百一099解題)人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
『続後撰集』雑中・一二〇二(後鳥羽院:ごとばゐん)(男性)

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解題

 「をし=惜し・愛し」と「うらめし=怨めし・恨めし」は対立する感情である。が、相互補完的感情でもある。キリスト様でもない限り、人は「愛」一辺倒には生きられないし、地獄の魔王ルシファーでさえも、「憎」に徹しきれぬ天界・人間界への「愛着」に揺れる部分があるからこそ、古来西欧一級の文人達は、こぞって彼の心の闇を自らのペンで照らし出そうとしてきたのである。愛憎は時計の振り子のようなもの、一方へ行ったきり返ってこないことなどあり得ないし、愛の振り幅が大きい人は、憎しみに走る時もまた極端なものである。
 ある時は愛おしく、またある時は恨めしい、そんな当たり前の人間的感情の揺れも、「世を思ふ故に物思ふ身」の人物の口から語られれば、単なる個人的慨嘆以上の色彩を帯びてくる。しかも、この慨嘆、「あぢきなし」と形容される種類の「愛憎」であり、更にその「あぢきなし」は「世を思ふ故に物思ふ(事)」にも錯綜的に掛かって見える上に、「あぢきなし」自体が何色もの異なる輝きを放つ玉虫色の形容詞であるのだから、この歌の解釈も実に微妙になってくるのである。
 「あぢきなし」の語源は「あづき」:アンコの原料ではなく、「文付き=論理」の意味である。これに「無し」を付けた「非論理的」の原義から、幾つもの逸脱語義を生じた古語である。各語義ごとに生じるこの歌の玉虫色解釈の数々を、以下に箇条書き的に整理してみることにしよう:
1)「(論理・倫理に照らして)あまりにも度外れていることを非難する語」=無茶苦茶だ:
・・・この解釈だと、「まったく、今の世の中、無茶苦茶だよ」と「世間を憂慮するが故に物思いに浸る」の感覚となる。
2)「(論理・秩序・理想を外れたひどい状況を)自分の力ではどうにも出来ぬ無力感を嘆く語」=情けない:
3)「(行動の結果や効力に期待が持てず)事を為すにも張り合いがない弱気な語」=空しい:
・・・これらを当てはめれば、「世の中、これじゃ駄目だ、何とかしなくちゃ」と「天下国家を憂うが故の物思い」をしてみたとて「所詮、私一人思い悩んだり足掻いたりしてみたところで、世の中は変わらない・・・のが、情けないし、空しい」の意味が浮かび上がってくる。
4)「(社交・恋愛等の対人関係がうまく行かず)幸福とは言えぬ我が身の状況に心乱れる語」=せつない:
・・・この「切ない・辛い・やるせない」の語感は、初句・第二句の「人も愛し/人も恨めし」のアンビバレント(二つの思いに揺れる)心情と結び付いて、「あぁ、もっと、人々をおしなべて"愛しい"と言えるようになればいいのに・・・"恨めしい"こともあるのが、悲しいことだなあ」の響きを生む。
5)「(副詞的に用いて)確たる理由も確かな予測もないまま事が起こるさまを表わす語」=思い掛けず・無性に
・・・そうして、どうしたって結局どうにもならない憂愁を抱えたこの人は、愛憎相半ばする「世の中」や「人々」のことを、しかしそれでも「無性に」思わずにはいられないのである。
 「本来あるべき正しい姿」に照らしての「あまりにも正道を外れた現在の世の中」への憂慮と、「正しい姿に立ち返らせるための世直し」の計略は、多く、概念的である:「世の中」だけを見ていて「人々」を忘れがちである。「世の中の仕組みを完璧に正しいものとすれば、自動的に、その中に生きる人々もまた、正しく幸せなものになるだ」 ― これが、システム理論というものである。その最たるものが「共産主義」である:曰く ― 「万人の労働力の向かうべき目標とその成果を国家が一元管理し、課役負担と労働の成果とを万人に平等に配分することで、人々はみな、飢え・強欲搾取・失業等々の資本主義経済社会の悪弊から、解放される」・・・この「頭で考えた理想郷プラン」には、「国家」だけがあって「人間」がなかった・・・が故に、70年以上もの時と膨大な数の人間の(不幸な)人生を費やした「壮大なる失敗例」として、二十世紀末の歴史とその時代を生きた人々の記憶に刻まれることとなったのが、「共産主義」である。と同時に、多くの短絡的現代人の自己満足的な想念の中に、「資本主義の勝利」などという噴飯ものの誤謬に満ちた過信を植え付けるという逆効果をも生んだのが、「共産主義の崩壊」である:一世紀半も昔にマルクス・エンゲルスが看破していた資本主義の限界点への反省故に生まれた共産主義が、その実験の失敗によって、とうに行き詰まっている資本主義に対して「免罪符」を発行することとなってしまったのである・・・愚かなる現代人の眼前で「もはや資本主義では立ち行かない」と論じてみるがよい ― 「このバカ、じゃあ共産主義のほうがいい、って言うのかよ!?オマエ、歴史も知らない愚か者だなっ!」という判で押したような短絡反応が待っているだけである・・・共産主義の失敗によって、資本主義の、資本主義内部からの自浄作用が機能する余地は、この種の短絡知性の愚かな人間どもに「資本主義はやはり正しかったのだ」という愚劣極まる思い違いを与えてしまったことによって、大きく削がれてしまったのだ:いずれ倒れるべくして倒れるその時には(共産主義国家の崩壊劇の時以上の)壮大なる悲劇を伴いつつ崩壊することになるのであろう、この「免罪符をもらってしまった瀕死の資本主義」は・・・存外、そうした形でのしっぺ返しこそが、「共産主義から資本主義への最悪の痛撃」として、歴史の大いなる手の用意した皮肉なるシナリオなのかもしれないが・・・。
 話が「国家」や「世界」や「歴史」といった「概念の」に及べば、論者がいかに読者を ― 「の中の人々」を ― おいてけぼりにして独走するかの一例を提示したところで、話を元に戻すが、この歌の中で「人"も"をし」・「人"も"うらめし」とっている点に、読者は、お気付きであろうか?気付かぬ人は、ここを敢えて「人"は"をし」・「人"は"うらめし」と変えて読んでみると、どうであろう、「人々」と「世の中」とが、対立項を形成して反目し合うのが感じ取れるのではないか?この詠み手はそうはわない:「人もをし/人もうらめし」がこの人の立場なのであり、「世の中のことをあれこれ思う」けど「人々のことも、やっぱり、思う」のである。「世直し」をあれこれ考えても、同時にこの詠み手脳裏に浮かぶのは「人々」なのである。「"人は"とりあえず置いといて、"国を"まず正しく改めなければ」という頭でっかちで心の伴わぬ改革論者の発想とは、異なる地平の上に、この詠み手のこの歌は、立っているのである。
 「世を思う・・・けど、人も思う・・・憎らしい・・・けど、愛おしい・・・このままじゃ駄目だ・・・けど、私一人あれこれ悩んでじたばた足掻いて、それで何になる?・・・あぢきなし・・・空しいけれど、無性にそう思わざるを得ないのだよ、この私は・・・世を思ふ故に物思ふ身の、"後鳥羽上皇"その人なのだからね、この詠み手は」・・・これは、そういう歌であり、このほぼ十年後に、この詠み手は、鎌倉幕府打倒の企て『承久の乱』(1221)を起こして、呆気なく敗れ去ることになる。
 愛憎相半ばするこの歌に似て、詠み手後鳥羽上皇(82代)も毀誉褒貶相半ばする人である。政治的には完全なる「失敗者」の烙印を押された人だが、文芸世界でこの人を敗残者呼ばわりする者は誰一人としていない。
 平安末期、既に京都の貴族社会は、爛熟頽廃の極にあった。自らは働かず、日本の各地から徴収する税収に頼る中央の朝廷とそこに群がる公家達をよそに、地方では、その土地に実際に根を下ろし、領主としてこれを政治・経済的に支配・管理する人々の中から、土着の人々との地縁的結び付きの中で「武士団」を形成する勢力が、着実に力を付けていた。その代表格が、かつての皇族から臣籍降下した人々の末裔の「平氏」と「源氏」である。
 有力武士団である源平の勢力争いは、崇徳上皇(75代)の「院政」と後白河天皇(77代)の対立構図とも絡み合い、「保元の乱」(1156)という形で京の都を騒乱に巻き込んだ。先制攻撃で勝利を収めた後白河側は、敗残の崇徳側に加担した者達を厳しく処断し、約350年ぶりに「斬罪」を復活させるなどして、武断的な時代の到来と平安の世の終わりを人々に実感させた。
 後白河は、側近の信西の発案で、全国に乱立していた荘園を天皇の統治下に置くことを柱とした国政改革の推進を図る。その過程で、西日本の広域を支配していた平氏勢力への接近を図り、その武力を頼むようになる。その頭目が、あの平清盛(1118-1181)である。
 「保元の乱」の2年後(1158)、後白河天皇は、実子守仁親王に譲位(二条天皇:78代)して、後白河上皇となる。二条天皇は、その祖父である鳥羽天皇(74代)の美福門院の養子として彼女の元で(おむつをしている時代から)我が子同然に育てられ、実父後白河とは疎遠であった。そもそも後白河は、この二条天皇が成人して帝位にくまでのつなぎ役としての(子が親を飛び越えて帝位にくのはまずいだろう、という体面を保つための)「ワンポイント天皇」として据えられたものでしかなかったのである。だが、「保元の乱」に勝利し、政権維持に執着した後白河は、譲位した後も院政を敷いて実権を握り続けようとした。ここに、二条天皇の後ろ盾である美福門院側の「二条親政派」との間に政治的対立が生まれ、御所をも巻き込んだ騒乱がまたもや発生する:「平治の乱」(1159)である。今回もまた、最初に攻撃を仕掛けたのは後白河側(院の側近の藤原信頼+武将の源義朝)。御所に攻め込んで二条天皇(+後白河院自身)を一時軟禁状態に置き、両者を奉じて政治の実権を我がものにしようと図った信頼後白河院は一見被害者だが、実は黒幕、との説もある)側であったが、平清盛に二条天皇を奪取され、義朝は敗走して源氏勢力は散り散りになって平家一門の優位が確定し、藤原信頼は引っ立てられて処刑され、有力家臣を失った後白河院は、表面的にはなりをめながらも、裏工作による政治への介入を続けては、幾度もの失敗にもめげずにしつこく復活を果たしつつ、自らの保身と実力伸長を目指す過程で、平安の世を加速度的に疲弊させて行く。
 こうした複雑怪奇な平安末の京都の政治力学について、これ以上あまりくどくどと述べても、文芸史的な意味は薄かろうから、以下は、この動乱の時代の舞台に上がった主要な役者ごとに、その毀誉褒貶を箇条書きで流すことにしよう:
1)「平氏(特に、平清盛)」
・・・「保元の乱」・「平治の乱」の二度にわたり勝利に貢献した実績を買われて、武家としては初めて中央に進出、武力にものを言わせて京都を支配し、朝廷の主要な官位を一族の者で独占した上、日宋貿易の拠点となる商業港としての「福原」(現在の神戸)への遷都を行なう(後に再び京都に戻すが)等、既に頽廃しきっていた平安公家社会の終焉を決定付け、歴史の転換を強力に促した。
・・・が、平氏一門の専横は、結局、「武家の台頭」というよりも「旧公家層が、"平家"という名の新公家層に置き換えられただけ」であって、新時代の到来を告げるものというより、旧時代の幕引き役に過ぎなかった。
2)「源氏」
・・・「平治の乱」の敗残者側として、一時その勢力は削がれたかに見えたが、京都で専横の限りを尽くす平家一門への不満を糾合して、東国より兵力を集めて再結集し、幾度もの合戦を経て、遂に瀬戸内海・屋島での「壇ノ浦の合戦」で平氏を滅亡させる(1185)。
・・・最大の軍功を誇った源義経(1159-1189)は、しかし、京都にあってしぶとく暗躍する後白河法皇に取り込まれ、鎌倉にあって源氏を統括する兄の頼朝に無断で官位を受けたりしたため、平家とは異なる完全なる武家政権の樹立を目指す頼朝と対立する羽目に陥り、奥州平泉に追い詰められて自決する運命を辿る。
・・・武家政権樹立という源頼朝の願いは、1192年に彼が「征夷大将軍」に任ぜられて鎌倉幕府を開いたことで結実するが、彼自身は道半ばにして55歳で急死してしまう(1199)。
・・・急遽将軍職を継いだ息子頼家の代には、後ろ盾となった比企氏(現在の埼玉を基盤とする関東の豪族)と、母である北条政子(1157-1225)の実家の北条氏(伊豆半島に勢力を持つ桓武平氏高望流末裔)の勢力争いが表面化し、北条氏の攻撃を受けて比企氏は滅亡、頼家伊豆修善寺に幽閉された末に(北条の手で)暗殺される。
・・・頼家の後を継いだ(やはり政子の子の)第三代将軍源実朝(1192-1219)は、武家よりは公家に近い性格で、蹴鞠や和歌に御執心。朝廷から賜わる官位を熱望し、待望の「右大臣」をもらって大喜びで鶴岡八幡宮にお祝い詣でに出かけたところを、頼家の息子の公暁に(首と胴体を切り離される形で)斬殺され、ここに、頼朝直系の源氏将軍の血統は三代にして断絶することになる(1219)。
 こうした中、1221年、鎌倉幕府の台頭に不満を抱いた後鳥羽上皇とその息子の順徳上皇は、反武家勢力を糾合して「承久の乱」を起こしたのである・・・が、追従する者は公家勢力の中にも殆どなく、呆気なく敗退した末に、騒乱の責任を問われて、後鳥羽上皇は隠岐島に(順徳佐渡島に)流され、現地でその生涯を閉じることになる:享年60歳。
 このように、政治的にはまったく振るわなかった後鳥羽上皇であるが、文芸史に於ける彼の名は、平安の世の最後を飾るに相応しい象徴的なものとして、「菊一文字」と「新古今和歌集」と共に、末永く語り伝えられることとなるのである。
1)「名刀 菊一文字」:
 空しい暴挙には終わったが、鎌倉幕府打倒を企てただけあって、後鳥羽上皇は、自ら刀の鍛造作業(の一部)に参加するほどの武人的性格をも有していた。特に、備前名匠則宗鍛えさせた刀に自ら「菊」の紋の焼き入れをし、その銘に「一」と刻んだ刀は「菊一文字」として史上名高い。現代まで続く皇室の「菊花」紋章は、この刀に始まるものである。
 この「伝説の名刀 菊一文字」は、幕末を駆け抜けた新撰組の一番隊長にして、肺結核で二十代半ばに落命する「沖田総司」の愛刀、ということになっている;が、無論これはフィクションである。600年も昔の美術品的価値のある名刀を、実戦道具として振り回すような真似を、真剣勝負に命を賭けた新撰組の隊士がする道理がない。そんなことを百も承知で、沖田の手に菊一文字を握らせたのは、名作『新撰組血風録』を書いた小説家司馬遼太郎である。崩れ行く公家の世の最後の徒花として「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇の無念の象徴としての「菊一文字」は、滅び行く徳川幕府に殉じて武士の世の終章を血刀で描いた幕末新撰組の中でも最も儚く散っていった「悲劇の美剣士」として沖田総司を描くにあたり、この上なく理想的な得物である、と司馬は見たのであろう。局長近藤勇の愛刀「会津虎徹」や、副長土方歳三の「和泉守兼定」等に関しては、史実を下敷きにしたエピソードを用意している司馬遼太郎だが、「沖田総司菊一文字」に於いては「dramatic license:劇中ならではの創作的放縦」を堂々と駆使している。和歌の言葉で言うならば、「菊一文字」と「沖田総司」は、「平安末の公家」と「幕末の武家」のメタファー隠喩)として、「滅び」の関係でつながる「縁語」なのである。
2)「歌道への傾倒と、新古今和歌集」:
 後鳥羽上皇の歌道への傾倒が始まるのは、1198年に息子の土御門天皇(83代)に譲位して以降のことである。歌会・歌合せを盛んに催したが、特に、史上空前規模の「千五百番歌合」は、崩れ行く平安の世への上皇の憧憬の大きさをそのまま形にしたかのような一大ページェントとして、特筆に値するものであろう。
 歌道の師匠として後鳥羽上皇が選んだのは、既に1188年に第七の勅撰和歌集『千載和歌集』を(後白河院の院宣で)撰進していた藤原俊成であった;が、後鳥羽上皇の作風により強い影響を与えたのは、俊成の息子の定家の方である。
 定家に代表される(後に「新古今歌人」と称される)当時新進気鋭の歌詠み達の短歌は、保守的な歌壇の人々からは「新儀非拠達磨歌」などと揶揄されていた。伝統的な天台宗の教えから逸脱する難解な教義を説くものとして総本山の比叡山から迫害を受けていた「日本達磨宗」という当時新興の禅宗の一派の名を引いて、伝統的な詠歌作法に依拠せぬ奇抜な表現や、語句の背後に複雑な意味の織り込み/読み込みを好む韜晦趣味が、保守層の批判を招いていたのである・・・この批判は、「新古今歌」に対する(少なからぬ数の)現代読者の違和感・難渋・拒否反応に通じるものがあろう。彼らの歌は、良く言えば精緻にして濃密な含蓄に満ちているが、悪く言えば複雑すぎて素直でなく、「わからんやつにはわかるまい」という高飛車な排他性を漂わせる(ある種、嫌味な)高尚さに満ちているのである。
 ともあれ、後鳥羽上皇は定家の作風を深く愛し、自らもその作風に染まって行った。そして遂に、和歌の世界の隆盛を導く契機となったあの『古今和歌集』(905)の再来を目指した『新古今和歌集』の勅宣を出すに当たっては、定家をその中核的撰者に据えることになるのである。
 1201年には「和歌所」が置かれて、14名の「寄人」<藤原定家藤原家隆・藤原(六条)有家・藤原(飛鳥井雅経源通具寂蓮釈阿(=出家した藤原俊成)・藤原隆信・藤原秀能・藤原良経・源通親・源具親慈円鴨長明>が召集され、この中から最終的に藤原定家藤原家隆・藤原(六条)有家・藤原(飛鳥井雅経源通具寂蓮(成立前に没)の6名を撰者として『新古今集』は成立する。久しく「単一編者体制」で編まれてきた勅撰和歌集を、『古今集』の例にって複数撰者の協議によって選ばせる体制を取り、後鳥羽上皇自らも実質的に7人目の撰者となって、1205年に初版が成立した。しかし、「切り継ぎ」(改編)作業はなおも続く。吟味に吟味を重ねた末に、最終版が完成したのは1210年から1216年頃、とされている。「和歌所」設置から実に15年もの濃密なる取捨選択の過程を経て成立した和歌集は、後にも先にもこの『新古今集』以外にない・・・編集過程の政争や歌壇内派閥抗争による作業遅延で20年以上もの無益な時間を要した『玉葉和歌集』(1313)のような不名誉な例外はあるが。
 収録和歌数は1979首(全て短歌)。これは所謂「八代集」中では最大である。隠岐に流された後も後鳥羽上皇はこの歌集の吟味を続け、「400首ほど除いた約1500首の和歌を正統なる新古今和歌集とする」という(・・・島流しの上皇のこの言葉の響きはやや空しいが・・・)を出している:それに従って内容を切り詰めたものを『隠岐本 新古今和歌集』と呼ぶ。
 とにもかくにも、後鳥羽上皇の執念と、終わり行く平安の世への幾多の歌人の郷愁とが、一つに結実したような作品が『新古今和歌集』なのである・・・そこに、濃密なる深みが宿らぬがない。その独特な色彩ゆえに、「新古今」の作風は、爾来、様々な語り方をされてきた。曰く「体言止め・初句切れの多用」、曰く「本歌取り・本説取りによる物語性の演出」、曰く韜晦趣味の難解さ」・・・それらをここで繰り返し指摘しても意味が薄いので、この解題の締めくくりには、この文章の筆者の批判的眼で切り分けた「新古今の臭み」 ― 即ち、うまく決まればよいものの、しばしばツボを外して失笑を買ったり、しつこく同じ必殺技を繰り出そうとしすぎて鼻についたりしがちな(失敗作に陥った時の"戦犯"として指摘されるような)特徴 ― を以下に示しておくことにしよう:
1)「ケツ名詞」:
 結句に使えば「体言止め」、文中にポンと置けば「句切れを招く名詞締め」。その名詞にまつわる様々な情趣を、詠み手の言葉で表わすことはせず、読み手の自由な想念に委ねて記述を打ち切ってしまうことで、詠嘆・含蓄の効果を生むことを狙いとする・・・が、ややもすれば、自らの言葉で思いを語る能力もないヘボ詩人の責任逃れの言い訳として悪用されがちな技法。「そもそもその名詞にまつわる想念が如何なるものであったのか」の自己検証すらもないがしろにしたまま「ケツ名詞」でブッタ切って「後は自由に想像して」という無責任な使われ方をすることも非常に多いので、「新古今調」批判の槍玉として真っ先に浮かぶのがこれ。
2)「つつぼかし」:
 そもそもは『古今集』に始まるもので、同時進行性の動作を言外に匂わせることで詠嘆効果を生もうとする接続助詞「つつ」をやたら多用したがるのも「新古今調」。上述の「ケツ名詞」同様、詠嘆大好きヘボ詩人が「伝家の大刀」の如く得意気に振り回す、ハズレの極めて多い「無責任曖昧逃げ打ち修辞法」。
3)「けり逃げ」:
 同じく「詠嘆効果」を狙って記述の末尾に「・・・けり」/「・・・にけり」/「・・・なりけり」となりふり構わずケリ入れるやり方で、『古今集』(905)にある「春ごとに花の盛りはありなめど見むことは命なりけり」(・・・春が来る、花は咲き、盛りを見逃せば残念な気持ちにもなるけれど、こうして今年もまたその花に会えたってことは、私の命がまだあったから、ということで、綺麗な盛りに出会って上げる感嘆の声も、散り行く花を見てつく溜め息も、どちらも私が、そして花が、ちゃんと生きている証し、命あればこその感慨、なのだよなあ)(春下・九七・よみ人しらず)に於ける「命なりけり」のような(ある意味)生煮えの表現が生み出す逆説的な含蓄の深みにあやかろうとしてこの「けり付きフレーズ」を多用し、繰り出すケリのキック力で歌の立ち位置を微妙にボカしつつ何となく深いこと言ってる、みたいなぁー、そんな感じ、で、読み手を煙に巻いちゃおっかなー、ってノリだけど、よく見れば歌の内容にきっちりけりをつけて締めくくっている訳でも何でもない「お軽い深刻ぶりたがり未消化エンディング」、が多かったりするのである。
4)「ののの攻め」:
 「裏の苫屋の秋の夕暮れ」に見られる「―NO―NO―NO」のような形で、スキップするようなリズム感を演出する「新古今調」お馴染みの言葉遣い・・・であるが、ハズせばこれまたしつこいだけのアホっちい修辞法に成り下がる。
・・・これらは、「出来損ないの新古今調」の醜い痣のようなものである。優れた新古今歌の修辞法とその特徴については、上記の如き箇条書きで片付けることなど到底不可能な深い味わいに満ちているが故に、この『小倉百人一首』解題集の中で個別的に探し出して鑑賞していただくよりほかに、論じようがないこと、言うまでもない。

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