百一057解題)めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬまに雲隠れにし夜半の月かな

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬまに雲隠れにし夜半の月かな
『新古今集』雑上・一四九九(紫式部:むらさきしきぶ)(女性)

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解題

 「めぐり逢ひて見しや・・・実際に会ったのかしら」ともはっきりとはわからぬうちに、「雲隠れにし夜半の月かな・・・雲間に隠れて見えなくなってしまった夜半の月、ね」となっているけれど、実際に「雲隠れ」したのは「月」ではなくて「人」・・・久々に出会った旧友が、いつの間にかすっといなくなってしまったことを比喩的に言っているらしく、その人と会っていた時間帯も実際に夜半であったかどうかも定かではない歌です。
 散文としては日本文学史上最高の評価を得ている『源氏物語』の作者だから、ということで、そしてその作品中に(当時の文芸上の「お約束」として当然の如く)和歌がふんだんに散りばめられているから、ということで、紫式部は和歌の達人、ということになってはいるけれど、韻文に於ける彼女の力量は散文作者としてのそれに比すべくもなく、歌人としての彼女に与え得る最大限の評価は「技巧的に洗練されてはいる、ね」・・・彼女の和歌には、どう転んでも、同時代の和泉式部のように、心・魂・更には肉感に、直接訴えかけてくるような力はありません。現代風に評すれば、得点の出るカラオケボックスで90点台は出せる;けど、プロ歌手としてCDが出せるような歌ではない、といったところ。
 この歌も、詩的情趣は乏しくて、「出会ったの相手がうやむやのうちに消えてしまった/月が雲間に隠れてしまった」のすり替え技巧に紛らして逃げを打っている感じ。その技巧とて、縁語の織り込みとして「(月・日が)めぐる」と「(友人に)めぐり逢ふ」があるだけ(・・・でも「めぐり」を巡る意味の意外な展開もないので、「縁語」としては微妙)。「雲隠れ」を「月」の縁語とする人もいるようだけど、「出し抜けに隠れる」の直喩表現としては「人の雲隠れ」も「月の雲隠れ」も全く同じことなんだから、これを「縁語」扱いするのはナンセンス(少なくとも、和歌センス、なッしング)。・・・要するにこの歌、技巧歌としてもさほど出来は良くない、ってこと。
 だけど、まぁ、彼女の歌としてはこんなもんでOKでしょう。小説家が必ずしも詩人を兼務できる訳でもなく、彼女の場合は、生きていた時代が「貴人はすべからく歌詠みたるべし」と要求していたからやむなく歌人を演じていただけ。「社交にはすべからくカラオケをむべし」という全体主義的圧力の下、猫も杓子も似非歌手演じる現代日本人の状況に照らせば、彼女の歌が「プロ級」でないことを、とやかく言うべき筋合いにないこと、おわかりでしょう?
 さてその作者、今では「紫式部」で通っているけれど、宮仕え当初の女房名は「藤式部」(父親が"藤"原為時、官名が"式部"大丞)。「紫式部」の名は『源氏物語』主人公「光源氏」の愛妻「紫の上」にんでの後発の通り名。文才を以て聞こえた学者一族の娘として、幼少期から(当時は男の専売特許とされていた)漢籍に触れて育った経験が、後日『源氏物語』へと結実します・・・が、「女だてらの漢文読み」は、彼女の場合、自身を際立たせる切り札であると同時に、世間の風当たりの強さを感じるコンプレックスともなっていたらしいことが、私的雑感録『紫式部日記』の記述などからも感じ取れます。
 『紫式部日記』というのはなかなかに興味ある読み物で、登場人物の心理のを詳細にる小説家だけに、彼女の同時代人への批評の多くも(ご主人様である道長彰子などは例外として)辛口。特に『枕草子』筆者の清少納言への悪口は(出仕時期が10年もズレているので直接の面識はなかったですが)劇辛です。要約して言うと「女だてらに漢学の才をひけらかして、嫌なひと。ああいう自慢たらたら女の末路が、いいものであるないわ」・・・だけど、よく見るとこれ、自分自身への「漢籍女」という他者評が多分に反射投影された文章だとわかります。この面でのコンプレックスが非常に強い紫式部だっただけに、「同じ漢籍の引用にしても、私の場合は、自分自身の精神的血肉として完全に消化した上で作品世界に盛り込んでいるのよ。それを、あの清少納言ときたら、何かきっかけがあるたびごとに、あ、それ知ってる!という態度で、ただ単に自分の点数稼ぎのためだけに引っ張り出してるだけ・・・ああいう出しゃばり女がいるからこそ、私みたいに正当な引用として漢籍に言及してる女性まで、とばっちり食う形で"漢籍女"だの"日本紀の御局"だのと揶揄されて、迷惑こうむるのよ。いいかげんにしてほしいわ、まったく。」といった感じ・・・あ、「日本紀の御局」というのは、時の一条天皇による紫式部評で、女の手になる『源氏物語』なるものを、女房の読み聞かせで耳にした帝が「ふーん、女の身でこれだけ漢籍由来のエピソードなどを書くということは、さぞや(漢文表記の)『日本(書)紀』でも読み漁っているのだろうねぇ」と、賛嘆とも皮肉ともつかぬ感想を漏らしたことに由来するもの、らしいです(・・・なんか、こういう書き方してるこの筆者も、紫式部に輪を掛けた辛口批評家っぽいですけど)。
 『源氏物語』については、資料に初めてその名が出るのが1001年。1008年には初の冊子版が出たという記述が『紫式部日記』にあります。が、作者紫式部自身の人生についてはあまり多くは知られておらず、本名も不明、生没年も定かではありません(979年頃~1016年頃といわれる)。私生活では、二十歳頃に藤原宣孝(c.950-1001)と結婚しています。30歳近く年上の人との結婚・・・社会的に不遇な学者の娘が、身過ぎ世過ぎのために、既に何人もの妻を持つ有力者にいだ、という感じでしょうか?宣孝さんは、紫式部を含めて5人(or 6人?)の妻女持ち。豪気な性分の人だったらしく、清少納言の『枕草子』には、息子と一緒にド派手な衣裳で人前に出た彼の姿をす記述が見えます。どう見ても内向的な性格の紫式部に似合いの夫には思えません。だからと言ってそれだけで不幸な結婚生活を思い描くのは不当ですが、彼女はこの頃には既にもう『源氏物語』執筆に着手していたようで、それなりの刷毛口が必要だったのかなあ、という感じはします・・・妙に浮世離れした学者の様態をケチョンケチョンに馬鹿にする場面をかなり多く含む『源氏物語』は、「学者なんて(or 学者の生活なんて)ロクなものじゃないんだから」という紫式部の個人的鬱屈憂さ晴らしの場にもなっていたかもしれません・・・999年には一人娘(58番歌作者「大弐三位」)が生まれますが、結婚後僅か3年ほどで夫が疫病で亡くなってしまい、彼女の人妻生活は終わります:その後、再婚もしていません。『源氏物語』は、寡婦となった紫式部がその寂しさを紛らすために書いたとの感傷的な説もありますが、自活の道を求めた彼女が中央の有力貴族に自身の才能を示すための宣伝用に書いた、という見方の方が正しいでしょう。筆者個人の自薦売り込みキャンペーンとしての『源氏物語』というのは、現代人には何とも奇妙に響くでしょうが、これは紀元1000年頃の文人(特に、女性)の所業としては、ちっとも珍しいことではありませんでした(『枕草子』が世に出るきっかけだって、かなり人為的なものだったようですし)。当時のキャリアウーマンの中心層は「受領の娘」:下級貴族ながら地方国司として蓄財した父親の財力によって入手した貴重な書物に触れることで、幼少期から蓄積した高い教育水準を、これ見よがしに世間にアピールすることで出世のきっかけをむのが処世の常套手段でしたから。今の世の人が抱く「雅びやかで慎ましげな平安朝女性」のイメージで平安女流文学の作者を捉えようとすると、その実像をみ損ねます。
 そうして『源氏物語』の評判を聞きつけた藤原道長が、娘の彰子中宮付きの家庭教師役として彼女を抜擢したのが1006年(1月31日・・・宮中行事に関するこういう記録はかなり正確に残っているものです)。彼女に関する最後の記録は、1014年6月25日付けの藤原実資(・・・道長さんに強烈な敵対意識を持っていた人で、例の「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を、道長の増長ぶりを示すれた歌、として書き残して未来永劫有名にしちゃったのもこの人)の日記『小右記』の記述で、彼と(既に皇太后となっていた)藤原彰子との取次役を務めた女房として「越後守藤原為時女(・・・"紫式部"でも"藤式部"でもないあたりが、微妙)」の名が出てきます。
 女官として後宮出仕した時点での「藤式部」の年齢は26~27歳。宮中で高貴な女性の下で働く「女房」という職種の女性は、何のかんの言ってもやはり男性との交流は自然と盛んになり、浮き名も流せば、複数の異なる父親との間に子をなす女官だって、決して珍しくありませんでした。しかし、紫式部に関してはそうした浮いた話をとんと聞きません。女盛りにも満たぬうちに夫と死別していながら、再婚もせずに黙々と『源氏物語』や『紫式部日記』ばかり書いていて終生寡婦で通した、というのが、当時の女房族の振る舞いとしては不自然に思われたせいでしょうか、鎌倉期あたりには(全くの無根拠な憶測から)彼女のことを「御堂関白道長妾」(関白太政大臣藤原道長の愛人・・・実際には道長は「関白」位にいたこともないのですが)と書く本などもありました。無論、道長と紫式部の間にそんな愛人関係を示す証拠はどこにも残っていませんから、今日ではその説は一笑に付されていますが、「当たり前の女らしい人生、ってものから少しでも外れた女性を、世間がどう見、どう言い、どう扱うか、の典型例だわ」と、『紫式部日記』の作者なら冷ややかにそう言い放ちそうな話ですね。

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