百一082解題)思ひわびさても生命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり

思ひわびさても生命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
『千載集』恋三・八一八(道因法師:だういんほふし)(男性)

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解題

 『千載和歌集』(1188)「恋」の部立てに入る歌であるが、「悲恋を嘆く歌」という枠組みに閉じめてしまうには惜しい歌である。
 「思ひぶ」とは「ひどく落胆し、気力をなくす」の意味。同じ意味は「ぶ」一語でも表わせるが、「わぶ」は多義語で、"心理"以外にも、「び住まい」に見られるような「(社会・経済的に)落ちぶれて暮らす/(俗世を離れて)質素に暮らす」という"行動"方向の語義もある。そこで、"これは心理寄りの語ですよ"という方向性を明示するために、敢えて「思ひ」を接頭語的に加えて「思ひぶ」としている訳である。古語にはこうした組成のものが極めて多く、これらを「思ふ」+「ぶ」の独立した二語と捉えることは、英語に於ける「wait and see:事態を静観する」を「待つ。そして、見る。」と分断解釈して誤読に陥るのと同様の愚挙を犯すことである。「動詞A連用形+動詞B」型の古語で迷ったら、「動詞A」を除去した「動詞B」の語義に、上述の"心理/行動"の如き多面性(のうちの一方向を動詞Aが示す特性)がないかを考えた上で、方向指示的接頭語としての「動詞A」だと見抜いたら、敢えて単独の「動詞B(のうちの動詞A寄りの語義)」として解釈・訳出すれば事無きを得るであろう。
 そうして「思ひび・・・ひどく悩み、苦しみ、落ち込んで、心理的にどん底に陥る」ことを(恋愛であれそれ以外であれ)経験すると、その最中には「もう駄目だ!こんな苦しい気持ちのままでは、自分は死んでしまうに違いない!」などと、前途を悲観してしまうものだ・・・が、現実には、大抵の懊悩もやがては過ぎ去り、気付けば自分は、まだ生きている:「さても生命はある」のである。
 だから「もう駄目!死ぬ!死ぬっ!死ぬっーッ!」などと弱音を吐くのは愚かなことで、苦悩に際しての取り乱し方がひどければひどいほど、生き残った後に、そんな窮状で吐き散らした弱音をブッ掛けてしまった周りの人々の前で、合わす顔がなくなるだけである・・・"Cowards die many times before their deaths. The valiant never taste of death but once."("Julius Caesar" II, ii, 32-37 by William Shakespeare)「臆病者臨終前に何度も死ぬが、勇者が死ぬのは一度きり。(シェイクスピア作"ジュリアス・シーザー"より)」
 その程度の悟りの境地に達するのに、文学の名作も哲学の心得も必要ない ― 幾度か「死ぬほどの目」にい、ケロリと生き延びて過去を振り返る経験を積めば、それだけで事足りる・・・「親友と思っていたのに、裏切られた」、「絶対受かる自信があったのに、落第した」、「もう三日も便秘で、いくらってフンバっても、出て来やしない」、「あんなに愛した人なのに、もう二度と逢えない」・・・不幸は、悲恋に限らない ― め尽くしたなら、味は染みこみ、心に残って、忘れない・・・それでも、終われば、生命はある・・・のであるから、別に、悲しくなっても、泣く必要はない。流した涙が、役にも立たず、後日の恥にもなると知れば、へたな落涙などせぬがよいのだ・・・と、そうは思っても、何故か「憂きに堪へぬは涙」なのである。辛いなーと思うと、無駄だろうが恥ずかしかろうが意味なかろうが、堪えきれずにぽろぽろこぼれるヘンなやつ、それが涙というものなのだ。
 これはそういう歌である・・・"恋歌"扱いでは、物足りまい?
 修辞についても多少付け加えておこうか。
 「うき=憂き=憂鬱」は「浮き」を介して「涙(が目に浮く)」につながる「縁語」となっている。
 「たへぬ」は「堪へぬ」であると共に「絶えぬ」にも結び付く。表記上は「ハ行(ヘ)/ヤ行(エ)」と異なるが、音感的には「掛詞」とみてよい。この「絶えぬ」が結句と結び付くと、「絶えぬは(絶えざるものは)涙なりけり=尽きることがないのは涙、だったねえ」の意味が浮かび上がり、第二・三句の「(さても)生命はある(ものを)」と響き合って、「さっきは"生命は尽きずにある"とか言ったけど、尽きることがないのは"涙"のほうだったねぇ」という隠れた意味をも耳打ちする、という凝った趣向である。
 結句「涙なりけり」もまた曲者。平安末~鎌倉初期の和歌にも後代の俳句にも乱発される"けり逃げ"で、"気付き・再確認"の助動詞「けり」を付けることで詠嘆効果を狙うもの・・・というだけではこの歌の解釈としては少々足りなくて、和歌慣れした人ならここで必ず気付くのが、「"涙"なりけり」ならぬ「"命"なりけり」を彷彿とさせつつ、両者をすり替える二重写し効果である。この「命なりけり」は便利な定型句で、「・・・なのは、やっぱ、生きていればこそ、ってことだよねぇ」として詠嘆的に結ぶもの。下手な歌詠みでも、この一句だけで何かしら気の利いたことを言っているような雰囲気が演出できてしまう(ので必然的に濫用されがちなのが困る)もので、例えば次の歌のような感じで使う:
 春ごとに花の盛りはありなめど見むことは命なりけり(『古今集』・春下・九七・よみ人しらず)
 春が来る、花は咲き、盛りを見逃せば残念な気持ちにもなるけれど、こうして今年もまたその花に会えたってことは、私の命がまだあったから、ということで、綺麗な盛りに出会って上げる感嘆の声も、散り行く花を見てつく溜め息も、どちらも私が、そして花が、ちゃんと生きているし、命あればこその感慨、なのだよなあ。
 ・・・歌のみがある人間なら誰しもが反射的に思い浮かべる"けり逃げ"の常套句がこの「命なりけり」であるが、この82番歌では第二句にある「生命」でこの常套句にカスらせてニアミスをかましつつ、結句の「涙なりけり」にヒットさせる、というオツな交わし技で決めている。
 もっともこのあたりは、「わかる人に(だけ)はわかる」(わからない人には効き目がない)隠し味である;先程の「堪え→"絶え"ざるものは(生命ならで)涙なりけり」同様、玄人らせるためだけに仕込まれた秘密の味である・・・が、そうした味の聞き分けが出来る者だけを相手に仕掛けるゲームとして演じられた技巧であるから、大方の読み手を置き去りにすることは、むしろ、詠み手としては本意に近かろう。この時代あたりになると、歌の世界にはそうした排他的高尚趣味の謎掛け性が色濃く漂っていたのである。・・・まぁ、丼の底の底まで汁の一滴も残らず平らげようとはせずとも、そこそこのドンブリ勘定の解釈だけでも、この作品は、人の感情の機微のツボをよく押さえてほろ苦いスパイスの効いた美味しい歌ではあるのだが。
 この歌の作者は道因法師(1090?-1182?)。生没年は不明朗だが、伝説を信じるならば90歳以上の長寿を生きた人、ということになる。出家した年は1172年だから、死のほぼ10年前ということになる。出家前の(80年以上名乗っていた)俗名藤原敦頼(最終官位は従五位上、とかなり低い)。相当高齢になってから歌の道に志した人らしいが、俊恵法師(第85番歌作者)主宰の「歌林苑」にも顔を出し、出家前後に多数の歌合せに精力的に参加していた記録が残るなど、歌の道で名を上げようとしていた志のほどがえる。そのあたりの事情もあってか、鴨長明の『無名抄』(1211頃)には、「住吉神社(現 住吉大社。和歌と水上交通の神様)に毎月毎月詣でては"秀歌を詠ませてください!"とり続けた」とある・・・まぁ、話半分で聞き流すにしても、崩壊する社会秩序の中で、「まめ(実務的)」なる正攻法での世俗的出世が見込めないとなると、幾多の「高級なる人々」がひしめき合う「文芸サロン」に食い込んで自らの名を上げることに血道を上げる人々が増えるもの、という(時代を超えた)事実を示す一事例としては、参考になる記事であろう。住吉詣で御利益あってか、『千載集』にはこの歌を含めて20首と、かなり多くの入集を果たしている。

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