百一089解題)玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
『新古今集』恋一・一〇三四(式子内親王:しょくし/しきしないしんわう)(女性)

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解題

 「本歌取り」とまでは言えないが、この歌の200年前の下敷きとも言うべき和泉式部の歌を最初に紹介しておこう:
「絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな」『和泉式部日記』二九
(愛しいあの人の命が絶えた頃は、同じように絶えてしまえばいいのにと思っていた私の命なのに・・・あなたに出会って、また愛しい思いで生き続けている今の私です)
 かつての恋人の為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)に先立たれた数年後、その弟の敦道親王の求愛に応えて詠んだ、「恋多き女」和泉らしい和歌である。最初の「絶え」は「為尊親王の生命が<絶ゆ>」であるから、後続の「玉の緒」との間接的関連性を生じ、「縁語」となる;が、両者の中間部にある「絶えね」は、「玉の緒」を直接の主語とする「糸が切れる」意であるから、そこにあるのは「主語―述語」関係であって、間接的意味つながりの「縁語」とは認め難い。言葉の綾を自在に操り、「縁語」と「collocation:連語(="玉の緒"と言えば"絶ゆ"というような定型的に結び付く語句どうしの組み合わせ)」の微妙な境界線をいたずらっぽく弄ぶあたりが天性の「言葉の魔術師」和泉式部らしいところで、後続部「君に<より:拠り>」でまた「より:縒り」を通じて「玉の緒」を手繰り寄せる「縁語」としての間接的イメージの膨らみを持たせている上に、歌趣としては(彼女より一世代前の)藤原義孝の手になる第50番歌『君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな』を踏まえてロマンティックなドラマ性をも演出している。
 「玉の緒よ絶えなば絶えね!」というこちら第89番歌の思い切った開き直り方は、そういうわけで、詠み手式子内親王の独創というわけではないようである。独創でないものを借り物として引く以上、そこには原典になかった新たな生命が宿っていなければ詩歌としての生命線は断ち切られるわけだが・・・さて、この歌の「玉の緒」の輝きや、いかに?
 「玉の緒」とは、球状の物体の中央に開けた穴を通してこれらをつなぎ止める紐状のもの、例えば「真珠のネックレス・・・の糸」である。ここでは「玉の緒」となっているが、別表記をすれば「魂の緒」即ち「人間の霊魂をつなぎとめるもの・・・生命力」のことを、「玉/魂」の同音性に絡めて指す語である。首飾りであれ数珠であれ、それをつなぎ止める糸(「玉の緒」)は、往々にして切れる(この歌の中の古語で言えば「絶ゆ」)。ここで象徴的に言及されている人間の生命(「魂の緒」)もまた同様で、人間、死ぬ時はあっけなく生命の糸が切れるものである。それを、この歌では、「絶えなば絶えね・・・切れるというのなら、切れてしまうがいい」というのである。随分と開き直った譲歩調の命令文だが、その理由は後続部で明らかになる:「永らえば=このまま死なずに長生きしたら」、「忍ぶることの弱りもぞする=耐え忍ぶ今の気持ちが、弱ってしまって、もう耐えきれなくなったりすると、いやなので」・・・いっそ、耐えられなくなる前に、耐え忍んでいる今のうちに、ブチッと切れて終わりになった方が、楽だから、というのである。
 そうまで悲愴な覚悟をもって、この歌人、いったい何を耐え忍んでいるのであろうか?忍ばねばならぬ理由が何かあるのだろうか?忍び切れずにその何かを表に出せば、死ぬよりひどい運命が待っている、とでもいうのだろうか?
 この歌は、「忍ぶる恋」の題で作られた題詠歌である。・・・なぁーんだ、そういうことか、例の、本当にそういう立場にある訳じゃないのに、そういう立場の人になりすまして歌を詠むというあの虚構的な大袈裟さに満ちた中身のない空騒ぎの歌か・・・と、そう思うのは、この歌の場合、実はまだ早計である。
 詠み手式子内親王(1149-1201)。後白河法皇の第三皇女で、高倉天皇の異母姉。10歳の時、「葵祭」で有名な京都の加茂神社斎院となる。この「斎院」が、この歌の場合にはキーワードとなる:それは「忍ぶ人」、、「忍ばねばならぬ立場を強要された女性」のことだから。
 「斎院」は、嵯峨天皇(52代)が、兄の平城上皇(51代)との政争の際、賀茂大神に「自分が勝利したら、皇女を神に奉仕する女性として捧げる」と誓いを立て、実際に勝利したのでその娘(有智子内親王)を捧げ、これを「斎王」と呼んだことに始まる。「斎院」の原義は「斎王の住居」だが、古典時代には個人の名を直接呼ぶことをり、その居所を代用呼称とする習慣があったため、「斎院」が「斎王」の意味で用いられる場合の方がむしろ多い。
 神に仕える聖なる女性としての斎院は、当然、男性との恋愛関係を持ってはいけない・・・が、この禁を破った末の悲恋の物語も、古典の世界には数々残る(例:第63番歌「いまはただおもひたえなむとばかりをひとづてならでいふよしもがな」)。死ぬほど辛い「忍ぶ恋」や、死ぬよりひどい「ならぬ恋」が、斎院の女性たちには付き物だったのである。式子内親王のこの歌は、そうした彼女らの心の叫びなのかもしれない。少なくとも、嘘で固めた言葉だけの新古今ヴァーチュアル恋歌とは、詠み手の立場上、一線を画す必要があろう。現実にこの歌が彼女の斎院時代に詠まれたものか否かは、この際、問題にはならない。式子内親王を「現or元 斎院」として聞き手が意識している限り、彼女のこの歌は、単なる恋歌には終わらぬのっぴきならぬ重みをもって響くのだ。
 式子内親王は、10歳の時から約10年ほど、そうした「男子禁制」の立場にあったが、二十歳頃に「退下(=役を辞す)」している。理由ははっきりとは伝わっていない・・・病気になって「れ」たから辞したのか、異性との「れ」た交渉の末に聖なる場所から追われたのか・・・彼女を巡る資料はあまり多く世に残っては(少なくとも、出ては)いないし、わかりやすい力関係で動く政界はともかく、もやもやとした宗教界(ましてや色恋)を巡る事情は、傍目にはっきり見えてはこない。
 こうして聖界から俗界に戻った彼女は、1185年(36歳で)「准三宮(あるいは、准三后三后宣下」を受けて、太皇太后皇太后皇后(=三后)に次ぐ扱いを受ける「非皇族ながら皇族扱いの臣下」となり、1190年頃(40歳前後)に出家したが、この間には男女関係を巡るあれこれがあったらしい、と伝わっている。一時、親王時代の順徳天皇(守成親王)を「猶子(現代の養子に近いが、純然たる契約による形式上の親子関係)」として迎える話が持ち上がるも、立ち消えとなる。彼の立太子(1200)から一年後、京都から鎌倉へと政治の実権が移り変わってほぼ10年後の、1201年に死亡・・・享年53。
 彼女の名前は日本の歌壇ではよく話題に上るが、それは彼女が藤原俊成・定家親子と深い関わりを持つ女性だったからである。俊成は彼女の和歌の師匠であり、彼の歌論書『古来風体抄』(1197)は式子内親王に執筆を依頼されて書いたもの。俊成の息子の定家も内親王家にはしばしば出入りしていた記録が残る。記録の初出は1181年であるから、内親王32歳、定家19歳の頃。内親王家の「家司(・・・家事を司る係)」を務めていたという説もあるが、実情は不明。定家の日記『名月記』(1180-1235)には、内親王の晩年の病気から死に至るまでの克明な記録が残っており、両者の結び付きの深さを感じさせるが、それが式子内親王の歌学的情熱によるものか、下世話な想像が思い描きたがるような13歳年下の男子との恋愛関係とみることができるものなのか、資料もないし、あったとしても心理の真理を書いてある道理もないので、よくはわからない。
 勅撰和歌集には、俊成が編んだ『千載集』(10)、定家が編者の一人だった『新古今集』(44)を皮切りに、全157首が入集している・・・これに対し、現存する彼女の和歌総数は400首少々・・・鎌倉初期に活躍した著名な女流歌人としては、明らかに少ない。歌集が散逸してしまったのであろうが、そうして散ってしまったのが、不幸な偶然によるものなのか、政治上(その他)の思惑による人為的消失なのか、これもまた、確証の手段は何も残されてはいない。

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