百一056解題)あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
『後拾遺集』恋三・七六三(和泉式部:いづみしきぶ)(女性)

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解題

 「あらざらむこの世のほか」は、「世」の解釈次第で「私がもう生きていないであろうこの世の外」/「もう終わってしまうであろうこの恋愛関係の果て」の両用の解釈ができます。末尾の「もがな」は願望で、「思い出にもう一度だけ会いたい」というのですが、会いたい相手は、「死別/失恋」いずれの解釈であるにせよ、「もうすぐお別れの私の大事な人」。
 作者和泉式部は和歌の天才。何の躊躇いもなく日本文学史上最高の詩人と(私的には)断言できる天性の言葉の魔術師。同時代に同じ中宮彰子の下で宮仕えしていた紫式部が(誹謗羨望を交えつつ)評するが如く「あれこれ考えるまでもなく、すらすらと口から出任せに歌を詠んじゃうタイプの人」(『紫式部日記』より)。『古今集』「仮名序」で紀貫之から同様の批判を受けていた「僧正遍昭良岑宗貞)」の数十倍も巧みで流麗な和歌のオルゴールみたいな口を持っていた女性・・・なので、この歌も、実際の別れのシーンで出た心の叫びなのか、「疑似悲恋の詩」として出てきたものなのかわからない・・・ましてや、下手な注釈書によくあるような「彼女の死に際に詠んだもの」であるもない。古語の「世」には、「世界」だの「人生」だの以外に「恋愛」の意がある訳で、「この世のほか」は「私が死んだ後」よりも「私たちの恋愛が果てた後」と見るのがやはり自然でしょう。史実から言えば、和泉式部の記録の最後は彼女が五十歳頃に途絶えていて、その最期に「死んだ後の思い出に恋人と逢いたい」として詠んだ歌とするのは、多情な彼女の人生を思っても、やはり無理があると思います。
 いずれにせよとにかくこれ、彼女の歌としては凡庸で、言葉の妖艶な情感も希薄で、秀作の部類にもまるで入らない歌(と、私は思う)・・・そんな歌を敢えて『百人一首』に選んだ藤原定家さん、ひょっとして彼女の天才ぶりに、同じ歌人として、嫉妬していたのかな?
 和泉は恋多き女として知られ、十八歳で最初にいだ橘道貞(「和泉式部」の名は彼の国司としての任国が「和泉」だったことに由来)との間に一人娘小式部内侍ける(二十歳)も後に離婚、二十二~二十四歳頃には冷泉天皇の第三皇子為尊親王と恋愛関係になり、この身分違いの恋愛を理由に親(大江雅致)から勘当されるも、当の為尊親王は彼女が二十五歳の時に死去。翌年にはその弟の敦道親王に求愛されて宮邸に入り、正妃が宮邸を去る原因を作る、等すったもんだあった末に、親王との間に一人息子(永覚)をけるも、和泉三十歳の時に親王が死に、宮邸を去った和泉は、三十二歳の時に道長に請われて彰子サロン入り(紫式部出仕の四年後)、三十九歳で藤原道長家司(で武勇の人)藤原保昌と結婚、四十三歳の時に夫の任国丹後下向、四十八歳の時に娘小式部内侍に先立たれ、五十歳の時(藤原道長の没年)以降の消息は不明・・・と、まさに波瀾万丈の人生を送った彼女の歌人としての名声は、生前も(スキャンダルにもかかわらず)それなり以上に高かったのだけれど、恋多き女として生身の彼女を見る色眼鏡に文芸的判断を惑わされることがなくなった死後の方が、彼女の和歌への評価は遙かに高く、勅撰和歌集への入集総数は二百四十六首を数える・・・無論、彼女の真骨頂はそんな統計上の数字にあるわけではなく、その歌に詠み込まれた情感にこそあるのだけれども・・・とにかく、この凡作に近い56番歌でしか和泉を知らぬ日本人は ― はっきり言います ― 大損してます。本当の和泉は、もっともっと、すごい歌たくさーん詠んでますから。

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