百一077解題)瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
『詞花集』恋上・二二九(崇徳院:すとくゐん)(男性)

一首 前へ←  『小倉百人一首』[解題]  →一首 後へ
・・・かるた取り名人目指すなら、こちら→
★この解題を自分の「Twitter(ツィッター)」で引き合いに出す→

==========

解題

 「瀬」とは浅瀬、即ち「水の流れの浅い部分」。この水の流れの元は「滝」ですから、そこから流れ込む「滝川」の勢いは、浅瀬のあたりではいよいよもって激しい・・・この激しさが象徴するのは「恋情」です。
 「A+を+B+み」は原因・理由を表わす定型句で、「AがBなので」の意味になります。「瀬を早み=浅瀬の水流が速いので」、この「滝川」の水は、途中で邪魔をする(=く)「岩」に当たって、一時的には分断される(=分れる)憂き目っても、やがては下流で合流するでしょう(=末に合はむ)。
 そんな清冽にして強烈な滝川の水流にも似た激しい恋情を抱えつつ、逢瀬に伴う障害で一度は引き裂かれたとしても、最後には必ずや思いを遂げて「逢はむ=愛する人と一緒になりたい」というこの恋歌の底には、目立たぬ形で「序詞」が流れています:初句・二句・三句の「瀬を早み岩にせかるる滝川の」全体が、四句「われても=分れても」を導く構造になっているのです・・・が、この上の句全体を流れる滝川の奔流はあまりに強く歌の全イメージを覆い尽くしているので、これを後続の主意部「たとえ一時的に別れても、最後には二人一緒になりたい」を呼び出すための単なる誘い水として片付けてしまうことは到底できないし、これを「序詞」と意識しない人さえ多いことでしょう。藤原定家が「序詞の理想型」と考えていた(であろう)「叙景パートとして独立し得るほどの重みを持った、イメージ訴求力の強い序詞」の典型例といえる短歌です。
 この歌の作者は崇徳天皇(75代)。鳥羽天皇(74代)の第一皇子ですが、この父は息子をんじていたようです。伝説を信じるならば、崇徳天皇の生母(「待賢門院」こと中宮璋子)は、鳥羽天皇にぐ前にはその先々代である白河法皇(72代)の御寵愛を受けており、鳥羽天皇はその先々代(つまり、実のお爺さん)の「お下がり」として、既にお腹の中にいた「落とし種」の崇徳天皇もろとも、この中宮璋子をもらい受けた形だったそうです(『古事談』による)。この伝説が真実か否かはさておくとして、鳥羽天皇が後々あからさまに崇徳天皇と待賢門院んじることになることだけは、れっきとした史実です。
 この時代は所謂「院政」の世で、政治を動かす実権を握っていたのは「天皇」ではなく「"元"天皇」の「上皇」(出家している場合は「法皇」)でした。「上皇・法皇」の住居のことを「院」と呼んだので、「院」が動かす政治ということで「院政」という訳です。天皇は即位しても名ばかりで、我が子に譲位して"元"天皇になってから世の中を動かす、という、何ともややこしい仕組み。元はと言えば、「幼い天皇を立て、その外祖父として実権を握る、藤原摂関家のる政治」への対抗策として、「幼い天皇を立て、その父として実権を握る、元天皇のる政治」として生まれたものでした。どっちもどっちですが、摂関政治よりも院政の方がタチが悪いことは政治理論上明白です:悪政を行なった"政治家"は、その悪政を理由に排除することが可能ですが、「天照大神末裔にして天から下れりし現人神末裔としての"天皇"・・・転じて、"上皇・法皇"」は、たとえどんな悪政を行なおうとも制度的に排除は不可能 ― 「自然に死ぬのを待つ」か「叛逆してこれを廃す」以外、悪政を断つ道がないのですから・・・「院政」の悪弊が極限に達した時、「摂関政治」時代にはあり得なかった「元天皇を排除するための戦争(あるいは元天皇が現天皇を廃して新天皇を立てるための戦争)」という「天皇 vs. 元天皇の戦争」は、構造的必然だったのです。
 崇徳は、やがて、その「平安天皇間戦争」の最初の犠牲者となる運命の帝だったのでした。
 先述の通り、崇徳は(やはり先々代白河法皇の子ということでしょうか)鳥羽天皇には愛されませんでしたが、白河法皇は崇徳を可愛がり、彼が5歳の時に鳥羽天皇(21歳)に譲位させます。その白河法皇が死去すると、今度は次代の元天皇が上皇なり法皇なりとなって実権を握り横暴を通すことが出来る訳で、このあたり、現代日本の所謂"運動部"の仕組みとよーく似てますね:「一年生・二年生のうちはひたすら奴隷如くこき使われ、踏みつけにされてもじーっと我慢してて、その代わり、三年生や四年生になったら、今まで虐げられてた分をぜーんぶ下の学年のヤツらにぶっつけてモト取ったるわッ!」って、あの悪しきジャパネスク・トラディショナル・トラジディーの"ザ・うんどぉぶ・センチメント"そのもの・・・自覚的反省が見られない駄目な組織の悪しき体質は、いつまでたっても変わらない:自分が被害者として嫌な思いをしたのなら、何で自ら進んで新たな加害者になりたがったりするのか?・・・そういうこと考える頭が付いてないのか?・・・無意味に有害なことしたり耐えたりすること自体で何か特別な力が生じるとでも思ってるオカルト主義者の集団がダメニホンジンの組織なのか?・・・ただただひたすられるばかりです・・・いまだにそういうことやってる多くのニッポンジンの面々 ― 歴史に学ぶ知性があるなら、自ら改革者として立ち、過去からの禍根を断つ方がかっこいいとは思いません?ニホンの運動部だのその他諸々の何ーんにもモノ考えずに昔っからの"でんとー"とやらを引きずってるだけのダメ集団のしてることなんて、ホント、百害あって一利ナシなんだから。諸外国の軍隊によく見られる「新兵をまず"人間以下のドン底状態"に叩き落として"ナニくそーッ!"とい上がる気力と根性を無理矢理き立てて、従来の弱い自分の精神・肉体の限界を超越させる」っていうあの方法論的バネ圧縮行為とはまるで訳が違う非建設的な報復の繰り返しに過ぎないんだから。ただひたすら踏みつけにする側だけが踏みつけて、踏んづけられた側はそれを恨みに思って、その恨み次代にやり返して・・・こういう不幸の無限連鎖は、破綻するまで続きます。破綻しておしまいになれば、それがたぶん世の中にとっては幸福;ただ、その破綻時点でこの連鎖の上層部に居た人達は、「自分は不幸な被害者」と感じるでしょうけどね・・・「院政」というこの腐った中古日本型システムの破綻は、白河法皇の死後あたりから始まります:中古の終わり~中世の始まりが、やって来るんです。まぁ、そのこと自体は悪いことじゃないんですが、犠牲になった人々 ― ここでは崇徳上皇 ― は、当然、恨み骨髄でしょうね・・・。
 白河法皇の死後は、次代の堀河天皇(73代)が既に死んでいたため、「上皇」として院政を敷いたのは"元"鳥羽天皇でした。ここから、鳥羽院、自分のやりたいように動き始めます。まずは、「先々代白河院からのお下がり女房」待賢門院にまつわる人々(当然、崇徳も、です)を冷遇して、自分が溺愛した藤原得子サンという女性(通称「美福門院」)の人脈へと政治的シフトを始めます。彼女が皇子を生むと、僅か2歳で近衛天皇(75代)として即位させます(1142)。当然、崇徳天皇は"元"天皇にされちゃいました:時に崇徳は24歳、天皇在位19年・・・とはいえ、5歳で即位してのこのキャリアですから、"政界のベテラン"とは言えません。が、新たに即位した近衛帝は、形の上では崇徳中宮聖子の養子となっていたので、その父たる崇徳は、自分が「院政」を敷けるのでは、と期待していました・・・が、長年白河法皇の下で我慢していた鳥羽上皇(この時点では既に出家して鳥羽法皇)が、そう易々と自分の院政の機会を逃す訳がありません:即位した時には何故か新帝は崇徳の「弟」扱い(「子」ではない!)となっていたため、「父」として院政を敷く大義名分がなくなった哀れな単なる「"元"天皇」の崇徳押し退けて、鳥羽法皇による院政が始まってしまいました。・・・まぁ、考えてみれば、「帝の"父"なら院政有資格者/帝の"弟"と書いてあるから院政は行なえない」なんてただの名目上のインチキ条項、平然と通用しちゃうのがなんとも不思議なジャパネスク、って感じではありますが、ニッポンってそういう国なんだから、どうにもしょうがありません・・・。
 崇徳は、不満をらせます。その不満を中和しようと、(崇徳の母の待賢門院押し退ける形で鳥羽法皇の寵妃となった)美福門院は、崇徳の長男の重仁親王を自らの養子として迎え入れます。仮に新帝の近衛が跡継ぎなしで終わった場合、崇徳の血筋が皇位継承者となる可能性を残した訳です。これ自体は平安時代の皇族間ではよくある政治上の取引ですが、悪いことに、この美福門院の養子にもう一人、崇徳の同母弟(雅仁親王・・・後の"後白河天皇"その人)の息子の守仁親王という人がおり、この人もまた皇位継承候補たり得る人だったのです(しかも、"おしめをしてた当時から"美福門院が手塩に掛けて育てた実子同然の可愛い皇子・・・)。そうして最悪なことには、実際、病気がちだった近衛天皇が僅か17歳で跡継ぎもないままに逝去してしまったのでした・・・この絵に描いたような跡目相続争いの火種は、案の定、延々燃え広がってやがては平安の世そのものを焼き尽くす大火事へと延焼して行きます・・・最初の火の手は「保元の乱」(1156)でした。
 舞台はまず、近衛天皇の崩御後の、新帝を誰にするかの話し合いの場面。とはいえ、これは崇徳んじた鳥羽法皇の流れを引く美福門院側の会議ですから、結論は既に決まっています:先に紹介した候補者二人 ― 重仁親王崇徳実子)と守仁親王崇徳の弟の実子で、美福門院の大のお気に入り) ― のうち、崇徳上皇につながる前者(重仁親王)は論外なので、当然守仁親王を新帝に据えることになった訳ですが、問題は、その守仁親王の父親で、崇徳の弟、即ち、皇位継承権を持っていた29歳の「雅仁親王」の存在でした。父であるこの人を飛び越えて、息子の守仁親王が先に天皇として即位するのは具合が悪かろう(なんたって彼ら、ニッポンジンですから、ヘンなところで杓子定規律儀)ということで、「守仁親王を即位させるための形式的なワンポイント天皇」として、次代天皇として立太子することもないままに、この雅仁親王が第77代天皇として即位しました:これが「後白河天皇」だったのです。時に1155年。
 こうして数奇な巡り合わせから天皇位が転がり込んできた後白河でしたが、それまでの青春時代は、まさか自分が帝位にがあるまいという気楽な立場を謳歌して、変種の和歌である「今様」に打ち込むこと半端じゃなくって、後日その熱中ぶりが『梁塵秘抄』(1180頃)という今様歌の集大成歌集として文芸的に結実します。・・・が、政治的観点から言えば、この後白河の役回りは「平安の世の幕引き役」。武家である平清盛、やがては木曽義仲九郎判官義経、そして源頼朝と、大河ドラマでお馴染みの面々の活躍の舞台の裏表で、必ず何かしらいていたのがこの後白河なのでした。
 天皇を"使いす"のは、中古の日本の歴史のお家芸で、この後白河も完全に使い捨てにされるの天皇でしかありませんでした。鳥羽法皇/美福門院側としても、崇徳上皇側としても、こんな"小物"は最初から眼中にもなかったでしょうし、幾多の歴史書にも、自身の回想録からも、「風流にうつつを抜かすだけで、国を治める人物に非ず」の色彩が濃厚なのが後白河だったのです。が、実際の彼は、ただ使い捨てにされることを頑迷に拒絶し、自分が使いされるよりむしろ平安の世のほうを叩きす道を選んだのでした。後白河が天皇にならずとも、既に疲弊していた平安の世はいずれ倒れたでしょうが、この男を表舞台に担ぎ出した結果、公家から武家への流れが大幅に加速したのは間違いないところで、いわば彼は日本に"中世"をもたらすためにわされた大いなる歴史の手先、「破滅の使者」だったのです。
 ノーマークの小人物が、歴史の表舞台に引っ張り上げられる形でひとたび権力の座にくと、往々にしてとんでもないことが起こるのが歴史のおかしなところです。端的に言えば、本来自分が居るべき場所でもない所に身を置かれると、「こんな場違いなところで、自分は何をすべきか?」の自問への自答が「この場を自分の居るべき場所に変えてしまえ」になるという単純な図式が、この種の"他者の上に立つべき非ざる名ばかりの"の共通の行動原理なのです。
 比較的新しい類例を挙げれば、ロシア革命後、偉大なる建国の父レーニンを失った後のソビエト共産党指導者達が、自他共に次代指導者のと認めていた大物レオン・トロツキーを排して、誰一人として指導者のとは思いもしなかった小物のヨーゼフ・スターリンを担ぎ出した例も、全く同様。共産党指導者達がトロツキーを敢えて新指導者に選ばなかったのは、レーニンさえぐほどの巨大なカリスマ性を持つこの男に権力を与えたら、かつてのフランス革命が結局ナポレオンというカリスマ指導者の独裁帝国に終わったのと同様、ソビエト社会主義人民共和国がトロツキー王国に化けてしまうのではないかと恐れたからでした。そうならないためには、最も有能な男を排し、最も無能な男を名ばかりの国家指導者に据えた上で、実際の政治は自分達が陰から集団指導体制で動かせばよい、という思惑でした・・・が、実際そうして無能なるスターリンに政権の座を与えた結果、この無能男は、自らに与えられた職能の全てを、自らが信ずる唯一の職務たる「自分の居場所を作ること」にのみ注ぎ出します:即ち、「自分の権力を危うくする全ての可能性を排除する」に出たのです・・・わかり易い話が、「自分より能力があり、自分に成り代わり得る潜在的な敵を、政治的・生物学的に、抹殺する」ことに血道を上げたのです・・・そして「無能者スターリンにも劣るほどの無能者はソビエト指導部に存在しない」という現実の中で、「スターリン以上に有能な人材達の大量抹殺」は、必然的に「ソビエト連邦に有能なる人材、なし」の状況を生んでしまいます。国内の敵を、政治の世界はもとより、軍部からも悉く葬り去った後で勃発した第二次世界大戦では、ソビエトに歴戦の名将は皆無だったが故に、敵であるナチスドイツは緒戦を有利に戦うことができました。首都レニングラードまで攻め入って来たドイツ軍の猛攻に、この無能なる国家元首は雲隠れを決め込みました(後白河もそっくり同じ行動を幾度も繰り返しています)・・・結局、ソビエトが盛り返すことが出来たのは、市民の果敢な抵抗と、ロシアの冬の厳しさ(あのナポレオンをも敗退せしめた"冬将軍")のお陰・・・。
 こういう事例は、何も国家だけに限りません。人間の集団は、非ざる者に託されると、その小物に合わせて必ず小振りな姿へと無惨に縮小・堕落させられてしまいます。この原理に例外はありません ― 人間は自分自身が良いと思う方向へと外界を変えて行く本能を持った生き物であり、その「良い」の視線が「自分を含めた全世界」に向けられる場合は「名君」がその世界をより良い方向へと改善し発展させますが、「自分にとって住みよい世界」こそが「良い」と感じるような愚劣なは必ずや「暴君・迷君」となって世界そのものを堕落と崩壊へと導くのです。なればこそ、無能な者を、人の上に置いてはならないのです。・・・以下、後白河が、どのような形で平安の世を破壊して行ったかを概観してみましょうか。
 1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御します・・・父(もしかしたら名ばかりかもしれませんが)の死に際に、子(名ばかりとの噂でしたが)の崇徳上皇が末期の別れをするのは当然のしきたりです・・・が、後白河はこの父子の死別をわざと許可しませんでした。鳥羽法皇の亡骸が眠る京都の町に、これ見よがしに、ものものしい武力警備体制を敷き、戦乱を覚悟せぬ限り崇徳上皇が絶対に踏み込むことが出来ぬような緊張状態を、意識的に作り出して見せたのです。
 後白河は更に、鳥羽法皇の臨終後の"初七日"の法要を、子である崇徳上皇抜きでそそくさと済ませてしまうことで、崇徳を思いっきり侮辱・挑発し、対決姿勢をより一層露わにします。
 後白河がこうした暴挙に出たのは、鳥羽法皇が生前から崇徳側の攻勢を警戒して後白河の周囲に有力武士団を結集させ、武力衝突に対する万全の備えを期していたからこそです。つまり、故鳥羽法皇勢力たる美福門院側の「虎の威を借る狐」の形で、対立する崇徳院側の横っ面に往復ビンタを喰らわして、「さぁ、悔しかったら武力で俺を倒しに来るがよい!」とばかりに喧嘩を売った格好です。・・・もっとも、この喧嘩のシナリオを書いたのは後白河自身ではなくて、彼の側近の信西でした。この時点での後白河は、謀略渦巻く平安末政界の舞台にいきなり引っ張り上げられて戸惑っている「名ばかりの主役俳優」に過ぎず、鳥羽院時代から政治の中枢に身を置いていた信西が、本命である二条天皇の即位前の大掃除として、妻朝子乳母となって育てた男をワンポイント天皇として担ぎ上げ、崇徳にぶつける"噛ませ犬"として使おうとしたのが後白河天皇だったのです(・・・後白河の思わぬしぶとさが、後にこのシナリオを狂わせるのですが・・・)。
 7月10日、挑発に乗った崇徳上皇は、貴族勢力では藤原頼長、武家勢力では平忠正・平家弘・源為義らと共に、武力蜂起を期して白河殿に結集します・・・が、この動きを察知した後白河側の武士団(平清盛源義朝源義康)が、翌7月11日の夜陰に乗じ白河殿に奇襲攻撃を仕掛け、崇徳側は総崩れとなります。藤原頼長はその場で落命、平忠正・平家弘・源為義らは捕縛された末に三百数十年ぶりに復活した残虐な斬殺刑で命を奪われ、逃げ延びた崇徳上皇は剃髪した上で許しをうべく後白河天皇の下に出頭しますが、許されることなく讃岐国への流刑となりました。恨みを残して彼の地で死んだ崇徳は、京の都に災いをなす怨霊となった・・・という例の調子の伝説が残ります。実に(筋の通らぬ狂った仕組みといい、無茶な話でも鵜呑みにする大衆といい)、怨霊出現の土壌の豊かな国です、この日本というのは。
 この事件以降、陰謀と暴力の美味なる効用を知った後白河の謀略に次ぐ謀略が京都の町を駆け巡り、武力による血腥い決着が、政治に代わってゲームの切り札となり、台頭する武家勢力の中でまず平清盛と平家一門が、次いでその暴虐への不満を受けて木曽の山奥から京都に攻め入った源義仲が、その京都での失政を駆逐すべく源頼朝の意を受けて遣わされた源義経が、次々と歴史の表舞台に登場します。そうして彼らはみな悉く後白河の裏工作の餌食となって、歴史の彼方へと消えて行くのです・・・消え去らなかったのは源頼朝だけ。そうして彼が鎌倉幕府を開くことになる訳ですが、言ってみれば、京都の公家勢力を徹底的に疲弊させぶち壊す形で武家政権の露払いをしたのが、この後白河天皇(上皇・法皇)だった訳です。
 「保元の乱」によって崇徳勢力を葬り去った後は、信西主導による政治改革(荘園や寺社の整理・統制等)が断行されます。その強引さに対する不満がまた、新たな戦乱の火種となり、発火したのが「平治の乱」(1159)です。
 1158年、かねての予定通り、後白河天皇は、在位3年にして、その実子(ながら、故鳥羽天皇の寵妃美福門院の養子となって彼女の息子同然に育てられた)二条天皇(78代)に譲位します。この時点で彼は後白河上皇となり、彼の「院政」が始まります。しかし、「院」となったからといっても、ただそれだけで政治の実権を握れるわけではなく、経済基盤と政治的に強力な後ろ盾に乏しければ、何の意味もありません。そこで後白河は、先の「保元の乱」で敗死した藤原頼長からの没収領地を自らの経済基盤とし、政治的には、美福門院+二条天皇側との結び付きの深い側近の信西に代わる、自らの子飼いの有力政治家の育成を急ぎます。そうした後白河思惑の中で、急速に台頭してきたのが藤原信頼です。やがて、後白河院の引き立てによって急激な出世を遂げた信頼と、古参信西との間に、深刻な対立が生じるのは必然のことでした。かねてから強引な改革路線を推進してきた信西に不満を抱く勢力を味方に付けて、後白河院勢力内から信西を排除すると共に、信西とつながる美福門院側(二条天皇親政派)の勢力切り崩しをも同時に狙って、信頼は、源義朝の軍勢と結んで宮中に攻め入り、皇居を火の海にし、後白河院ともども二条天皇を軟禁状態に置きました:もっとも、後白河院はこのクーデターのターゲットというより影の首謀者(信頼は院の意を受けてこのに出た)という説もあります・・・この人、本当に、得体が知れないのです。この戦乱の中で信西は死に、二条天皇・後白河上皇双方を確保した藤原信頼源義朝の軍事クーデターは、成功するかに見えました・・・が、乱の発生時には紀伊国に出向いていた平清盛が、異変を知って宮中に取って返し、二条天皇を奪取して、情勢は急変します。・・・この際、後白河上皇は"ノーマーク"、清盛が大事と見て奪い返そうとしたのはあくまでも二条帝だったのです(後白河は混乱の最中に"宮中を自力で脱出"して仁和寺に逃げ込みます)。その後、平家一門の逆襲によって義朝の軍勢は敗走、頼朝義経らその後の源氏のキープレイヤー達も、各地へ流浪の身となります。藤原信頼も、平清盛の前に引っ立てられて、弁明も空しく処刑されます。
 この「平治の乱」は、後白河院側(院自身が首謀者であるか否かはさておき)が、当時の政界最大の実力者である信西を廃し、二条天皇親政(美福門院派)を圧倒することを目指して先制攻撃を仕掛けたものでした;が、終わってみれば、信西・藤原信頼という政界の二大キープレイヤーは倒れ、以後二条親政派/後白河院政派双方ともに疲弊して、両派の争いも小康状態となります。結局、この乱の勝利者は、平清盛と平家一門でした。公家の二大勢力が勢いを失う中、ひとり勢力を伸ばした武家の清盛一族は、以後、あの『平家物語』で語られるような「平家に非ずんば人に非ず」といわんばかりの一門の横暴で、京都の町を荒廃させ、一時は福原(現 神戸)に遷都するなどして、平安の世を一気に崩壊させます。やがてその平家への不満から、全国の反平氏勢力を糾合して勢いを盛り返した源氏が、平家一門を壇ノ浦に滅亡させるとともに、400年に及んだ京都の公家の歴史にも終止符を打ち、鎌倉に幕府を打ち立てて(1192)、歴史は、武家政権の時代へと、怒濤如く流れて行ったのです。
 "後白河"という岩にせかれし公家の世の流れは、分れて後にはもう再び元通りに戻ることは、ありませんでした・・・遙かに時の流れを下った明治時代の「王政復古の大号令」(1868年/慶應3年1月3日)までは。・・・実に面白いもので、この時に新生日本国の統治者となった「明治天皇」(122代)は、即位に際して讃岐に使者を送り、この遠流の地の「白峯陵」に「白峯大権現」としてられていた「崇徳天皇の神霊」を安らかに京都へ帰り参らせんがために、「白峯神宮」を京都の上京区飛鳥井家跡地に創建しています。この神社にはまた、怨みを残して死んだ天皇のりを畏れる気持ちから、天皇でありながら「淡路廃帝」と呼ばれて永らく皇統から弾き出されていた淳仁天皇(47代)も一緒にられています。「やまとうた」興隆の立役者紀貫之(866-872?)に「贈従二位」を出し抜けに贈ったこと(1904)などと並んで、明治維新の持つオカルト的復古主義の一側面を物語るエピソードですが、この神社が蹴鞠で有名な飛鳥井家跡地に建てられていることから「サッカーをはじめとする球技全般の守護神」にもなってしまった、というヘンテコなオチまでついているのもまた、なんとも言えずジャパネスク。・・・どこまで本気なのか、どこからがシャレなのか、その境界線が「きはぉくらーみぃ=際を暗み・・・よぉ見えへん」お話しどすぇ。そぉ言ぇば、落語にもまた「せぉーはゃーみぃー・・・早見瀬尾?早ぉ見せぇよォ?」を完全に茶化しで使ぅてはる「崇徳院」いふお噺し、ありますけど、あれ高座に掛けはる噺家はん、ちゃんと「白峯神宮」にお参りしてはるんやろォか?

一首 前へ←  『小倉百人一首』[解題]  →一首 後へ
・・・かるた取り名人目指すなら、こちら→
★この解題を自分の「Twitter(ツィッター)」で引き合いに出す→

==========