百一094解題)み吉野の山の秋風さ夜ふけて古里寒く衣打つなり

み吉野の山の秋風さ夜ふけて古里寒く衣打つなり
『新古今集』秋下・四八三(参議雅経:さんぎまさつね)(男性)

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解題

 この歌は、『古今和歌集』(905)に収録された坂上是則の次の短歌の「本歌取り」:
 み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり(冬・三二五)
 「ならの京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる」(奈良に行った時、宿所で詠んだ歌)
 京都以前に日本の首都だった古い奈良の都が、その寒さを増してきた・・・ということは、今頃奥深いあの吉野山には、白雪が積もっているのだろうなぁ。
 是則は今「奈良の宿所」に居る。「み吉野の山」に居る訳ではない。が、彼はかつてその「み吉野の山」で降る雪に包まれ、感動して次の歌を詠んでいる(『小倉百人一首』第31番歌):
 朝ぼらけ有り明けの月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
 朝がほろほろと明けて行く中、夜の名残りの有明の月が、まだ照り映えているのか、と錯覚するほどに、地にも空にも白い光を投げていたのは、名高き吉野の白雪だったのだなあ。
 ・・・かつて見たこの「山奥の吉野に降る雪のイメージ」は、山から離れた奈良の宿所に居る今の是則の中にも鮮明に残っている。今、その「古都、奈良の里が、寒くなってきた」ということは、「山深い吉野では、例の、雪が降っているのだろうなあ」という形で、皮膚感覚で知る「奈良盆地の温度低下」の原因を、大脳の中で理知的に分析した末に、「脳裏に再現する吉野の雪の視覚的イメージ」へと結び付けている訳である。「Aになった。ということは、考えてみれば、Bでもある、ということか」というこの理知的な「気付きの図式」は、『古今集』が和歌の世界に確立させた詠みぶりであり、『万葉集』(759頃)には(大伴家持の第6番歌のような少数の例外はあるが)見られなかった、当時の和歌の新機軸である。
 その「古今調」の理知的詠みぶりを、単に復興させるのみならず、そこに新たな息吹を加えようというのが『新古今和歌集』(1210年代成立)の野心であった。この94番歌では、それをどのように演じているか、以下に解題してみよう。
 「み吉野の山の」までの部分は本歌とそっくり同じだが、そこから後の舞台が逆転している:「み吉野の山の秋風さ夜ふけて」であるから、こちら「新古今」の歌の詠み手は「吉野の山」に身を置き、夜更けに秋風が吹くのを、実地に肌で感じているのである。
 「古今」の詠み手は、古都奈良に居て、空気の寒さから、山奥の吉野の降雪を推測した。一方、こちらの詠み手は「吉野の山里で、夜更けの秋風を肌で感じて・・・」そこから次のように続けてみせる:「古里寒く衣打つなり=今は寂れたかつての都の奈良では、"寒く"、で衣服を叩いているようである」。「奈良から吉野の状況を推測」した本歌に対し、「吉野から奈良の状況を推測」している点も逆だが、その「推測」についても、本歌では「奈良が冷える・・・ということは、吉野の山に雪が降っている、ということか」と「頭を使い、引っ繰り返して考えた」だけなのに対し、こちらではもう少し複雑な形で成立させている:特に"寒く"が、特殊である。図式で確認してみよう:
1)「み吉野の山の秋風さ夜ふけて=吉野の山の夜更けに秋風が吹く・・・涼しいなあ」
 ・・・この「秋風」は皮膚で感じる実体感覚の刺激であり、「寒さ」より「涼しさ」を感じさせるものである。「小夜更けて」の語感もまた「秋風の清涼感」に結び付き、「冬の北風の荒涼感」を彷彿とさせるものではない。
2)「古里寒く衣打つなり=古都奈良では、"寒い季節の到来に備えて"、で衣服を叩いているらしい」
 ・・・ここでの「寒く」は、実体感覚の「寒さ」ではない。吉野の山から奈良の里を思って詠まれているのだから、その間接的推測には元より実体感覚が伴う訳もないのであるが、ここでの間接性はそれだけに留まらない。実は、この時点ではまだ皮膚感覚的には「寒く」はないのである:吉野でも奈良でも、肌で感じる季節の風は「涼しい」だけなのだ。それを「寒く」と表現しているのは、「衣打つ」という「冬支度」に結び付いているからこそである。「でトントン衣類を叩いて、柔らかく慣らしたり、を出したりする」というのは、秋のうちにする冬の準備である。その冬間近の晩秋の風物詩を耳を通して感じているうちに、肌では寒くもないくせに、頭の中の先読みで、季節が「寒く」感じ出した、という図式である。
 「奈良に居て、同時進行で展開する山奥吉野の降雪を認識する」のも十分理知的だが、「吉野に居て、奈良でで衣を打つ音から、まだ来ていない冬が、もうすぐ来ると思い始めたら、晩秋の涼しい夜風も、心なしか寒く感じられてきた」という更に入り組んだ理知的思考を経ての、季節先取りの「寒く」は、いかにも「新古今」らしい複雑な技巧である。
 「新古今らしさ」はそれだけに留まらない。この「古里寒く衣打つなり」に於ける「なり」は、断定の「なり」ではない:吉野の山から奈良の里の状況に関して行なえるのは、「断定」ではなく「推量」止まりである。その「推量」を、何を手掛かりに行なっているかと言えば、「音・・・でトントン衣を叩くその響き」で推量していることになる。「なり」は語源的には「鳴り」であり、鳴り響く音や聞こえ来る風聞を材料に推論を構成する助動詞である。現実的に「奈良盆地で衣打つ音が、吉野の山奥まで届くか否か」は、歌の情趣としては問題にはならない。むしろ、「奈良・吉野間の空間距離」は、「音響的到達が物理的に困難~ほぼ不可能」なほどに離れていた方が、詩的には好都合ですらある:それほど離れた場所なのに、音が届いてしまいそうなほどに、夜が静まりかえり、空気もやかに響き渡る晩秋の感じが、空間距離の長さに正比例する形で、高まることになるのだから、「poetic license:詩的放縦」を駆使すれば、「奈良から吉野へ音はそうそう届かない」という現実が、美味しい隠し味になるのである(・・・これが、「ロンドンとパリ」や「日本とブラジル」ほどに離れてしまえば、最初から詩にもならないが、「吉野と奈良」なら、絶妙なのだ)。
 こうした歌の情趣を思う時に、すぐさま地図帳を取り出して数字にお伺いを立てる人種は、詩的でないばかりか、理知的にも問題がある。脈絡をよくよく読んだその後で、検算・確認用として、地図なり辞書なり他人の意見なりは、二次的資料として参照するに留めること:その甲斐性がない者に、知識人への階段は上れない。詩人・語学の達人は、脈絡を辞書として文物の世界を自由自在に飛び回る;語学下手・感性貧弱の哀れな勉強家は、辞書・事典を絶対のガイド役としてこれにすがりつき、結局道に迷ってどこにも行けぬ。指針として仰ぐべきコンパスは、自らの頭脳の中に確立せねばならぬものであって、外部にこれを求めるのは、人生の幼稚な段階で既に卒業しておかねば、愚昧の一生に甘んじるよりほかはない。
 ・・・嫌味な展開、と思われたであろうか?・・・で、あろう(大方の読者には)・・・これが、「新古今調」の特性である。「わかる人に(だけ)は、わかる」ものとして、わからぬ連中はおいてけぼり:それがこの時代の和歌の排他的高尚性なのである。
 作者藤原(飛鳥井雅経(1170-1221)は『新古今集』の6人の撰者の一人・・・だが、順風満帆とは言えぬ波瀾万丈の人生を送った人である。雅経の父難波頼経(?-1217)は、源義経(1159-1189)と親しかったため、彼の追討騒動のりを受けて流罪となった。息子雅経もその罪に連座する形で鎌倉に送られるのだが、その和歌・蹴鞠の才を買われて頼朝猶子(形式上の息子)となった上、頼朝側近の実力者大江広元の娘を妻として出世コースに乗り、参議(従三位)にまで昇る:「芸は身を助ける」を絵に描いたような転変劇である。無論、雅経に政治的才覚があればこその出世劇であろうが、武断的性格の鎌倉方から、雅びなる京都方への表敬人事としての色彩もあったのかもしれない(後代織田信長が茶の湯の宗匠達を殊更厚遇したように)。その後雅経蹴鞠の名手として後鳥羽上皇から「蹴鞠長者」の名を頂戴し、彼が開祖となった「飛鳥井家」は代々蹴鞠と和歌を家業とすることになる。京都と鎌倉の双方にパイプを持った当代随一の文化人として、三代将軍源実朝(第93番歌作者)と、藤原定家、更には鴨長明(?-1216:『方丈記』・『無名抄』・『発心集』等、大学受験生にお馴染みの諸作の著者)との間を取り持ったのも、この雅経であった。

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