百一093解題)世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも

世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも
『新勅撰集』羈旅・五二五(鎌倉右大臣:かまくらうだいじん)(男性)

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解題

 「鎌倉右大臣(鎌倉にある幕府の長、源氏の棟梁にして征夷大将軍、官位は右大臣)」こと源実朝(=初の武家政権を樹立した源頼朝の息子で、鎌倉幕府第三代将軍)の、「万葉調」とも形容したい素朴な歌・・・というか、『万葉集』と『古今集』という、彼の時代から見れば三~四世紀以上昔の「古歌」からの本歌取りで、元歌は以下の二つ:
 川上のゆつ岩群草生さず常にもがもな常処女にて(『万葉集』一・二二・吹芡刀自
 流れる水のほとばしりを浴びて、雑草のはびこることもなく、いつまでも清く輝く川縁の岩のように、貴女(=伊勢神宮に参詣した十市皇女)がいつまでも瑞々しい乙女であり続けますように。
 陸奥はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(『古今集』東歌・一〇八八・よみ人しらず)
 東北名物色々あれども、何と言っても第一番はあの塩竃の浦。浜辺を漕ぎ行く船が船引く引き綱の、しみじみ心に染みることよ。
 ・・・こうして見ると実に芸のないパクリ歌とも感じられますが、平安末のドロドロとした政治状況(平家の驕り、福原遷都、京都の荒廃、源平争乱、平氏滅亡、鎌倉幕府樹立)がようやく一段落ついたところで、実質上の世の統括責任者となった三代目将軍実朝の立場に立ってみると、「常にもがもな=いつまでもこのまま平和でありますように」は実感をもって響く願いですし、「綱手かなしも=タグボートが他の舟を引っ張ってゆっくり進んでゆくさまが、しみじみ心にしみるなあ」の部分は、「あぁ、人間どうしもあのように、お互い引っ張りあって生きてゆきたいものだねえ・・・源氏と平氏みたいな(あるいは、源氏どうしの内輪もめみたいな)足の引っ張り合いじゃなくて、さ、ね」とも解釈できるあたりが、この「本歌取り」の味、でしょうか。
 実朝の私家集『金槐和歌集』(1213以前に成立)では「雑・舟」の題詠となっていますが、藤原定家選の『新勅撰集』では「題しらず」として入集しています。この実朝の個人歌集に付けられた「金槐」の「」は「槐門」の略で「大臣」の隠語:古代中国の朝廷の前庭には三本の「」が植えられ、「太政大臣・左大臣・右大臣」の「三公」がその木に面して座った、という故事に因む語です。「金」は「鎌倉」の「鎌」から「兼」を取り去った「金」のこと。いずれも持って回ったようなこうした隠語は、「そう簡単に人に判られてたまるか」という「新古今時代」の平安末貴族特有の韜晦趣味の悪臭を弥が上にもプンプンと漂わせています・・・ん?連中特有、はおかしいか・・・平成日本人だってこういう「どーだ、わからないだろー?」式名称が大好きなんだから・・・ともあれ、世の中が行き詰まると、「知る人ぞ知る」とか「わからんやつにはわかるまい」とかの(本質的意味は何もない)無意味に判りにくいばかりの謎々ゲームが流行る、ということだけは確かです(・・・それと、21世紀初頭の日本も、13世紀初頭のこの国同様、あれこれと息が詰まるような状況にあることも、確かです)。
 実朝はもちろん武士ですが、公家的な性格のほうがむしろ色濃い人だったようです。少なくとも(京都の貴族の目から見た)「板東武者・荒くれ者集団」としての「"源氏"の長者」の臭いは、この人からはまるで漂ってきません。というか、自ら進んで「京都の人間」になりたがっていた匂いが、実朝という人には濃密なのです。
 和歌の道に志して藤原定家に教えを仰ぎ、これに応じる形で定家が実朝に贈った書簡が、有名な『近代秀歌』(1209)。『古今集』以来の和歌に関する歴史と(定家なりの)理想にう秀歌を紹介したこの文書は、それ自体が一つの歌論書として、後代歌学界の規範ともなりました。
 和歌・蹴鞠といった京都の御公家雅びみへの実朝憧れは、また、京都の朝廷から賜わる官位への(異様なまでの)こだわりにもつながったようです。
 かつて、父源頼朝の弟として最高の武勲を誇った源義経は、鎌倉勢の対抗勢力として京都で暗躍する後白河法皇にあまりにも近付き過ぎ、頼朝に無断で官位を賜わったりしたことで、公家に取り込まれて武家政権の基盤を危うくする禍根とみなされて、「反鎌倉の足がかり」として京都勢に悪用される前に、この義経を、頼朝は、奥州に追い詰めて抹殺してしまいました。・・・和歌の歴史を定家に教わって大喜びの実朝でしたが、こうした故事から政治のコワさを学ぶ歴史的展望(パースペクティブ)には、残念ながら、欠けていたようです。
 ようやく成立したばかりで不安定な武家政権の土台作りこそ急務、とする部下の声には耳も貸さず、京都・京都と西ばかり向いて、蹴鞠の本をもらったと言っては大はしゃぎ、右大臣に任ぜられたと言っては狂喜乱舞するような実朝に、板東武者たちの人望が集まる道理がありません。武家の棟梁のくせに、「侍所」で身内どうしのいざこざから刃傷沙汰が起こると、なよなよとしたお公家さん如く血の穢れ」を嫌ってその建物そのものを取り壊して新造せよ、などと頓珍漢なことを実行させるような若殿様・・・こういうヒトが三代目若社長では、「(株)源・北条&Co.Ltd.」こと鎌倉幕府の武家政権の安定はおろか、存続さえも危ぶまれます・・・そうした「御公家かぶれ」だけが理由ではないものの、結局、実朝は、1219年1月27日、右大臣就任を祝うために出向いた雪の鎌倉は鶴岡八幡宮で、である源公暁の手で首を切り落とされ、僅か26年の生涯を閉じることになりました。その日の朝の出発前に彼が詠んだ最期の歌 ― 結果としては彼の「辞世」 ― は、庭の梅を見て詠んだ次のようなものだったと伝えられています:
 出でいなばなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
 (この私が出て行って、主人なき宿となったにしても、軒端の梅の花よ、春の到来を忘れるな)
 ・・・和歌の「歌枕」をある程度知っている人なら、「主なき宿・梅・春・忘る」から、これが、太宰府に左遷された失意の菅原道真の次の歌のベタな「本歌取り」であることを即座に見抜くことでしょう:
 東風吹かば匂ひ遣せよ梅の花なしとて春を忘るな(or春な忘れそ)
 (春になり、東風が吹いたら、遠く懐かしい京の都から、梅の花よ、その香りをこの九州の太宰府まで吹き送っておくれ・・・たとえ京都の我が旧邸に主人である私の姿がなくっても、春の訪れを忘れないでおくれ)
 ・・・苟も和歌の道に志を立てた者の最期の歌としては、なんとも残念な歌です。
 ところが、歌人としての実朝の評価は、今の日本ではとても、とっても、高いのです・・・その原因は「正岡子規(1867-1902)」にあります:彼が実朝をベタ誉めしたのです・・・で、日本の文壇なり歌壇なりでは、とにかくエラいセンセの意見は絶対のもの・・・正岡子規の高評価も絶対のもの・・・ということで「実朝=中世日本に於ける有数の名歌人」というお説を受け売りする日本人が大勢いる訳ですが、子規センセが何故そこまで実朝びいきだったかに関するパースペクティブは(例によって)全然ないようです・・・有り体に言ってしまえば、「写実こそ歌の命」と思い込んでいたあの子規センセにとってみれば、技巧に走る「古今調」を見れば「ウーン・・・」、それに輪を掛けた「新古今調」に至っては「フンッ!」といった感じであって、「言葉遊び」の匂いを少しでもぎつけようものならあのヒト、烈火の如く怒って「こんなもの、一文の値打ちもない!」と全否定しちゃう、という(評論家としては)実に解り易い御仁でしたから、もって回った面倒くさい解釈を要する歌ばかりはびこっていた新古今時代にあって、実に珍しく万葉調の「ますらをぶり」の詠歌が(決して多くはなかったのですが)含まれていた『金槐和歌集』(全663首・・・の殆どは実は古今・新古今調)は、とにもかくにも「子規好み」であり、その作者の「実朝」=「なよなよ・くねくねと惰弱でヒネたダメな平安末にあって、唯一、写実的で嘘のない古き良き万葉の時代の気骨を保ち続けた希有なる歌の名人」という短絡図式が出来上がってしまった、という次第。要するに、「キライなヤツをコキおろすために、それと逆の立場のヒトを、とにかくホメる」の図であって、こうした論法に於いては「実朝が実際に優れた歌人であったか否か、優れていたとして、どの歌のどの部分がどのように優れていたか」などはどうでもよいのです:「実朝に、反"古今・新古今"、反"非写実性"の要素があるかどうか」だけが子規センセにとっては問題なのです・・・こうした論法、この国では平然と罷り通ってきましたが、こんなの(この国以外のマトモな)世界の知識人相手には全く通用しないし、軽蔑の対象にしかなりませんから、間違っても鵜呑みにせず、専ら反面教師にするようにした方が身のためです。
 ・・・という具合の成り行きにより、「武骨な鎌倉武士」の様態に殊更に背を向けて「なよなよ・くねくねの平安貴族」のドロドロの残滓漂う「京の都の新古今人」になりたくてなりたくて仕方がなかった実朝さんが、自分のことを、「惰弱なる平安末に於ける"ますらをぶり"の希有なる体現者」として持て囃後代日本の「子規評価」を聞いたら、いったいどんな顔するのでしょうか?切り落とされた首が後ろ向いちゃうんじゃないでしょうか・・・。
 上、とかく偏屈な正岡子規の作ったへんてこな日本文芸界の流れへの逆行を強く意図しているため、彼の逆方向へと物凄く偏屈な流れ方をしている文章につき、読者のみなさんは各自のパースペクティブを保ちつつ、受け入れ難き箇所は受け流してお読みくださるよう、お願いします。というか、こういう極端な流れ方をしてる文章を見たら、必ずそこに「仮想敵」と「仮想味方」を探り出し、「巡行ベクトル」と「逆行ベクトル」というコンパスを用いて、筆者の立ち位置と目的地を(とっても判り易い形で)即座に見抜く、という文章読みの作法を身に付けておくと、大方の日本人の書く文章/言う言葉/取る行動なんて、いとも簡単に読み解けるものですよ(・・・ヨーロッパ大陸の"喰えない面々"の「新古今調」も真っ青の複雑怪奇なdiplomacyとの相対比較で言えば、ね)と言っておいたほうが、よいのかな?
 最後に、念のため、件の子規実朝評」を、以下に掲げて結びとします。近代文語文だから現代語訳するまでもなくすらすら読めるでしょう・・・内容もないようだし・・・。一応申し添えておけば、「真淵」というのは賀茂真淵、江戸時代中期に「反 古今・新古今!」/「万歳 万葉!」を叫んで、「万葉調=嘘偽りのない心を技巧を凝らさずストレートに詠んだ・・・ますらをぶり」/「古今・新古今調=眼前にある訳でもない情景や、他人へのなりすまし歌や、言葉遊びに終始する技巧に溢れ、なよなよと耳に響きのよいことを第一義として、心の歌ならぬコトバの詩へと成り下がってしまった堕落した時代の詠みぶり・・・たをやめぶり」という二元論で歌の世界を切り分けちゃった(その意味では子規と同じくとってもわかりやすい)国学者で、リアリズム派の正岡子規にとっては「自分側の人間」デス:
 ・・・以下、正岡子規『歌よみに与ふる書』より引用:
 如く近来和歌は一向振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふにてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏をりて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物好き連中や死に歌よみ公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。

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