信長同様、有能な臣下が何人もいて、彼らの働きによって国政は安定的に行なわれました・・・この意味で、道長は、ただひたすらに好き放題やっていた感じの父兼家や兄道隆なんかとは比べものにならぬほどの大政治家だった、とは言えます。しかし、彼の周りには当然、その威光を当て込む有象無象が寄ってたかって群がってきます。道長は強引な独裁者ですが、豪気な面、情に厚い面、気取り屋の面、気さくな面と、随分多くの顔があった人みたいですから、七光りを当て込んで群がるハエのような連中を毛嫌いしてひどい目に遭わせた織田信長のような「生真面目な残酷さ」を発揮することもなかったようです。道長溺愛し引き立ててくれた一条帝の母詮子とは"恨み骨髄のライバル関係"にあった円融中宮(その後「皇后宮」)遵子の弟(で、当代随一の文人)藤原公任とも、いろんな行事に好んで同席していましたし(もしかしたら内心その失策や醜態を期待していたのかもしれませんけど)、群がる「太鼓持ち連中」と一緒の宴席で調子に乗って詠んだあの"名歌"「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」が、道長におべっか使いたくてうずうずしてた一同の音頭取りで何度も何度も高らかに詠唱された様子を、道長の権勢に批判的だった藤原実資が日記『小右記』に皮肉っぽく書き残したので、後の世の人々は「道長=この世をば・・・」と思うほどに有名になっちゃった、とか、道長自身の思惑通りに行かない部分で、風聞だの三面記事的な話だのは、勝手に展開してしまったところも多分にあるようです・・・剛胆な道長は、そんな「実のない名」など、大して気にしないかもしれないけど。
 さて、その一方で、すっかり勢いをなくした道隆の息子たちは、鬱屈した日々を過ごしていました。その不満のあまり、伊周隆家は、996年、前代未聞の不祥事をしでかします。よりにもよって、相手はあの花山院(・・・兼家の謀略で出家する羽目に陥り、一条天皇に譲位させられた、あの「中関白家」にとっては因縁浅からぬ相手です:もっとも、相手の方が被害者なのですが)。この法皇(出家した元天皇はこう呼ばれます)はこの時29歳。権力の座を追われたとはいえ"元天皇"であるこの人目掛けて、この兄弟が矢を放ったのでした!(『大鏡』では法皇の袖に矢が突き刺さったと書いていますが、死者が出たとする記録もあります)。元はと言えば、伊周が目をかけている女性を花山法皇が横恋慕して奪取した(結局、これは誤解だったのですが)ことから来る遺恨だったようです。こうした色恋のごたごたも、貴族(あるいはその従者)同士の路上での乱闘だの斬り殺し合いも、実は結構頻繁にあった、というのが平安時代の雅びならざる現実なのですが、いくら何でも"元天皇"を相手の刃傷沙汰など、あり得ないこと、決して許されぬことではありました。
 この事件の時、中宮定子は、一条天皇の第一子を身籠もっており、出産のために後宮から里下がりしていたのですが、そこへ事件を起こした伊周隆家が「かくまってくれ」と泣きついて来ます。出頭を命じる勅命を「重病」などと駄々っ子めいた言い訳で無視し続けたために、犯罪者を捕縛する役人の「検非違使」が荒くれ武士達を従えて身重定子の居る中宮御所に土足で踏み込み、調度品もめちゃくちゃにして、隆家を引っ捕らえて去って行きます・・・絶望した定子はそのまま髪を下ろして出家してしまいました(赤ちゃんがいる身だったのに・・・)。逃げた伊周は父道隆の墓を訪れて「助けてほしい」と祈願したりした後、三日ほどして剃髪した坊主姿で戻って来たといいます。事件の責めを負って、5月、「内大臣」だった伊周は「太宰権帥」へ、「中納言」だった隆家は「出雲権守」へと左遷されてしまいます。10月、悲しみの中、彼らの母の高内侍はこの世を去りました(生年不詳ですが、40台での逝去だったとされています)。12月、予定より大幅に(世間が「懐妊十二月」と噂するほどに)遅れた出産で、定子は最初の娘脩子内親王を生みます。
 悲しみに暮れて出家して俗世を捨ててしまった定子さんですが、夫の一条帝は彼女を忘れられず、事件の翌997年には伊周隆家の罪を赦し定子を強引に還俗させて、宮中に呼び戻します・・・が、彼女の居場所は、かつての華やかな後宮とは似ても似つかぬ、清涼殿から遠く離れた「(中宮職の御曹司」と呼ばれる事務方の詰所(その後、もう少し帝近くの場所に移されますが、"日の当たる場所"ではありませんでした)。出家者を俗世に呼び戻した上で再び中宮に据える、という罰当たりな所業に、世間の風当たりも相当に強く、一条帝としても、人目を盗むようにして彼女に逢うしかなかったようです。既に後見人もなく、立場もない定子さんにとっては、自分を無理矢理俗世へ引き戻した一条帝の愛情だけが唯一の頼り・・・そうして彼女は、やがて二番目の子を身籠もります。
 が、この定子の妊娠で、今度は道長が焦ります。もしそれが皇子だったら、一条帝の定子への愛情の深さからして、やがてその子が皇太子、そして天皇位にくかもしれず、そうなれば自分の権力基盤が危うくなります。実際、その第二子は男子でした:後の第一皇子敦康親王」です。
 そこで、道長は(さすがは兼家の息子/道隆の弟)、強引な策に出ます。既に定子という皇后中宮)のいる一条天皇のところに、新たな皇后中宮)として、999年、ようやく「裳着(女子の元服の儀式)」を済ませたばかりの12歳の長女藤原彰子(988-1074)を、「女御皇后、ではありません)」として入内させたのです。その入内の日は、よりにもよって、中宮定子が二番目の子の敦康親王を出産したのと同じ日でした。そして翌1000年、彰子は、単なる「女御」から、天皇の正式の妻である「中宮」へと昇格します:ひどく落ちぶれてしまったとはいえ「中宮定子」はまだ存在しているその中で、です。
 一人の天皇に二人の「皇后」がいるなんて話は前代未聞ですが、「中宮定子皇后宮定子」にし、「彰子中宮彰子」にしてしまえば、それで問題なし、というのが"藤原マジック"・・・かつて道隆の「中関白家」が自らの興隆を図るべく「三后の壁」を破るために用意した「皇后中宮は、別物!」という屁理屈を、今度は道長の「御堂関白家」に再利用された訳で、「中関白家」としては自業自得、という気もしますが、可哀想なのはやはり定子さん・・・こうして「一帝二后」という前代未聞の異常な事態となりました・・・が、この状態はそう長くは続きません:1001年1月12日に定子は三番目の女の子を産むことになりますが、この娘の生命と引き替えるようにして、産後すぐに母の定子は落命してしまうのです・・・享年25歳。
 定子の死後、彼女の部屋の御帳台の帷の紐には、次のような歌が結い付けられていたそうです:
 夜もすがら契りし事を忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(『後拾遺和歌集』哀傷・五三六)
 夜通し愛し合ったことを、いつまでも私達は夫婦だよ、というあの誓いを、貴方が忘れずにいてくれるなら、哀れな私のことを、恋しく思い出して流すだろうあなたの涙の色が、どんなものか・・・私みたいに血の色に染まった涙なのかどうか・・・見てみたい・・・けど見られない・・・もうお別れです。
 ・・・この歌を、藤原定家は『小倉百人一首』の姉妹編『百人秀歌』の中に収録しています。「高内侍」と「中宮定子」と、さほど離れていないところに二つ並んだ母娘の、よく似た、しかし、悲しいほどに違う歌・・・どちらも「題詠」じゃないのが、せつなすぎます;_;
<「儀同三司母」の呼び名について>
 この第54番歌の作者「高内侍」は、後の世ではよく「儀同三司母」と呼ばれます。「儀同三司」というのは、とんでもない事件を引き起こして太宰府に左遷された後に一条帝の温情で朝廷に復せられることになった藤原伊周が、大臣職に空席がなかったため「大臣の下/納言の上」の「准大臣」なる地位に任ぜられた時、「太政大臣・左大臣・右大臣に准ずる地位」ということで「儀同三司(=三司と意味上は同じ)」なる呼び名を自ら名乗ったことから、その伊周の母である「高内侍」のことを「儀同三司母」と呼ぶことになった、という曰く付きの名です。・・・でも、自分の不祥事でお母さんも妹も一族も滅茶苦茶な不幸に陥れておきながら、お情けで復位させられた身分でエラそうに「自分の身分は三司と同じ」などと自分の口でホザいてる伊周の空しいばかりの鉄面皮は、師輔兼通兼家道隆道長のただひたすらに悪い部分だけベッタリ貼り付けて見るお面のようで、最低!・・・こんな醜い呼び名を、お母さんも定子さんも喜ぶとは思えないから・・・私にとっての54番歌作者は、「高内侍」であって「儀同三司母」なんかではあり得ないんです・・・つまらない個人的感傷かもしれないから、みなさんはどちらでもお好きな方を、どうぞ。どっちみち、そんなのただの"名"でしかないのだから、歌と物語でこの悲しいお話の"実"を知ってもらった後でなら、もう、どっちでもいいんです。

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