百一063解題)今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな

今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
『後拾遺集』恋三・七五〇(左京大夫道雅:さきゃうのだいぶみちまさ)(男性)

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解題

 恋の終わりで一番辛いのは、終わったことに納得が行かない終わり方。「さようなら」ときっぱり言って電話を切れば、たぶん、それだけでも心の整理はできるだろうに、ちゃんとした「さよなら」ができなかったばっかりに、未練を断ち切るすべもない・・・これは、きついです。
 相手はもう終わったつもりでいるのだから、未練断ち切るそのためだけに、もう一度逢って「別れの儀式」でけじめを付けたい、だなんて、今更お願いするのも間抜けているなあ・・・と思いつつ、自分一人ではやっぱり終わりにできない/今更相手を巻き込もうにも時機を逸している、というジレンマに、訳がわからぬままに、思わず懐かしの番号に電話しちゃったりすると、「もう逢えません」・「電話しないでください」・「終わったんです」の一辺倒でにべもなく拒絶されて、またもや相手側からの「さようなら」の一方通行・・・もはや出口なし・・・こういう悪しき恋の終わりは、長ーく尾を引いて、いつまでも抜け出せずに憂愁の独り寝をかこち続けることになるもの(アシ引きのぉー・・・長々し夜を一人かも寝む by 掻き暗しの独り麻呂)。
 ・・・少年時代に両親が離婚、母はやがて父親以外の男に走り、叔母さん夫婦に育てられたJohn Lennon(1940-1980)は、それでも時折り気紛れに息子を可愛がりに来てはまたすぐ去って行く母のJuliaに対し、心ときめく恋慕と胸張り裂けるような失恋に似た感情を、抱き続けたことでしょう。いずれ自分が大きくなったら、俺のほうから身勝手なオクフロに「あばよ!」と別れの言葉を突き付けてやる、と、そう思っていたかもしれません・・・が、JuliaはJohnが大人になりきる前に、交通事故で唐突にこの世を去ってしまいます・・・「さようなら」を言いそびれたジョンは、ビートルズ時代とソロ時代に、次のような痛切な詩を残しました ― 彼なりの「さよなら」を言うために:
 You’re giving me the same old line; I’m wondering why. You hurt me, then, you’re back again… NO, NO, NO! Not a second time!(別れた後も、昔みたいに電話をくれて、もう何がどうなってるのかわからないよ。あんなに僕を傷付けておいて、その後、ケロリと帰って来る...嫌だ、いやだ、イヤだ!もう二度とこんなのゴメンだよ!)
Not A Second Time (1963 Northern Songs Ltd.)
 Mother, you had me. But I never had you. I wanted you; you didn’t want me. So, I… I just gotta tell you ― Good bye… good bye.(母さん、あんたには俺がいた。けど、俺にはあんたはいなかった。俺は母さんが欲しかった;なのに母さんは俺なんて欲しくなかったんだ。だから、俺、どうしても言わせてもらわなきゃどうしようもない ― 言うぜ ― さよなら...さようなら。)
Mother (1970 Northern Songs Ltd.)
 けじめのつかぬ終わりでは、本当の終わりは来ないのです。別れる時は、相手にきっちり言いましょう/そして、相手にも言わせてあげましょう:「さようなら!」と。一方通行のお別れは、死の生殺し
 この歌の作者藤原道雅もやはり、残酷な運命を辿った人でした。彼の父は藤原伊周。この人は、例の『枕草子』で語られる後宮の物語の舞台となった「中関白家(彼の父親藤原道隆の代に於ける藤原家の主流派)」の中心人物で、中宮定子の兄でしたが、父道隆の死後、強引なやり口で権勢を拡大する藤原道長道隆の弟で、伊周からは叔父にあたる人)の御堂関白家の前に、見る見る勢力を失って行く中、焦りと苛立ちに駆られたか、弟隆家ともども、よりにもよって(恋愛関係のちょっとした誤解から)花山法皇に弓矢を射かける、という前代未聞の不祥事を引き起こした末に左遷され、その家系の没落は決定的なものとなりました。そんな中で少年時代を過ごしたせいか、道雅という人には、乱行奇行の噂が絶えませんでした。32歳の時、彼の家系にとって因縁浅からぬ花山法皇皇女たる上東門院の女房が斬殺される事件があり、実行犯に殺人を指示した人物として彼の名が挙がります・・・結局真相は有耶無耶のままに終わりますが、この事件を初めとする数々の好ましからざる世評のせいもあって、彼の官位は(若き日に到達した)従三位止まり、父の代まで朝廷の中核にあった中関白家の跡継ぎとしては不本意なまま、62歳で公職を退き出家した直後に世を去りました。
 「今はただ・・・」は、その道雅が24歳の時、彼生涯の最高位である従三位の蔵人頭に叙せられてから(正月のことでした)僅か在位8日めに更迭されるという、道長一派の圧力を感じずにはおられぬ屈辱の左遷劇に見舞われた年に生まれた歌です。この年の9月、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女(そして当然、男を知らぬ処女)たる「斎宮」の立場にあった、当時17歳の当子内親王と、道雅は忍ぶ仲になります・・・が、皇室の守り神たる伊勢の斎宮を、れた存在に貶めるようなこの振る舞い(・・・こうした場合やはり、斎宮にされてしまった内親王の立場より、斎宮を出した家の面子の方が、重いのですね・・・)が、彼女の父たる三条院の逆鱗に触れ、道雅勅勘(天皇直々お咎め)を被ります(結局、これが彼の官位栄達の致命的障害となりました)。「密通」相手の当子内親王には、以後、厳重な護衛が付き、道雅が寄りつくすべもありません・・・「人づてならで、思ひ絶えなむ、と言ふも」ない道雅も辛かったでしょうが、身の置き所もなくなった内親王の人生も悲惨でした・・・事が露見した翌年、彼女は18歳の若さで出家させられ、世間とのつながりを断たれてしまいます。
 道雅に関する数々の悪しき世評は、この「伊勢斎宮密通事件」を皮切りに、これでもかこれでもかとばかり世に溢れ返ることになります・・・が、「日本の歴史」の中でこの種の悪評を前にした時、それを鵜呑みにするのは、知識人の所業ではありません。どの国の歴史でも、後代に残る過去の文物を通してのみられ判断されるものですが、将来に残すべき文物を選別的に作成/抹消することの出来る立場に身を置いた人(達)の意向がそこに色濃く投影されるのは当然の話ですから、話半分(時にはゼロ)に差し引いて判断する必要があることを、常に忘れてはならないのです。この「中関白家の悪事」という「御堂関白筋にとって殊更に好都合な"史実"の数々」を見る際にも、道長側の思惑がどの程度まで"史実"を脚色しているか、怜悧に計算しつつ読まねばなりません。とりわけ、この日本の(特に中古の)「歴史」という代物は、当の権勢家(=藤原家主流派)にとってのみ好都合な書かれ方をしていて、その敵対勢力をやっつけるのに全く容赦がありません・・・こき下ろされる側に関する記述があまりにも非現実的にひどい書かれ方をしているが故に、その取って付けたような虚偽性が逆説的に浮かび上がる例が多いぐらいで、この点に於いてもやはり、日本という国は、今も昔も、物語の作り方が下手糞なのです:本当にその話を信じ込ませたいのなら、悪役の作り方をもっと勉強して書かねばならないのに、それすらも出来ていない三文物書きの手になる代物が多すぎます!・・・そしてまた、そんな洗練を欠くわざとらしい書き方をして、「善玉はただひたすらに素晴らしい」・「悪役はただひたすらに憎い」という三文芝居を垂れ流していても、平然と無反省にそれを受け入れ続けてくれる楽ちんな三流観客がそこに居続ける限り、何の真実味も魅力も人間性も感じられぬ「やられるためだけにそこに居る悪役」さえ仕立て上げれば、それと対立する立場に身を置く我が身は自動的に安泰だ、という愚かな二元論的図式に浸るばかりの薄っぺらな唯我独尊論者どもが、この国を、文芸的にも社会的にも経済的にも政治的にも、そして何より人間的にも、腐らせ続ける図式は変わらないでしょう・・・この国に真の人間の復権(或いは、創出)を望むなら、単色の「黒」で他人を塗りつぶすことで我が身を「純白」と思いなす、日本人御得意の知的・情緒的短絡性を厳しく断罪し、従来そこに何の注目も払わずにただ黙殺し続けてきた人や場面に対し、ちゃんとした人間の物語を宛がってやる感受性と正義感こそが、まず第一に必要でしょう・・・
 ・・・だって、この歌、そんなひたぶるの大悪人(当時の呼び名を借りれば「荒三位」・「悪三位」)の口から出たものだと、あなたは本当にそう思いますか?文芸作品の出来映え一つで、世間的に問題ありとされる人間の所業に対する評価がそうそうたやすくるものでもないのでしょうから、「斎宮密通事件」に関する責めだけは、道雅さん/当子内親王負ってもらうとして、この歌の背景に現実にあった、天皇家の娘として生まれたばかりに男と無縁の生活を宿命付けられた斎宮と呼ばれる哀しい女性と、没落貴族に生まれたばかりに汚辱と嫌がらせまみれの人生を歩まされた男性の人生を、切ない共感をもって胸に思い描くだけの感性ぐらいは、持っていたいものです。
 そして、「一度地べたに転んだ相手は、ぺしゃんこになるまで踏みしてもよいれた悪役でしかないのだ」という非人間的な(かつ極めて「日本の伝統」的な)割り切りは、もういい加減、捨ててほしいと思います・・・だって、そんなことをする人間が、「善玉」のわけ、ないでしょ?「ひたぶるの悪玉」をやっつけてさえいれば我が身は安泰、という安直な図式の上に乗っかった途端、その人物こそが真の「人非人」に成り下がるという逆説の構図を、感性の鈍い人たちは、論理的必然の図式として、怖れと共に自戒しておく必要があるんじゃないか、と思います・・・日本の社会に今も絶えない例の「いじめ」の図式も、「ひたすらにやっつけられる側」を他者におっかぶせれば我が身は安泰、というバカ丸出しの構図の上に成り立つものだし、その「地べたにコケた者だけを、寄ってたかって踏みにじる」という(千年来の"史実"から判断するに、「日本国の伝統芸」と皮肉に言い放ちたくなる)醜い所業を、いま、この国の政府だのおエラいセンセ方だのは、「みんなでなくそう、STOP!ザ・いじめ!」とか言って、目の敵にしてるわけでしょ?・・・それにつけても、「みんなで寄ってたかっていじめっ子を袋叩きにして社会的に生きていられないようにしてしまえ!」という全社会を巻き込んでの「弱者作り」にばかり終始している以上、あぁやっぱり、「いじめ」ってやつは、日本国・日本人と縁の切れない、ン千年の歴史を持つ国民的体質(彼らが好んで使う開き直りの文言を借りれば、"日本の文化")なりけり、という溜息の出るような再確認の感覚が、一向えませんけど・・・そんな「醜い日本人」に成り下がらぬためにも、たった三十一文字の中に、生きた人間の思いや人生を凝縮した「和歌」という名の人間的小宇宙をこそ、日本が積極的に誇れる真の文化として、もっと大事にし、もっと世界に向けて主張していくのが、いいんじゃないでしょうか(その小宇宙の中にいた「人間」の物語を読み取ることがまず先決ですけどね)・・・ひたすらに悪いばかりの人間なんていないなんですから、出口なしのいじめの構図の愚かな悪質性に終生気付かない「ひたぶるのバカ日本人」だって、きっと存在しない・・・和歌という名の解毒剤一つで、治る病気も多い・・・でしょ?

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