百一096解題)花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
『新勅撰集』雑一・一〇五二(前太政大臣入道:さきのだいじゃうだいじんにふだう)(男性)

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解題

 この歌を読み解く鍵は「掛詞」と「見立て」の二つである。
 まずは「白いもの」の見立て:「花」「雪」そして「白髪」の三点セットを最初に押さえておこう。
 「花さそふ嵐の庭」は、文字通りに読んでよい:「春の嵐が庭に吹くと、桜の花びらが吹雪のように空中に舞い散る」の図である。その直後に、先程の「見立て」が生きてくる:「嵐の庭の雪」は、当然、冬に降る本物の「雪」ではなく、「雪」に見立てた「桜吹雪」のことである。その「花吹雪」を、空から「"降る"雪」に見立てる技法は、『古今集』(905)以来の使い古された修辞法。この歌が詠まれた鎌倉初期の貴人なら、誰でも知っている陳腐な常識である。ここではそれを逆手に取って、この詠み手はこう続けている:「冬の空に"降る"白い雪のように、庭に舞い飛ぶ桜吹雪の真っ白い情景・・・というのは、皆さん御存知の伝統的な美景・・・それなら、綺麗で、いいのにねぇ・・・そうじゃないのさ、ここでの白いやつは・・・年を"経る"ごとに白くなる、びしい私の白髪頭の白さ、なんだから、寂しいねぇ」・・・そう言って、この人、居合わせた人達の笑いを誘っているのである。
 「ふる」を「(雪・花吹雪が)降る」から「(私が年を)経る」へと「掛詞」で移し替える技巧自体はありふれているが、これは、同時進行の「白」の縁でつながる「雪」・「花」に土壇場で加わる「白髪頭」の「見立て」との相乗効果を生み、「陳腐」と形容できるほどに誰もが熟知している「雪/花」の見立てを、最後の最後で意外な形で引っ繰り返すことで、独特な味を出すことに成功している。「陳腐」とタカをって油断して聞いていた人々の思い込みを前提とした、手品のような変わり身を演じているのである。
 この歌を「老境の悲しみを詠んだ歌」と見ることが出来ぬでもないが(というか、字面だけ見ればそうとしか見えぬであろうが)、筆者はそうは取らない:それでは面白味に欠けるから。この歌は、「なぁーんだ、有り触れてるー、言い古された、"雪"と"花"の"白"の見立てかよ・・・」と、途中まで満座の人々のシラケを誘っておいて、最後に「・・・と思うでしょ?残念でした、ここでの白は、侘びしい老人の白髪頭なりけりーぃっ!どう?意外なオチでしょ?」というドンデン返しの味(関西弁で言う"イチビリ"風味、歌学用語では"俳諧趣味")を添えて読まないことには ― 古歌慣れした歌詠み/歌読みの肥えた舌には ― ちっとも美味しくならないのである。
 技巧歌、というよりは、ちょっとした思い付きで詠んでみせた感が強く、飾らぬ機転が「あはれ」よりむしろ「をかし」の感を誘うこの飄逸な歌の作者は、藤原公経(1171-1244)。鹿苑寺(現 金閣寺)の近くに「西園寺」を建立したことから、一般には「"西園寺"公経」と呼ばれる。
 鎌倉幕府の開祖の源頼朝(1147-1199)の妹の夫である一条能保の娘を妻としていた縁で、公経は元々、鎌倉幕府との関わりが深かった。後鳥羽上皇・順徳上皇らによる倒幕計画「承久の乱」(1221)に際しては、一時幽閉の憂き目を見るものの、決起直前にその情報を鎌倉方に流して乱の収拾に貢献。その功績を評価されて朝廷では太政大臣(従一位)にまで昇進。1226年には、三代将軍実朝(1192-1119)が暗殺されて頼朝嫡流の将軍が断絶した後7年間の空位期間を経て、公経の外孫の藤原頼経が(僅か8歳にして)鎌倉幕府四代将軍となる。名ばかりの傀儡将軍とはいえ、その外祖父としての公経の鎌倉方に対する権威は格段に上がり、京都の朝廷と鎌倉幕府との連絡役「関東申次」として両勢力の調整に大活躍(以後、鎌倉時代を通じてこの役は西園寺家の世襲となる)、孫娘の姞子後嵯峨天皇の中宮となり(以後、天皇の中宮西園寺家から出すのが慣例となる)、西園寺家興隆のを築いた末に、激動の時代を見事泳ぎ渡ったこの「一条入道太相国」は、73年の充実した生涯を閉じた・・・「ふりゆくものはわが身なりけり」の歌に哀感が伴わないのも、むべなるかな、である。

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