百一069解題)嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり
『後拾遺集』秋下・三六六(能因法師:のういんほふし)(男性)

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解題

 三室山竜田川の実景を詠んだものではなく、歌合せ(「永承四年内裏歌合」)の「題詠」として、想像の中の美景を文字にしてったに過ぎぬ歌。しかも「竜田川もみぢ葉流る神奈備三室の山に時雨ふるらし」(『古今集』秋下・二八四・よみ人しらず)からの「本説取り(古歌の情趣を引き合いに出して重層的味わいを出そうとする技巧)」。「竜田川の水面上に紅葉が浮かぶ・・・ということは、三室山の上の方では通り雨が木々の葉っぱを散らしての川まで流しているのだろう」という例の古今調の「二段階気付き歌」を持ち出して、「三室山で嵐が吹いた・・・からこそ竜田川の水面上は紅葉の錦で彩られた」としているだけの歌で、この歌だけでは力不足ながらも、「竜田川に紅葉の錦を浮かべれば、聞き手の心には古今の元歌が浮かぶだろう・・・からイメージの二重写しで効果倍増が狙える」といった感じで大向こうの歌人の古今の歌のウンチクに訴えて歌合せに勝ちたい、という野心もプンプン漂ってきて、あまり美しくありません・・・歌体じたいは綺麗はキレイですが、いかにも作り物といった感じで、写実に執念を燃やした正岡子規あたりなら「陳腐!」と激怒し、皆が皆誉め讃える富士山の絶景に対し天の邪鬼な嫌悪感を催した太宰治なら「風呂屋のペンキ絵だ!」と言い放ちそうな歌です・・・が、文芸的営みというよりはむしろ、貴族の高尚なる社交の具と化していた時代の和歌には、こういうのが多かったし、また、こういうのが喜ばれもしたようです。
 このあたりの虚しい華麗さに照らし合わせて、現代日本のカラオケ事情なんぞを、高いところから見下ろしてみるのもよいかもしれません:「中味のない、見せかけだらけのカラッポ歌?・・・んなこと言ったって、しょーがないじゃん。歌わなけりゃ場がもたん、それが世間の付き合いってもんさ」・・・どうです、よく似てませんか?・・・古典の世界といっても、ひたすらに美しい宝玉玉手箱などではなく、このように、他山の石のガラクタ市だったりもするわけです・・・ははぁーん、「カラオケ=日本の文化」なんて、つい最近になって官公庁あたりが元気のない日本への景気付けとして言い出した空念仏だと思っていたら、実際のところ、紀貫之が『古今和歌集』で漢詩文から主役の座を奪い取って、「日本の貴族なら和歌を詠め!ヘタでもいいから歌うたえ!」の流れを作った時から連綿と続いているのだから、2009-905=1104年ぶんもの歴史の重みを持つ、正真正銘日本人の国民的体質と化してしまった正統派社交様態なのだなあ、と実感することこそが、古文を学ぶ一つの効用(目的、ではないでしょうけど)でもある訳です。
 その気になっていてごらんなさい、今に伝わる古歌の中にも、よくよく見れば「なんだこりゃ?!」ってのが、いっぱい混じっているものですから。「古典だから、そんなこと畏れ多くて・・・」と思っている人、ダメですよ、時の重みに押しされて、シロウトカラオケとプロ歌手の名曲の選別を怠るようでは。古歌・古文・古典というだけで無条件に手放しで「古いから、良い」としてしまう体質の人達が大勢いる国では、真の意味での選りすぐられたclassics、研ぎ澄まされたより良いものだけの選抜群としての名作は、塵芥に紛れて、いつしか廃れてしまうものなのですから。そして、そうしてカラオケ歌に紛れさせて放っておくには、あまりにも惜しい珠玉の名品が、古歌の中には沢山、拾い出されて再び輝きを放つ日を、じぃーっと待ってくれているのですから・・・千年もの時を越えて。
 作者能因法師は、俗名橘永愷。この歌そのものは御座敷に座って想像の中でだけ詠んだ「ヴァーチャル旅歌」(その上にまた「本説取り」)ですが、実生活の中でも、甲斐国陸奥国といった、京都の人達から見れば「異国」と言える場所に(当然、官吏として公用で)旅した経験を、当時の貴族としては豊富に持つ人でした。
 旅が非日常的体験であった時代の人々にとっては、見たことのない異国の情景は、ただそれだけで語る/聞く/見るべき価値があるものでしたから、こうした歌は、文芸的価値以外の想像的付加価値をも付与される、いわば特権的立場にあるものだった、という事実は弁えておかねばならないでしょう。その上で、「名所ボーナス」を差し引いてなお価値ある歌か、そうでもないのか、読み手自身の判断を下せばよいと思います。
 その際には、それらの情景がもはや語り尽くされた陳腐な名所に過ぎぬから、という理由で、「あーぁ、またこれか・・・もうウンザリ。マンネリもいいとこ。全然ダメ、零点!」などと殊更に低い点数を付けないようにしてあげるのもまた大事な心得と言えるでしょう。だって、現代人にとって陳腐に感じられるほどまでに幾度となく重ねて語られ続けるようになる、その元を作ったものが(少なくとも、語られ出した当初に詠まれたのが)その歌だった、という場合には、オリジナルに対する敬意ぐらいは、払っておくのが妥当な礼儀ですからね。現代の観客から見れば、1970年代後半のSF映画の戦闘シーンなんて、ショボくて見るに堪えない代物かもしれないけれど、それをしょぼっちく感じるのは何故かと考えてみれば、70年代後半のSF映画に大興奮した人達が、それに感動して一斉に真似した上に、それを下敷きにして更なる映像的発展を重ね続けて30年が経過したからこそ、我々の見る目も肥えてしまったということ・・・自分達がその肩の上にどっかと乗っかっている父祖のことを見下した挙げ句、「おまえら、小っちゃくて、話にならん!」とうそぶくのは、文化・伝統の観点から見て不敬であるばかりか、純粋な知的論点からしても愚劣なことですから、「今から見ればちゃっちいこと」を見た時には、それがチャチに見える絡繰りを、よくよく考え感じ取る知的反射神経を、こうした古歌に触れる経験を通して、磨いておくのはよいことだと思います。(それにつけてもこの歌はしょぼしょぼだけど・・・)

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