百一095解題)おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖

おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖
『千載集』雑中・一一三七(前大僧正慈円:さきのだいそうじゃうじゑん)(男性)

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解題

 これは、詠み手の立場が解らなければ意味が判らない歌。作った人は「前大僧正慈円」。「大僧正」というのは朝廷公認の僧侶の官位(僧官)の最高位、つまりは「日本で一番偉いお坊さん」と公的に宣言された人のこと。これだけ偉い地位にける人は、修行の徳があった人というよりむしろ親の官位が高かった人で、この人の父親は世俗官位の最高位「関白」藤原忠通(第76番歌作者)。兄はあの九条兼実である。平安末~鎌倉初期の政治を裏からき乱し続けた「妖怪法皇」後白河院と、鎌倉幕府との板挟みって、あれこれ苦労しながらも、後白河頑な拒み続けていた「源頼朝への征夷大将軍職承認」を、後白河の没後直ちに実現させたのが兼実で、鎌倉幕府が実力を付けるに従って兼実も勢力を伸ばした。その兼実の強い支援を得て、慈円天台座主比叡山延暦寺の親玉)の地位を占めること生涯4度にも及ぶ。しかし、兄兼実がやがて政界で失脚すると、その影響は当然慈円にも及び、彼は全ての職を放棄して吉水という地に隠棲することになる(彼の通称「吉水僧正」はこの地名に由来)。
 聖界に身を置きながら俗界をもに掛けるのがこの時代(から、織田信長による武力制圧を経て徳川家康により法的にその行動を制限されるまで)の日本の僧侶の特性。慈円もその例外ではなく、兄兼実の孫である藤原道家後見人となり、その道家の息子藤原頼経は(8歳にして)鎌倉幕府四代将軍となった。既に吉水隠棲していた慈円であるから、この朝廷/幕府の連携プレイに主体的に絡んでいた訳ではないが、彼の周囲でこうした政治的に重要な動きが展開していたことは確かで、その「歴史の目撃者」的立場から、文芸史的には、『愚管抄』(1220)の著者とされているのが慈円である。この歴史書は、神武天皇から順徳天皇までの日本の歴史を仮名漢字交じりの編年体で書き表わしたもので、日本の大学受験生にはお馴染みの書。また、あの『新古今和歌集撰進のためにまず設置された「和歌所」の「寄人」として名を連ねてもいる。最終的な撰者にはならなかったが、歌の収集過程ではこの歌集の成立に関与した訳である。
 仏教者としては、専修念仏(ひたすらに念仏を唱えれば極楽往生うと説く)の「法然」に対して(比叡山延暦寺の元締めという立場上)批判的ではあったものの、血の気の多い坊主連中が法然やその弟子の親鸞の弾圧を叫んで無茶な行動に出るのを憂慮するなど、穏和な宗教家としての顔をかせている(親鸞は、9歳の時に、この慈円から「得度」を受けている)。最期は70歳で往生諡号(=戒名)は「慈鎮和尚」。
 生臭坊主が幅を利かていた当時にあっても、慈円真面目修行し、揺れ動く時代を宗教者の立場から穏やかに見守った立派なお坊さんであったようだ。彼が天台宗の門(青蓮院)に入ったのは13歳の時であるが、初めて天台座主となったのは38歳の時、年は1192年で、源頼朝征夷大将軍拝命により鎌倉幕府が開かれたのと同じ時である。文献学的に確定している訳ではないが、この歌は、恐らくは、その頃に作られたものと思われる・・・というより、その雰囲気を濃厚に漂わせている。以下、そのあたりの事情をこの歌の文言の中に探ってみよう。
 初句「おほけなく」は「勿体なくも・分不相応にも」の意味。類義語「かたじけなし」が「いやぁー、ありがとうございます」という「受益者側の感謝の念」を述べる語であるのに対し、「おほけなし」では、「こんな大いなる恩恵を施されてしまい、自分としては困惑しています。本当に、いいんでしょうか、こんな私で?」という「過分の扱いに対する恐縮と遠慮」がその根幹にある。音感的には現代関西弁「おおきに!」に通じるが、あっけらかんとした「やったー!」の意になる現代版「おおきに」と、古語の「おほけなし」とは、「慎ましさ」の観点に立てば正反対の語とさえ言えるのだ・・・まぁ、それだけ時代の流れの中で「慎ましさ」が失われて今日に至っている、というのが「おほけに→おおきに」変遷劇の本質であって、古語の中でその原義に忠実なまま現代に残っているものはむしろ少数派であることを思い出すよすがにもなりそうな話ではある。
 話を慈円に戻すと、彼が「おほけなし」と恐縮しているのは、無論、「天台座主」という日本宗教界の頂点に立つ僧官を賜わったからこそである:修行者の身で叡山に入るだけなら「勿体ない」などと恐縮する必要はないのだから。そのことは、後続の「わが立つ」の文言にも明らかである。「」とは字義通りには「杣山=植林・伐採用の木々の生える山」であるが、ここでは次の歌を踏まえねばその真意を見逃すことになる:
 阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ冥加あらせたまへ(『新勅撰集釈教・一九二〇・伝教大師
 最高の真理に到達した仏達よ、この比叡山の木を切り出して建てた延暦寺に、どうかその大いなる保護の力を及ぼしたまえ。
 ・・・この歌の詠み手伝教大師」とは、比叡山延暦寺を開いたあの天台宗の開祖「最澄」(767-822)の諡号である。その「畏れ多くも御開祖様」の叡山開山の際の決意表明の歌の文言の「わが立つ」を、慈円が自らの歌の中にそっくりそのまま用いているのは、鎌倉幕府樹立の年という「公家→武家」の社会情勢の劇的変化の真っ只中で、宗教界の長としての大任を果たさねばならぬ我が身の責務の重さを、開祖最澄の開山時のそれに準えて詠んでいる訳である。先程の「おほけなし」のし出す遠慮深さと、この「わが立つ」の気宇壮大なる自意識・自負の強さとは、見事な対照の図式を成している。「選ばれたる者の恍惚と不安と、ふたつながら、我にあり」(ヴェルレーヌ:Paul Marie Verlaine:1844-1896)・・・このアンビバレントな感覚は、大事を為す者・為そうと奮い立つ者・為すために自分はここにあるのだと信じている者たちに、共通する「心の揺らぎ」なのである。
 「墨染の袖」は、僧侶が身にまとう薄墨色の地味な僧衣のこと。この衣裳の色自体には、特に天台座主としての地位を感じさせるものは何もない。ただ単に「墨染め」と「住み+初め比叡山延暦寺に初めて住む」の掛詞的な響きを感じさせるだけである。が、無論、慈円の修業はこの歌の時点で既に四半世紀の長きに及んでいるのだから、これが「住みはじめ」の道理はなく、その意味で解するならこれは「天台座主としてこの御山に住むのは、これが初めて」ということになろう。
 「うき世のにおほふかな」とは、その「墨染めの袖」が象徴する「慈悲深き仏の大力」で「悲惨なことの多い世の中の民衆を覆い尽くす」の意味である。古語の「うき世」は、既に社会が安定期に入ってひたすら浮かれ騒ぐ江戸時代以降の享楽的な大衆が用いれば「浮世」、災い尽きぬ辛い世だから、極楽往生こそが最高の望み、という悲惨な時代であった古典時代の人々の溜息混じりで用いれば「憂き世」となる:ここは当然、後者の「辛い世」の意である。
 総じて、歌は歌でも"詩歌:poem・rhyme"というより"賛歌・聖歌・シュプレヒコール:anthem・hymn"といった趣のもので、僧歌としてみればこうした生硬さも当然の気がするが、仮にも慈円は歌人として『新古今集』の「寄人」に任ぜられたほどの人であるから、精巧なる「新古今歌」だって当然詠める詩人だった訳だ。その人にして、こうした「」が、技巧だの情趣だのを押し退けて強く出てくる歌を詠んでいる、というあたりに、雅びなる平安の世の終わりと、自己主張と競争(あるいは、闘争)が渦巻く鎌倉の世・武家の世・庶民の世の到来を、感じないでもない。

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