百一074解題)憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
『千載集』恋二・七〇八(源俊頼朝臣:みなもとのとしよりあそん)(男性)

一首 前へ←  『小倉百人一首』[解題]  →一首 後へ
・・・かるた取り名人目指すなら、こちら→
★この解題を自分の「Twitter(ツィッター)」で引き合いに出す→

==========

解題

 「れども逢はざる恋」(神仏に願ったのに、成就しない恋愛)という発想で作られた「題詠」、つまりは観念歌だが、お約束通りの退屈な技巧とは一味違った風変わりな手法で詠まれていて、当時の歌詠みにどう受け止められたか、興味深い歌である。・・・『小倉百人一首』を編んだ藤原定家は、どうやら、これがえらく気に入ったか、あるいはやっぱり気に入らずに選外とし(ようとし)たか、いずれにせよこの歌が大変気になった一人らしい(・・・理由は、後述)。
 「れども逢はざる恋」のお題に照らして、出だしの「かりける人」(これまで、自分に、つれない態度を取ってきた相手)は、至極順当な"人選"である。
 風変わりな風が吹き始めるのは、二・三句にまたがる「初瀬の山おろしよ」から・・・「初瀬(現在の読みは"はせ"/当時は"はつせ")」は、霊験あらたかなる「長谷寺観音様」がいらっしゃる場所であるから、「れども」のお題には妥当なる"神選"であろうし、日本の神様はユダヤ教やキリスト教のように「神の名をみだりに口にするべからず!("Oh my God" is a blasphemy!)」などと禁じたりはしないから、「観音、逢はせたまへ!」(どうか観音様、あの女性とうまく~させてくださいませ!)と、人に直訴するかの如く、神に訴えかけるのもアリであろう・・・が、この歌は、観音そのものには語りかけていない:彼の呼び掛けの対象は「初瀬の山おろし」である。初瀬山から吹き下ろす風に向かって言葉を投げているのである・・・こうなると完全に擬人法:人ならざる(かつ、神にもあらざる)存在の「山おろし」に向かって、届かぬものと百も承知で、詩人は、自身の内面の感情をぶつけているのだ。しかも間投助詞「よ」によって、この自己完結的な感情の激発言辞で、歌を途中でぶった切ってまで・・・この人、かなり、高ぶっているようである。
 何にそんなに激しているのか?そう思って四句を見ると、まず目に飛び込むのは「はげしかれ」・・・「激しい」のは、先ほど三句切れの形で歌を止めちゃったこの詩人自身の感情と、そんな高ぶった気持ちをぶつけてまで呼び掛けねば気が済まなかった(らしい・・・理由はまだわからないが・・・)その相手の「初瀬の山おろし」の"風の勢い"であろう。ここではその「初瀬の山から吹き下ろす風(の激しさ)」を「縁語」的に引き継ぐものとしてこの「はげしかれ」を見るのが妥当であろう;が、「はげしかれ」は"命令形"である:何に向かって「激しくなれ!」と、この詩人は命じているのか?・・・全ての答えは結句で出る:「(激しくなれ!)とは、らぬものを」・・・なるほど、それでこの人、荒れていたわけだ。以下、その絡繰りをば:
 「はげしかれ(Be wild!)」の命令文でこの詩人が望んでいたものに関しては(この文言だけ見れば)二様の解釈が可能:「あの人が私を、思い切り激しく愛してくれること」という欲張りなものと、「元々冷たかった(=かりける)人が、ますますひどく冷淡(=はげし)になってしまうこと」という好ましからざるもの・・・それを「らぬものを」とボヤいているのだから、ここでの正解は、当然、後者。前者(激しく愛して!)までは望んでもいなかったのに、とする解釈をしたのでは、「だから、そこそこ愛してくれる程度の御利益はあってもよいでしょうに」という(観音さまを上目遣いに見ながらの)未練がましい言辞となる。が、この直前に「初瀬の山おろしよ!」と、(観音ではなく)冷たく激しい山風に向かって、この詩人はぶっつけるように激しい言葉を投げ掛けて三句切れを演じていたことを、思い出してみるがよい・・・つまり、もう、観音になんて何も頼もうとしていないこの人なのである。激しい言葉をぶつける相手として、「温かい慈愛に満ちた御利益のある観音様」ではなく「冷たく激しい初瀬の山おろし」を選んだのは、それが「願い事」ではなく「恨み言」だからである。
 意中の人との恋愛を、願って、わなかったからといって、人は神を恨みはしない;自分に対する相手の態度が「憂し」から「激し」に悪化してしまったからこそ、詩人は激高して叫んだのだ:「おいおい、それはないだろう、山おろしさんよ!?まさか、アンタの風の激しさみたいに、あの人の態度が激しく冷たくなっちまうなんて、それはあんまりだよ・・・そんなこと、オレがいつアンタにったよ?!」
 「観音」を恨み言の相手に選ばなかったのは、罰当たりを避けるためと、「はげし」との縁語関係で歌を過激に盛り上げるには「初瀬の山おろし」こそ適任だったから、ということになろう(・・・「字余り・字足らず」を避けるため、などという算数的解釈は、つまらないので、却下)。
 作者源俊頼(1055-1129)は平安中期の風流人。大の音楽好きとして有名な堀河天皇(73代)の近習として、最初は篳篥(竹製の笛)の名手として鳴らしたが、後に和歌の道に進んで堀河歌壇の中心的存在となる。『俊頼髄脳』(1113)の筆者としても有名。これは、藤原忠実に依頼されて、彼の娘の歌学入門書として書いた説話調の本であり、体系的な歌論書ではない;が、著名な歌・歌人のエピソードを多く含む点がウケて、日本の古文入試のお題としては人気者の部類に入る。
 彼はまた、白河院(72代)の勅命により、第五の勅撰和歌集『金葉集』(1126)を編んだ人物としても文芸史に名を残す・・・が、あまり芳しい名とは、残念ながら、言えない。というのも、この勅撰集、はっきり言って"失敗作"とみなされているのである。完成した勅撰和歌集を晴れて朝廷にお披露目することを「奏覧」というが、この『金葉集』、実に、奏覧段階で二度までも"不合格"となっていて、三度目の正直でようやく採用されている。
 約650首・十巻構成というのも、勅撰和歌集としては類を見ない小柄なもの(これほどコンパクトな勅撰和歌集は、『金葉集』と、それに続く『詞花集』だけである)。所謂「八代集」と呼ばれる勅撰和歌集は、『古今集』以来伝統的に約50年(半世紀)周期で編まれたが、この『金葉集』は、直前の『後拾遺集』(1086)からは40年を隔てているものの、次なる『詞花集』(1151)との間は僅か25年しか離れていない・・・即ち、『金葉集』は失敗作とみなされたので、次回作『詞花集』で、手早くその修正を図ったのである:いずれも異例なまでに小柄なこれら両集の和歌数を合わせるとほぼ1000首、これで通例の勅撰和歌集のサイズになる;『金葉集』の第三奏本と『詞花集』の間に極めて多くの重複がある点から考えても、『金葉+詞花』は合わせて一つの勅撰集、との感が強いのである。もっとも、両集の傾向はかなり異なる:前作『金葉集』の失敗の二の舞を踏まぬように編まれた『詞花集』という性格を考えれば、これは当然のことと言えよう。
 『金葉集』は、あの最古の和歌集『万葉集』(759頃)を意識した命名であろうが、内容的には懐古調の逆の"前衛調"と言ってよい:当代歌人の作品や、田園趣味・俳諧趣味など、伝統にわれない新鮮味ある作風のものを多く含むほか、勅撰集としては初めて連歌を独立した部立てとして加えている。・・・この傾向を、『詞花集』の次の第七代勅撰和歌集『千載集』(1188)編者の藤原俊成は、「戯れの様」が激しい、として非難している・・・この非難は俊成一人のものではなかったのであろう・・・その結果として、異例の短い間隔で編まれた第六代勅撰集『詞花集』は、『金葉集』の当代重視・新奇な歌風に背を向けて、第四代『後拾遺集』時代の古歌を多く採り、当代歌人は「原則として一人一首」とするなど、前集の傾向への意識的逆行を図っている。
 そういう訳で、源俊頼という歌人に関しては、いわば当時に於ける「前衛歌手」のイメージがある。「革新的な手法を和歌に取り入れた人」として肯定的に評価する人もあれば、俊成のように「フザけた歌を多く入れて勅撰和歌集の伝統と風格をした人物」と見る人も大勢いた訳である・・・では、その俊成の息子として、彼が理想とした「幽玄」を引き継ぐ「有心」の詠みぶりを追い求めた藤原定家は、この源俊頼を、どう見ていたのか?・・・それは、『小倉百人一首』の中でも際立つ「実験的前衛性」を漂わせているこの「初瀬の山おろしよ」の歌を、定家がよしとしたかしなかったか、その態度を以て推し量ることができるであろう。
 現実にこうして第74番歌として採用されているからには、「よしとした」のであろう、とも思われる;が、実は、この『小倉百人一首』の姉妹版として(どちらが先か後かは不明だが)定家が作った『百人秀歌』の中には、この「初瀬の山おろしよ」の歌が、入っていないのである。代わりに入っているのは次の ― 「初瀬の山おろし」より遙かにおとなしい「古今調」の ― 歌である:
 山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(『金葉集』春・五〇)
 山に桜が咲き始めた頃から、遙か雲間に、滝から流れ落ちる白糸が見える
 ・・・山の斜面を彩る桜を、滝から流れ落ちる白糸に見立てるという趣向は、「古今集」以来の伝統とも言えるオーソドックスなもので、どう転んでも「前衛的」でもなければ「革新的」ですらない。「"前衛歌手・源俊頼"がうたう"正調クラシック音楽"」みたいなこの作品を定家が選んだのは、俊頼の前衛性に対する(父俊成を初めとする)批判の声に同調してのことであろう。
 しかしその一方で、この第74番歌「初瀬の山おろしよ」をも、俊頼という歌人を語るに相応しい代表的一作として、定家は確かに選んでいるのである・・・この目利きはさすがであるが、ここで一つの興味深い疑問が生じることになる ― 『百人一首』と『百人秀歌』と、定家はどちらを最初に作ったのであろうか、という疑問である。、より判り易く言い直そう:『百人一首』と『百人秀歌』の、どちらが最終決定版なのか、ということである。
 もし『百人一首』が決定版なのだとしたら、最初は「雲居に見ゆる滝の白糸」を選んだものの、それでは物足りなくなって、「初瀬の山おろしよ」に見られる源俊頼の革新性を、定家は積極的に認めて繰り上げ入選させたことになる。
 もし『百人秀歌』が決定版なのだとしたら、「初瀬の山おろしよ」の革新性は認めながらも、その前衛性への世間の批判を考慮して、定家は敢えて、おとなしい古今調の「雲居に見ゆる滝の白糸」への差し替えを行なったことになる。
 いずれにせよ、定家自身は、「初瀬の山おろしよ」が、それなり以上に気になっていたことは確かなのである・・・が、その革新性をよしとして採用するか、その前衛性を嫌って不採用にするかは、最後の最後まで迷っていたのだ、ということになる。
 『百人秀歌』は、収載された和歌の幾つかが、『百人一首』よりも古い形のものとなっているために、<『百人秀歌』が原形、『百人一首』が決定版>という見方をする人もあれば、『百人一首』の最終二首(99の後鳥羽院・100の順徳院)の歌が『百人秀歌』には含まれていないこと ― 代わりに「一条院皇后宮(藤原定子)」権中納言国信源国信)」権中納言長方藤原長方)」の三首が入って、実際には"101人1首"となっている ― から、倒幕運動の失敗で失脚した彼ら二人の政治的立場を考慮してそれらが『百人一首』から外された修正版が『百人秀歌』(即ち、<『百人一首』が原形、『百人秀歌』が決定版>)と見る考え方もある。実際のところ、どちらが先か後か、この論争には決着が付いていないのであるが、両集の間で共通して採用されている98人の歌人の歌のうち、両集の収録歌が完全に異なる歌人は、この源俊頼ただ一人、という事実は、極めて興味深い。これもまた、この俊頼の(派生的な言い方をすれば、彼が編んだ第五の勅撰集『金葉和歌集』の)特異性を、象徴的に表わす事実であると言えよう。
 文芸的に興味ある事実とは言えないが、彼の最終的な官位は、1105年に到達した従四位上(木工頭)止まり。『金葉集』(1126)の編者としての功績も、俊頼の官途には何ら寄与することはなかった。「歌徳説話」が意味を持つのは「良い歌を詠むことで貴人の目に止まることが、そのまま自身の栄誉・幸福に直結する」社会階層に属する人々(歌一つで貴人に注目されてその妻や召使いとして取り立ててもらいたがっていた人々)に対してのみであって、朝廷の官位が歌才によって得られるものでないのは当然としても、正二位(大納言)にまで達した父の経信(第71番歌作者)の息子としては、甚だ冷遇されていた感が否めない・・・もとより奇妙な風の吹き荒れる政界同様、歌壇にもまた流派ごとの鍔迫り合いという「コップの中の嵐」が渦巻いていたのをそこに感じれば、文芸史的興味も些かは沸いてくる話ではある。
 京都の貴族社会も既に飽和点に達し、政治・経済・軍事のダイナミズムは京都を離れて地方への流動を始めていた。『金葉集』の大きな特徴を成す「田園趣味」はそうした「地方の時代」の予兆を感じさせるし、最大の特徴と言える「連歌の収載」にも、「京都→地方」・「雲の上→下々」という和歌文芸の拡散・大衆化傾向が見て取れる。
 気の利いた上の句り出すことぐらい、どんな無学・無才の日本人にもいともたやすく出来ることである ― 「交通標語」めいた「川柳」以下の「俳句めいたもの」の氾濫を見るがよい・・・日本語に於ける"五・七・五"はまさに魔法のフォーマットなのである ― が、短歌を秀逸に結実させるための"七・七"を下に付けることは、とてつもなく難しい。竜頭蛇尾に終わってしまい、「腰折れ歌」の謗りを受けるぐらいなら、最初から上句だけで止めてしまうか、下句を付ける役は他人に任せてしまうかした方が、いっそ気が利いているであろう・・・そうして揃った上・下が、綺麗に決まればそれもよし、出来損ないの福笑いの顔みたいに滑稽な目鼻立ちのブタ歌の嘶きいてしまえば、満座に響く酔狂な笑い声のどよめきもまた、風変わりな面白味(=俳諧趣味)があって一興であろう:そうして生まれた双方向性多人数参加型御座敷芸が「俳諧連歌(・・・これが後に五七五だけになったものが俳諧・・・そして俳句)」なのである。
 コンピュータ端末のこっち側から、自分自身も参加している"つもり"になって、「インタラクティブな祭り」に打ち興じる連中が踊る、インターネット上の乱痴気騒ぎと、この「俳諧連歌」、よく似たところがあるとは思われないか?・・・崩れ行く時代の中で、大衆に「文化的道具」が与えられると、こうした無責任大規模踊りも「えぇじゃないか!」ということに、なるのである、いつの世も。
 一人の歌人が、自らの芸術的魂の全てを傾けて、一首の上・下を、責任と情熱をもって完結させる・・・そうした「真面目な和歌の伝統」を、最初から踏まえる素養も気持ちもない「下々の者どもの戯れ」の横行を、苦々しく思う気持ちがあったからこそ、後に藤原俊成はこの『金葉集』を非難したのである・・・時代的には、そろそろ誰かがどこかでこの「和歌の大衆化」とそれに伴う卑俗化という現実に、正面から向き合って挨拶しておかねばならなかったのだから、それを真面目にやろうとした編者の源俊頼は、依怙地真面目な歌壇のセンセ方の集中砲火を浴びる役柄を一身に背負ってしまった感があり、いわば貧乏くじを引かされた格好、と言えなくもない。
 だが、彼がそうして一旦「たがが外れて崩れた当代歌事情」へと勅撰和歌集のを切ったお陰で、その反動を利用して「古き良き古今集の伝統」へと立ち返ることを目指す『千載集』・『新古今集』(この流れで言うならば『詞花集』も)が生まれたのだ、と考えれば、源俊頼の演じた役割は、「新古今への景気付け」としても小さくはないし、「平安の世+和歌世界の揺らぎ」という現実の生き証人としての『金葉集』の立ち位置も(少なくとも『詞花集』よりは)文芸史的に重いのである。

一首 前へ←  『小倉百人一首』[解題]  →一首 後へ
・・・かるた取り名人目指すなら、こちら→
★この解題を自分の「Twitter(ツィッター)」で引き合いに出す→

==========