百一087解題)村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
『新古今集』秋下・四九一(寂蓮法師:じゃくれんほふし)(男性)

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解題

 「村雨」とは「通り雨」、一時的に降ってはさーっと引いて行く気紛れな秋~冬の風物詩である。その時雨置き土産のような雨露が、木々の葉っぱをまだ湿らせて蒸発もせずにいる周囲には、早くもさぁーっと霧が立ち上り、やがて葉っぱを、そして木々を、更には山の全景を、白いベールで覆ってゆく。
 時間と空間に寄せる視線の移り変わりを丹念に織り込んだ、細密な短歌である。その過程を図式化してみよう:
1)「村雨(が降る)」
・・・この記述で、この歌は、三つの時間を同時に表象している:
 1-A)通り雨が降る前の、晴れていた時間帯
 ・・・元々、この人は、外で(あるいは屋内でもよいが)何かを、していたのである・・・そこに時雨がいきなり「ざぁーっ」と来たので、人は、慌ててどこかに雨宿りする(あるいは、外の雨を、意識し始める)・・・
 1-B)通り雨が降りしきる間の、雨をやり過ごす時間帯
 ・・・この、人は、何も見ていない・・・雨をぼんやり見ようが、物思いにろうが、いずれにせよ外界の景色は、人の思念の対象外に霞んで、一時、存在しなくなる・・・
 1-C)通り雨が上がり、再び晴れる時間帯
 ・・・時雨がいよいよ小止みになり始めた頃から、人は、周囲の気配に意識の焦点を移し、雨上がりと同時に(時雨前にしていた通りの)活動を再開する。
2)「露もまだ干ぬの葉(を発見する)」
 ・・・ここで歌の焦点が、時間から空間に移る。最初は、細密である:先程の時雨で濡れた木々の葉の上に置いた小さな雨露に視点を置いている。
 ・・・「まだ干ぬ」とあることから、ここで読者側の思念は「空間」から再び「時間」へと引き戻される:先程の雨の降り止みから、ある程度の時間が経過していることを感じるからだ。晴れた途端に雨露が干上がることはあり得ないのだから、そこそこ以上の(しかしさほど長くはない)時間がその間に流れ、その、この人にも、周囲の世界にも、それなりの動きがあったことが示唆される(どんな動きかは書いていないし、また問題でもない)。
3)「(の葉に)霧立ちのぼる」
 ・・・ここで空間的焦点は、先程までの葉っぱから木々そのものへとズームアウトする:「の葉」に「霧立ちのぼる」の記述が加わることによって。
 ・・・既に第三句に於いて「葉」よりも先に「」が言われていた訳ではあるが、ここまでの意識の焦点はあくまで細密な「葉」に注がれており、大元の「(の木)」はその背景に消失していたである。そこへ第四句「霧立ちのぼる」が加わることで、視覚的焦点は背後の全景へとパンフォーカスで引きに入る。
 ・・・この時点で、読者は再確認するのである:この木々が「・杉などの建築用良材」であることを。建材としての伐採を目的に、整然と、そしてすっくと、真っ直ぐ天に向かってそびえ立つ、直線的な木々が、互い違いに地面に打ち込まれたのように、延々と立ち並ぶその木立の間の、縦長の狭い網目のような空間を、地面から空へ、此方彼方で、次第に薄い白色の絵の具で塗りすようにして、霧が立ち上り、あたりに立ちこめてゆく。
 ・・・立ちこめた霧があたり一面を包み込むまでには、まだしばらくの時間がかかるであろう・・・この詩は、しかし、その時間幅にまではもう関与しない:「やがてあたり一面は白いベールに包まれるだろう」という予言的余韻を残して、この詩は終わる。最後に、これが・・・
4)「秋の夕暮れ」
 ・・・という時間の額縁の中に描かれた言葉の絵画であったことを読者に示して、この豊かな時間と空間の広がりを内包した三十一文字の短歌は終わる。
 ここまで細密な詠み込みを可能にするほど条件の整った自然の情景が「実景」としてあったか否かは怪しいので、これは恐らく「題詠=眼前にない状況を想像の中で思い描いて作った歌」であろう。『新古今和歌集』(1210年代成立)の一特徴である「余情溢れる時間・空間スケッチ」のこの秀作の作者は寂蓮法師(1139?-1202)。同集6人の撰者のうちの一人であるが、残念ながらその完成を見ずに彼は没している。出家前の俗名は藤原定長。父親もまた出家して「俊海」を名乗った僧侶であるが、その兄があの藤原俊成(1114-1204)であった。その縁で、定長は10歳頃に俊成の養子となる。やがて俊成実子(定家(1162-1241)は次男)が生まれたことなどもあり、定長は三十代で出家して「寂蓮」となる。別に、世をんだ訳でもない。この時代、親(養父)の跡継ぎとしての出世の可能性が低くなると、人はしばしば、宗教界に活路を見出して"転身"したのであり、"出家"と言ってもさほど俗世離れした訳ではない。実際、俊成その人もまた、1176年(62歳)には出家して「釈阿」を名乗っており、この法名で以後約30年の余生を過ごしている(彼の享年は91歳!・・・息子の定家も80まで生きた・・・藤原氏には、当時としては大変な長生きが多いのだ)。
 この87番歌の最後は「秋の夕暮れ」の体言止めになっていて、これも典型的な「新古今調」だが、この「秋の夕暮れ」という文言は特に多用されており、同集の中だけで数えても実に17首もある。その中でも特に世間で有名な三つの歌が、所謂三夕の歌」。特にこれらが他を引き離す別格の秀歌、という訳ではなく、『新古今集』に三つ連番で並んでいる、という付帯状況も絡んで有名になったもの、という点を差し引いて考えねばならない(実際、歌としての完成度で言うなら、この87番歌の「秋の夕暮れ」だって相当なものだ)が、「寂蓮」・「定家」の義兄弟の話が出たついでとして、彼らの間に割って入る「西行」のものともども、最後にまとめて紹介しておこう:
所謂三夕」の歌=『新古今・秋上・連番361-362-363』>
その1(秋上・三六一)
 寂しさはその色としも なかりけり立つ山の秋の夕暮れ
 杉・といった建築用良材が真っ直ぐ整然と立ち並ぶ山には、色取り取りの紅葉絨毯が秋の深まりを感じさせる紅葉狩りのような風情もない・・・にもかかわらず、秋の夕暮れにそのの山をめているだけでも、こうしてしみじみと「もののあはれ」を感じるのだから、この季節の情趣は、木々の色に感じるものではなかったのだ・・・それは結局、心の色が見せる寂寥感だったのだ。
・・・同じく寂蓮法師の歌。この人は「スギ・ヒノキ」がよほど好きだったのか、それともこの第87番歌と同時に着想を得たものか?
その2(秋上・三六二)
 心なき身にもあはれは知られけり立つ沢の秋の夕暮れ
 俗世を捨てた法師という立場にある私の心にも、その哀感はおのずと感じられるなあ・・・がさぁーっと沢から飛び立つこの秋の夕暮れの景色は。
・・・"放浪の歌僧"西行法師の作。「心なき身」という文言は、この時代の"法師"にせるには少々わざとらしい:前述の通り、俗世で出世の見込がないから坊さんを名乗っただけの人が圧倒的に多かったのだから。そうして見ると、「法師だから、本来は感情に動かされてはいけないのだけれど・・・そんな私から見ても感動的だよ、この光景は」というのは実にしらじらしい戯れであって、この歌にはその意味で「品格がない」。ここが「おフザケ・パート」である以上、結局、「立つ沢」の叙景がし出す「もののあはれ」の一点に依拠する以外には、この歌が「真の秋の情趣を詠う歌」になる道はないのだが、この情景にさほどの哀感が伴う訳でもなく、とどのつまりは「哀感たっぷりだねぇ、この景色・・・おっとっと、いけない、私は僧侶、こんなことしみじみ言うべき身分じゃないのだったっけ」という面白味を狙った「俳諧趣味」の戯れ歌に過ぎず、これで「三夕の一つ!」とは聞いてれる・・・所詮、日本の文芸界の「名物・名品・名人」などというものは「"迷"物・品・人」でしかない例が多い、という一例に過ぎまい。一例、ということで言うならば、この歌の如きは「""より""」の代表格の「僧正遍昭」の次のような戯れ歌と、「坊主という身分をダシにして遊んでいる」という観点から見て、大同小異であることを確認されたい:
 名に愛でてをれるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな(『古今集』秋上・二二六)
 「女郎花」とは何とも艶っぽい名だなあ・・・そんな愛しい名を持って、枝も折れんばかりにたわわに咲く花を見ると、もはや俗界を捨てた身である私の心もくずおれて、思わずこの手に手折っては、愛してやりたい気分になる・・・おっと、「僧正遍昭、オミナエシの色香につ」などと、人にバラしてくれるなよ・・・。
その3(秋上・三六三)
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
 今、私は、平安時代の『源氏物語』の中で都落ちした光源氏が流れた先の、須磨の浜辺に立っている・・・が、どこを見渡してみても、作品中で「春・秋の花、紅葉の盛りなるよりも、ただそこはかとなう繁れる陰どもなまめかし」などと書かれたような風情ある景色は見当たらず、さびれた小屋の上に、寂しげな秋の夕陽が影を落としているばかりである。
・・・毎度お馴染み藤原定家の、『源氏物語』「須磨」の巻からの本説取り。あちらの作品を通して、「(光源氏の配流先という)びしい土地柄の中にも、なおかつ漂うさりげない季節の風情」に、万事が華やかだった古き良き平安の昔を思い描く「古典知識の下敷き」がある人が、実際にその須磨の地を、鎌倉時代の初めに訪ねてみたら・・・そこには既にもう何もない ― 寂しい秋の夕暮れがあるばかり・・・という情景を、定家自身が実際「須磨」に足を運んで詠んでいる訳でもなく、想像世界のヴァーチュアル旅歌として「題詠」している、というのがまた「新古今的」(実際に彼の地で詠まれたものだとしても、情趣としてはあくまで「イメージの歌」なのであるから、これは「須磨」以外の場所で詠むのが、よい)。去り行く平安への万感の想いを込めたレクイエム(鎮魂歌)としてこれを見る者にとっては、堪らぬ(文字通り、耐え切れぬほどの痛切な)郷愁を以て胸に響く歌であったろう。その後、江戸時代の太平の世の中で、「わび・さび(詫び・錆び)」趣味が流行すると、またこの歌も持て囃されたが、「新古今」時代にこの歌が人々の胸に訴えた「味」とは、だいぶ違う「ただの茶の湯の渋い味」に成り下がっていたことは間違いあるまい。むしろ、昭和を通してかつて繁栄を誇った島国のあちこちに破綻の秋風が吹く二十一世紀初頭の平成の日本人にこそ、お江戸のわび・さびとはまた違った味わいを、この「浦の苫屋の秋の夕暮れ」に与え得る資格は、大きいのかもしれない(・・・彼らに、古典文芸のみがあれば、の話だが)。

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