百一083解題)世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
『千載集』雑中・一一五一(皇太后宮大夫俊成:こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)(男性)

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解題

 山奥へ分け入り、鹿の声を聞く・・・あの「伝説の猿丸大夫」に帰せられている(『古今集』では"よみ人しらず"の)名歌「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(第5番歌)を彷彿とさせる歌である。
 古今集の歌は「題詠」で、「秋の情趣」を感じさせる情景を空想の中で思い描いたものであるが、こちらの歌には ― これも元より「題詠」ではあるのだが ― より切迫した実感が伴っている。まず冒頭の「世の中よ」の「頓呼法:apostrophe」による初句切れが、「あぁ、世の中よ!お前は、何と住み辛い憂き世なのだ!」という非難と絶望の入り交じった悲鳴めいた響きで、この歌の「山奥」を、「俗世をんだ人が、遁世先として選ぶ場所」と感じさせる。
 その「遁世感」を決定付けるのが第三句「思ひ入る」である。これは「あれこれ悩んで自分の内面世界に没入する」の意味では単なる「深い苦悩」という心理語だが、この歌の「山奥」の脈絡を踏まえると、「悩んだ末に、人里離れた山の奥に分け入る」という行動語としての色彩をも帯びることになる。
 そうしたパースペクティブの上でめれば、第二句「道こそなけれ」もまた、単に物理的な「山奥へ分け入る時に、人の踏み慣らした道などない」というのと同時に、「俗世を嫌い、山奥に逃げ込んだとて、そうした遁世の中に、心の平安を得られる確かな"道"が開ける保証など、何もない・・・何もないが、さりとてこのまま俗世に留まってもいたくない」という、俗世と遁世との間で揺れ動くアンビバレントな(どっちつかずの不安定な)心理の揺らぎをも宿すことになる。
 そうして、結局、思い切って山奥に分け入って、この人が耳にすることになるのは、「鹿の声」。前掲の「奥山に・・・」を強く意識した描写であろうが、これは「女鹿を求めて男鹿が立てる寂しい恋慕の声」であり、「何かを求めてさまよう(しかし、得られず泣き続ける)」という、「満たされぬ"生"の苦悩」のメタファー隠喩)である。この人は、そうした苦悩に充ち満ちた人間の世を捨てようと、思い切って山奥に踏み込んだのに、そこにもやっぱり、苦悩の声は、種族を越えて、響くのだ。
 鹿も悲しい、我も悲しい、人里も山奥もみな辛い・・・結局、どこへ行けばいいのだろう?・・・どこへも行き場のない思いを、詩人は、詩歌に込めるしかなかった。
 詩人の名は藤原俊成(1114-1204)。歌道の大御所で、後白河院の院宣により『千載和歌集』(1188)を単独で撰進し、後白河院の皇女式子内親王の求めに応じて歌論書『古来風体抄』(二巻)を著し、『新古今和歌集』(1210年代)の「寄人」の一人(撰者ではない)でもあった。歴代勅撰和歌集入集数は452首を数え、その息子藤原定家(1162-1241)を初めとする「九条流」の優れた歌人達の歌の師匠として、「幽玄」を理想とする独自の歌風を打ち立てる・・・文芸用語に数理的解明は不可能かつ無益である:この第83番歌の情趣を以て「幽玄」の実感を体得すればそれで事足りよう
 藤原北家でも傍流長家流)に属する彼の「極官(=出世の上限)」は「権大納言("名目上の大納言"・正三位)」、現実の俊成は最終的に「皇太后宮大夫(正三位)」に到ったが、父(藤原俊忠権中納言まで進む)に10歳にして死別したこともあって、官途には非常に厳しいものがあった。父の死後直ちに葉室家の養子となり(顕広と名乗った)、地方の受領を転々とした後、再び御子左家に戻っているが、"俊成"を名乗ったのは1167年(54歳)、最高位の正三位に達した時のことである。貴族の時代は既に完全に行き詰まっており、硬直化した人事の枠組みの中での狭いパイの取り合いに於いては、世襲ばかりがモノを言い、俊成の歌道の名声を以てしてもこの有り様、文芸的実力が世俗的成功をもたらす世の中ではなかったのだ・・・古文によくある「歌徳説話」が美談めいて語るほどには、"芸は身を助ける"出世物語など、(貴人に目をかけられればそれ即ち幸福・成功、という女性や奉公人ならともかく)官界に於いては成立し難いのが現実だったのである。
 そうした実人生の苦悩から、この歌の底を流れる「出家・遁世への憧れ」は、現実の俊成にも根強かった。一説には、西行法師(1118-1190:俗名佐藤義清、元は鳥羽上皇の「北面の武士」)の出家に影響されたという。61歳にして出家した俊成は法名「釈阿」を名乗り、その後約30年の余生を保ち、1204年に享年91の大往生を遂げている。長寿の者が多かった藤原家の中でも、ここまで長生きした人はさすがに珍しい。が、年齢だけを話題にしては歌人釈阿も浮かばれまいから、最後はやはり歌に絡める形で、この"長寿の秘密"のエピソードを紹介して締めることにしよう。
<『平家物語』巻七・一五より:忠度都落ちのエピソード>
 栄耀栄華を誇った平家も、源氏の猛攻勢の前に敗戦に次ぐ敗戦を重ね、とうとう住み慣れた京の都を離れて、一門全員、西国に落ち延びることとなった。そんな中、俊成師事する歌人でもあった武将の一人、平忠度が、都落ちの途上で俊成の屋敷を訪れ、「いずれ勅撰和歌集が作られる際には、我が歌の一首なりとも収載していただければ、草葉の陰から師匠をお守りするつもりです」と言い残した・・・そうした背景を持つのが次の歌である:
 さざなみや滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
 かつて天智天皇が営んだ束の間の首都の「滋賀の都」は、今ではもう荒れ果ててかつての栄華ぶべくもない・・・けれど、山の桜だけは、今も昔も変わらず美しく咲いているものだなあ
 (「さざなみや」は「滋賀」にかかる「枕詞」)(「ながら」は「長等山」との「掛詞」)
 元々は藤原為業邸で催された歌合せでの「古里の花」の題詠であったが、結果的にはこの「滋賀の都」が、平清盛が一時遷都した「福原」や、平家一門の束の間栄華隠喩として響き、都落ちする忠度の気持ちを託す別れの歌として好個のものとなったのである。
 ・・・この歌を、俊成後日、約束通り『千載和歌集』に入れるのである:「よみ人しらず」として。
 時に、釈阿は70歳・・・その後20年の余命が、忠度の霊力の加護によるものか否かはともかくとして、この逸話は人心を大いに捉えたのであろう、室町時代の能楽者世阿弥(1363?-1443?)も、この話を元に能楽『忠度』を書き、「自作の歌が入選したのは嬉しい・・・が、"詠み人知らず"は無念である・・・これより先にもしまた入選することがあれば、我が名を明かしてもらいたいと思う」と、忠度の霊に語らせている。・・・俊成の息子定家が編んだ『新勅撰集』(1235)以降、彼の歌が入集した際には、きちんと「薩摩守忠度」のクレジットが入るようになった(・・・という実話を基に世阿弥の戯作は成立していた訳である)。

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