百一097解題)来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ
『新勅撰集』恋三・八四九(権中納言定家:ごんちゅうなごんていか)(男性)

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解題

 これは、『小倉百人一首』撰者である藤原定家自身の晩年の自讃歌で、次の『万葉集』(759頃)の長歌(五七の句を三度以上繰り返した末に七の句で締める形式の和歌・・・多く、直後に「五七五七七」の短歌形式の「反歌」を伴う)からの「本歌取り」である:
 淡路島松帆の浦の朝なぎに玉藻刈りつつ夕なぎに藻塩焼きつつ海人娘子ありとは聞けど・・・」長歌六・九三五・笠金村
 淡路島松帆の浜辺では、朝には海中から玉藻を刈り、夕方にはそれを火で焼いて塩を取る、そんな漁師の娘がいると聞いているけれど・・・
 「玉藻」の「玉」は所謂"美称"で、後続の名詞を讃えるために付けるもの:「玉のような男の子」と言う時のあれで、「丸々としている」の意味ではなく、「真珠宝玉のように輝いて(見え)る」の意味である。であるから「玉藻」の実体は単なる「海藻」。因みに、「玉藻刈る」は、万葉の時代に確立した「枕詞」として、海辺にまつわるあれこれの名詞(「沖」・「処女・少女・娘子(をとめ)」「敏馬(みぬめ)」・「辛荷(からに)」)に掛かる。
 そんな「海藻」を、「海人娘子(=a diver girl)」が海にって採取して、海藻サラダでも作って食べるのか、と言えばそうではない:この草を、火でって、水分を蒸発させて、後に残った塩分を採取するのが目的・・・つまり「浜辺で塩採る少女の図」の叙景が、この万葉の長歌なのである。
 この製塩法、見るからに手間と時間が掛かる効率の悪いもののようだ。さりとて塩は古代の貴重品(現代でも人類の生存のための必需品)、それを取るのが少女の仕事、出来上がるまで、彼女は、弱火でじりじり焦がされる海藻如く、じぃーっと持ち場で待っているしかない。
 この「待つ身の辛さ」の情趣こそ、定家によるこの歌の「本歌取り」の契機であった。万葉の元歌では「塩が出来上がるまでの長く退屈な時間を待つ」少女だったものが、定家の歌の中では「思いを寄せる男の人(というより、男の子、であろうか)が来てくれるのを待つ」というちょっぴり大人の顔して浜辺に立っている。長く退屈な時間も、大好きな彼が横にいてくれたら、過ぎ去るのを惜しむほどに早くあっという間に流れる夢の時に化けるのだ・・・が、彼はなかなか来てくれない。そんなじりじりするような「少女の胸の内」を「藻塩の焦がれる姿」にだぶらせた「叙景的叙情詩」に仕上げた、定家らしい「本歌の情趣を生かしつつ、それ以外&以上のものへと仕上げた本歌取り」の歌である。・・・が、この歌を語るのにこれだけ、では、定家先生は満足しないであろう。彼が自讃するからには、この歌、もっと多くのものを含むのである。
 「待つ身の辛さ」を詠む歌は、古来、数えきれぬほど沢山あるが、そのほぼ全てが「男の来訪を待つ女」のものである。これは、古典時代の「妻問婚」という社会習慣から来る構造的必然である。と同時に、同じ社会学的枠組みの呪縛として、「日が暮れて、今夜は(も)来てくれないのかとじりじりする思いで男を待つ」とか「一人寝ので、来てくれぬ男を思いつつ寂しく過ごす」とかの形で、「待つ場は、専ら、女の部屋」/「時間は、専ら、夕刻以降」という固定した状況がそこにはあった。
 これらのしがらみをもまた、定家は、万葉の世の浜辺に舞台を移すことで、取り払ってみせたのである。一般の歌の場合、「女が男を待つ時間」と言えば「夕方」か「夜」であるが、この歌の場合は「朝から夕方」と、正反対の時間的立ち位置にある。定家の歌の「夕凪に」は、待ち続けた末に至った「終着点」であり、そこに至るまでの長い時間幅が言外含意されている点に注意を促しておきたい。「まつほの浦」の「歌枕」は、万葉の本歌の「朝なぎに玉藻刈りつつ/夕なぎに藻塩焼きつつ」を自動的に喚起する。その浜辺で、「来ぬ人を待つ(松帆の)浦の夕凪」と言うのだから、「朝凪から夕凪までの時間帯」の、全て、とは言わないが、心理的にかなりの部分を占める時間にって、この少女は、待ち続けていたことになるのである。
 待つ場所が「浜辺」というのも、密閉された二人の男女だけの空間である「」とは正反対の解放感に溢れている。
 そして、何より、ここで「来ぬ人を待つ」のは、泣き濡れた大人の女ではなく、「海人娘子」なのである。時間と場所の呪縛の他に、年齢制限(オトナ限定・・・現代で言えば"18禁")をも定家は越えてみせている訳だ。この主人公を主座に据えてこの歌のシチュエーションを考えてみると、少女の可憐な恋心を詠い込むのに相応しいものとなっていることに気付くであろう:「時間=朝~夕方(夜はダメよ、まだコドモなんだから・・・)」/「場所=浜辺(おうちの中のお部屋はダメよ、そんなにオトナじゃないんだから・・・)」/「来ぬ人」の具体像としては、浜辺で待つ少女に「ごめん、ごめん。待った?」と声かけたら「遅ぃいっ!」となじられて頭いたり、肘撃ち喰らって笑ったり、ピョンと抱きつかれてそのまま浜辺に倒れ込んで戯れたりしても、不自然でない程度の「少年~青年」ということになろうか。
 そうして改めて考えてみると、この「来ぬ人を待つ」の情感も、ウェットな涙の臭いよりは浜辺の潮風のようで、淀んだ重苦しさを漂わせることもなく、「来ない・・・のかしら」ではなくて「まだ来ないのかなー?」に近い気がしてくる。
 こうして見ると、万葉の元歌の退屈そうなお仕事娘とも、後代詫び濡れた女性とも、見事なまでに異なる新たな「浜辺で彼を待つ少女」の叙情を、万葉の叙景に託して詠んでみせたこの歌が、『万葉集』(759頃)から『古今集』(905)を経て彼自身が編集に深く関わった『新古今集』(1210年代)に至る和歌の全てを知り尽くした歌人の中の歌人、藤原定家の自讃歌となるのも、自然な気がしてくる。
 安易な剽窃に走る「本歌取り」が多い中、定家(そしてその父俊成)は、あれこれと作歌作法を提示しては、これが(使いようによっては)三十一文字の制約に縛られた和歌の世界に豊かな想像的発展の余情を組み込み得る付加価値技巧であることを力説したが、「正当なる本歌取り作法」とは、煎じ詰めれば「古歌本来の味を隠し味として活かしつつ、全く別の料理に仕上げてみせること」であり、「出涸らし二番煎じにはせぬこと」である。この歌の「化け方」と「イメージのらまし方」は、そうした定家の主張の生きた見本としても、自讃歌たり得る見事なものであろう。
 この歌はまた、「序詞」を含むものである。あまりに見事に組み込まれているので、どこにあるのか見えないところがまた秀逸なのであるが、「まつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の」が「焦がれ」を導く構造である。・・・が、ここまで来るともはや、「序詞は、後続の主意部を導出するための、誘い水」という説明が何の意味をも成さなくなる。そう、単なる後続部誘導語句として片付けるには、定家のこの歌の「序詞部」は、万葉の本歌を引き継ぐ「叙景部」としてのイメージ訴求力が強すぎて、「誘い水」として流すことを許さないのである。こうした「絵画的印象の強さで後続部を導出しつつ、自らも独立した叙景部として成立し得るもの」こそ、藤原定家が目指した「序詞の理想型」なのである。
 『小倉百人一首』には、撰者藤原定家の考える和歌の理想型の考察本としての色彩があるが、「序詞」含みの歌が100首中の実に19首にも上るという事実は、定家がこの修辞法を如何に重視していたかの証左と見るべきであろう。彼自身の作であるこの第97番歌が「序詞歌」という事実もまたそれなりの重みを持つである。
 そこで、『小倉百人一首"序詞選"』の最後を飾るこの歌の結びにあたって、藤原定家が考えた(であろう)「序詞」歌の理想型にうもの/理想には遠いが、まずまず悪くはないもの/理想からはかなり遠いもの、という品定めをしてみたいと思う。
 元よりこれは、この筆者が独断で仕分けしたものであって、定家がこのような序列を明示的に自著に記していた訳ではないが、彼の理想として思い描いた「序詞」が、「単なる後続語句の誘導役に終わらず、それ自体が独立した叙景詩としてのイメージの重みを持っているもの」であろうことに何の疑念もない強い確信を抱くこの筆者としては、その「イメージ訴求力」の<強いもの=優>・<強くないもの=可>・<皆無・微弱のもの=凡>というこの序列が、定家その人の評定に限りなく近いものであろうとの確信もまた強い。
 ともあれ、参照程度にどうぞ:
<「序詞」の ― イメージ訴求力の強弱による ― 品定め>
<凡>・・・「掛詞」(その他)に依存した言葉遊びでしかなく、イメージ連想皆無(又は微弱)のもの
第16番歌「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」
・・・「まつ」=「松」→「待つ」
第25番歌「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」
・・・「さねかづら」→「繰る」→「来る」
第39番歌「浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき」
・・・「しの」=「篠」→「忍」
第51番歌「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」
・・・「さしもぐさ」=「指焼草」→「然しも」
第92番歌「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」
・・・「沖の石」→「潮干に見えぬ」→「人こそ知らね」
<可>・・・ある程度までのイメージ連想を伴うが、情景として独り立ちできるほどの視覚的訴求力のないもの
第19番歌「難波潟みじかきのふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」
・・・「ふし」=「節」→「臥し」
第20番歌「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」
・・・「みをつくし」=「澪標」→「身を尽くし」
第27番歌「みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ」
・・・「いづみ川」→「いつ見きとてか」
第58番歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」
・・・「風吹けば」→「そよそよ」→「いでそよ」
第88番歌「難波江のかりねの一夜ゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき」
・・・「かりね」=「刈り根」→「仮寝」/「ひとよ」=「一節」→「一夜」
<優>・・・「序詞」部分自体が、叙景詩として独立した味わいを持つもの
第3番歌「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」
第13番歌「筑波嶺の峰より落つるみなの河恋ぞ積もりて淵となりぬる」
第14番歌「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」
第18番歌「住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」
第46番歌「由良の門を渡る舟人梶緒絶えゆくへも知らぬ恋の道かな」
第48番歌「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな」
第49番歌「御垣守衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ」
第77番歌「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」
第97番歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」
 ・・・「序詞」として片付けるには意味が重すぎる導出部を含む歌、ということで言えば、順徳の次の歌:
第100番歌「百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」
に於ける「百敷や古き軒端の」までの部分も「"しのぶ・シノブグサ"=<ぶ/忍ぶ>にもなほあまりある昔なりけり」の「序詞」となっている、という解釈も可能である。が、そう解釈する人や本は殆どない:「承久の乱」(1221)で鎌倉幕府打倒を図り、失敗して配流となったこの順徳上皇の歌に於いて、「皇居の伝統ある古き軒先(に生えるシノブグサ)」のイメージの重みは、「懐かしく思い出してもなお余りある昔/耐え忍ぼうにも耐え難き今」という主意部に対して堂々たる存在感を有しているし、主意部に於ける感情の契機としても機能する、という密接な意味上の連動性を有しているからである。
 この伝で言うならば、第13番歌の「筑波山麓男女ノ川の叙景」、第16番歌の「在原行平因幡の国への旅立ちの経緯」、第97番歌の「松帆の浦の製塩風景」、いずれもそれ自体が歌の主役となって自己主張を始め、「序詞扱い」を拒絶するかもしれぬ存在感を有している・・・事程左様に、「序詞」の修辞は微妙・曖昧であり、ある人にとっては「序詞」であるものが、他の人にとっては「本意」であったりするものである。
 最後に、和歌の世界の大立者、この『小倉百人一首』の生みの親、藤原定家個人のプロフィールをまとめておこう。
 藤原定家(1162-1241)は、歌壇の大御所藤原俊成(1104-1204)の二男(長男は成家)。藤原北家御子左流(藤原道長の第六男の長家を祖とする家)」の出身であるが、この家柄は、栄華を誇った道長末裔としては政治的に不遇な傍流で、官位の「極官(=家柄によって決まっている到達可能限界)」は「権大納言(=名目上の大納言)」止まり。父の俊成も(わずか10歳にして父の俊忠を失ったせいもあって)官途では辛酸をたが(最終的には皇太后宮大夫・正三位)、定家も生涯にって栄達を渇望しながら本意は遂げられなかった。既に鎌倉の世に入っていた1202年に41歳で左近衛中将に昇進して後、長く昇進を得られず、姉(九条尼)が有力者に荘園を寄進した見返りとして(いわば贈賄工作によって)ようやく「参議」に到達して「公卿」の仲間入りを果たした時には既に51歳。72歳で最高位「権中納言・正二位」に到達した翌年に出家して法名「明静」を名乗り、80歳で大往生を遂げている。
 このように政治の方面では振るわなかったものの、歌道の家柄としての「二条家」の地位は、俊成・定家親子の活躍によって確たるものとなった。定家直系の二条流は室町時代に断絶するが、分家の「冷泉家」としてその後も存続し、冷泉四家と呼ばれる「上冷泉家・下冷泉家・藤谷家・入江家」として現代にも残る。
 以下、定家の文芸的業績の数々を、箇条書きで記しておこう:
1)『土佐日記』・『源氏物語』の書写・注釈と「定家仮名遣い」:
 鎌倉初期には発音の変化によって表記が混乱していた平仮名「を・お・ほ」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」「わ・は」「む・う・ふ」に関して、平安時代の古典的文物を定家が書き写す過程で考案した(とされる)ひらがな表記法が「定家仮名遣い」。定家の子孫である室町時代の僧の行阿(俗名 源知行)が確立し、江戸時代まで広く用いられた。
 この定家仮名遣いは、明治政府が(王政復古的思想から)平安時代に立ち返ろうとして「歴史的に正統なる仮名遣」と称しての「歴史的仮名遣」なるヘンテコな代物を復活させた結果として廃れたが、そもそも「文法」も「語源」も「語法」も極めて恣意的で(英語などに比すれば)確たる原理・原則を持たぬ日本語(この解題集を通読すればその一端なりとも解るであろう)に於いて、「文法・語源に忠実なる仮名遣い」という発想そのものが愚かなる論理的矛盾をんでいることを認識する程度の古典文法力・単語力と言語学的パースペクティブを有する知識人であれば、このように愚かなる独断表記形態を「"正"仮名遣」と称する独善行為の知的愚劣性を、認識出来ぬ道理がない・・・現代でもなおこの表記に固執して書かれた「擬古文以外の文物」があれば、それは「語学も論理も知らぬ知的劣弱者が、他者と殊更に異なる自分を演出しようとしてよりすがっただけの、全くのクズ」と断じればよいのである。少なくとも、ラテン系言語(英語を含む)の文法・語彙の理路整然たる透徹した論理一貫性をわがものとした知識人であれば、その種の愚挙は絶対に犯さない。
2)『名月記』と「定家流」(1180-1235):
 18歳から74歳までの時期にる、漢文表記による定家自筆の日記。但し、官途に恵まれず、中央の政治の現場に居合わせる機会に乏しかった定家であるから、間接的に収集した情報の記載が多く、その意味では、政治の王道(覇道?)を突き進んだ藤原道長の個人日記『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)のような歴史資料としての高い価値はない。
 むしろ、歌道の大家としての藤原定家の個人的記録としての価値と、極めて癖の強い(決して能筆とは呼び難い)所謂定家流」と呼ばれる彼の自筆(江戸時代の小堀遠州などはこれを好んだ)の人気ゆえに、かなり初期からその一部は蒐集家垂涎の的となって散逸したが、原本の大部分は現代でも「冷泉家時雨亭文庫」に残り、西暦2000年には国宝指定を受けている。
 このほか、定家自筆の「国宝」指定書としては、後鳥羽上皇の熊野行幸に随行した際の記録『熊野御幸記』がある。
3)『松浦宮物語』(鎌倉初期):
 平安初期の『宇津保物語』(by源順?)や平安中期の『浜松中納言物語』(by菅原孝標女?)の影響を受けて、定家が(恐らくは二十代後半に)書いたとされる作り物語。主人公が中国(唐)に渡って出世したり戦争したり恋愛したりの伝奇浪漫。物語としての統一性には乏しく、やはり定家は「歌人」であって「小説家」ではない、の感を催させる・・・このあたり、『源氏物語』の作者紫式部が「小説家」ではあっても「(優れた)歌人」ではなかったのと、好対照である。
4)『詠歌大概』(鎌倉初期):
 文字通りの「和歌の詠み方概論」で、本歌取りの作法等の具体的な方法論を述べ、定家の歌論の中で最も広く流布した本。
5)『近代秀歌』(1209):
 鎌倉幕府三代将軍源実朝の質問への返答として書簡体で書かれたもの。『古今集』以来の和歌史を、秀歌の見本を交えて説き、定家の和歌の理想を述べた書。
6)『新古今和歌集』(1210~1216頃):
 六人の撰者の一人として加わった所謂「八代集」の最後を飾る勅撰和歌集。
7)『拾遺愚草』(1216以降):
 定家自薦の私家集四巻本。1216年以後、随時増補が加えられている。
8)『毎月抄』(1219):
 「和歌の十体」を、定家主唱の「有心体」を中心に説く歌論書(別名『和歌庭訓』・『定家卿消息』)。
9)『新勅撰和歌集』(1235):
 1232年に後堀河天皇の勅命を受け、定家単独で撰進した勅撰和歌集で、「八代集」以後の所謂「十三代集」の最初のもの。前作『新古今集』の「」はなりをめ、定家晩年の趣味を反映して「わび・さび」の効いた恬淡の境地を現出する作品が多く、この作風が以後「二条流」には「」として重んじられ、中世和歌の底流をなすこととなる。
10)『小倉百人一首』(1235頃):
 藤原北家道兼流)の宇都宮頼綱蓮生)が京都嵯峨野に営んだ小倉山荘のの色紙に、定家が選び抜いた百人の異なる歌人による百首の短歌を、装飾用に書き添えたもの。
 いずれが先発後発かは不明だが、姉妹編『百人秀歌』がある。
 近世以降は所謂「お正月のカルタ取り」という攻撃的遊びの材料となり、和歌そのものの解釈はなおざりにされ続けてきた・・・それもむべなるかな、であろう:この解題集を見れば、お正月によい子のみんなでワイワイやるのには相応しからぬ猥談ネタが、斯くも豊富に含まれているのであるから。
 丁度、英語の意味を知らぬのをよいこと(?)に「FUCK ME!」とプリントされたTシャツを着て平然と街を歩いている日本人がいたり、うら若き乙女が何も知らずにThe Beatlesの(というか、John Lennonの)野性味丸出しの歌詩"Come on! Come on! Come on! Come on! Please, please me, oh yeah, like I please you [sexually in bed]!"を気持ちよさげにシャウトしたりするのと同様に、歌に込められた情念の深さも知らぬまま、「嘆きつつひとり寝る夜のあくる間は・・・」などとやっている訳である・・・げにげに「いかに由々しきものとかは知る」歌の数々を、解題しつつ日本の古典・言語・国民性等々の諸問題に光を当てる好個の材料として、選抜・提供して戴いた定家卿に、改めて感謝、である。

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