百一100解題)百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
『続後撰集』雑下・一二〇五(順徳院:じゅんとくいん)(男性)

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解題

 この歌の作者は順徳天皇(84代)。第99番歌作者である鳥羽天皇(82代)の第三皇子。前代は第一皇子土御門天皇(83代)だが、土御門は4歳の時に鳥羽天皇から譲位された「名ばかりの天皇」で、その後も後鳥羽上皇が院政を行なっていたから、実権はなく、16歳の時には「性格が温厚すぎ、鎌倉幕府(特に、自らの養女が土御門帝の皇子を生んだため外祖父として政治の専横を進めていた ― 藤原定家曰く道鏡の再来」の ― 源通親)のいいなりになる」という理由で、無理矢理弟の順徳天皇に譲位させられてしまう。その父と弟はその後「承久の乱」(1221)で鎌倉幕府を倒そうとして果たせず、流罪になっているが、土御門上皇は無関係だったので罰せられなかったにもかかわらず、「父が島流しなのに自分だけ都にはいられない」と言って自主的に土佐に流れた(後日、より京都に近い阿波に移される)・・・なるほど、性格温和な人だったようである・・・あの「日蓮」が土御門上皇の皇胤、という伝説の所以もこのあたりにあろうか・・・20人以上ものご落胤がいた、というのも伝説の呼び水にはなったのであろうが・・・。
 そういう訳で、兄の土御門を廃して父の後鳥羽上皇が「反鎌倉幕府の旗頭としての天皇」に引っ張り出したほどの順徳天皇であるから、その気性は激しく、武家の勢力伸長/公家の勢力減退を、ひどく嘆き憤っていた。この歌は彼が二十歳頃の作品というから、即位後7年前後、倒幕のために決起する4年ほど前のことである。そうした時期の順徳帝の鎌倉幕府に対する不満を抜きにしては読めない作品だけに、『百人一首』の姉妹編『百人秀歌』の中からは、父後鳥羽上皇の第99番歌ともども、政治的理由から割愛されている、という曰く付きの歌である。
 「百敷」の組成は「百(=数が多いこと)+し(=石)+き(=木or城)」。それだけ大量の建材を用いて作られるのは当然「王宮」であり、「百敷の」の形で「大宮」に掛かる「枕詞」。転じて「百敷」を「宮中・皇居」の意味の名詞で用いるこの歌のような例も少なくない。
 この歌の作られたのが1217年前後、京都の平安京が奈良の平城京に代わって首都となったのは794年であるから、この「百敷」は築420年以上・・・「古き軒端」は当然のことであって、それだけ伝統の重みが宿っているのが皇居の建物の軒先なのであるが、そこを「しのぶ=忍ぶ草」が覆っている、というのだ:この「しのぶ」が、この歌のキーワードである。
 「しのぶぐさ」を「しのぶ」に縮めたのは、「しのぶ+にも」で五音にまとめる字数上の制約もあったろうが、同時にまた「植物の名称としての"シノブグサ"」+「昔を懐かしく思い出す意味の動詞としての"ぶ"」+「我慢ならぬ事態に耐える意味の動詞としての"忍ぶ"」という三つの役割を同時に果たすための作法でもある。
 「シノブグサ」、別名「ノキシノブ」は、岩石の表面や、古い家屋の屋根などを、うようにして覆う常緑性のシダ植物である。建物に縁のある「歌枕」として、「古さ」を強調するが、「荒れ放題」の印象はない。この点で「八重葎」のし出す草茫々のイメージなどとは異なる。「古さ」は「由緒」に通じ、苔生す時の重みを感じさせるものである。「百敷の古き軒端」に見るそれは、長い伝統を誇る皇室の権威そのものの象徴である。
 順徳天皇は、追憶に浸る・・・遠い昔を「しのぶ=ぶ」のだ・・・400年の長きに渡って、この宮城に、そして京の都に、展開されてきた優雅なる平安文化に、懐かしくわしく心和ませつつ、しばし時を忘れて、思い出の世界に遊ぶのだ。
 が、しかし、時を越えた追憶も、そう長くは続かない。その権威ある皇室をないがしろにして、今や政治を牛耳っているのは、関東の鎌倉幕府。北条氏を初めとする板東武者どもが、由緒ある京の都をさておいて、専横の限りを尽くしているのだ・・・順徳天皇は、怒りに震える・・・先程まで浸っていた古き良き公家の時代の思い出の余韻めやらぬ彼にとって、武家の我が物顔は「しのぶ=耐え忍ぶ」にも忍び難いものがある。時代の流れなのだ、仕方がないのだ、我慢するしかないのだ、などと、土御門上皇のように穏和な顔してやり過ごすには、過去の京都の思い出が、順徳帝には、そして後鳥羽上皇には、愛おしすぎて、重すぎて、とてもこのままではいられないのである。
 懐かしいにもほどがある京都400年の歴史への執着と、忌々しいにもほどがある鎌倉幕府を滅ぼさんとする執念が、「承久の乱」という虚しい不発の打ち上げ花火に結実して、平安の世の最後の徒花と散った後、罪を問われた順徳上皇は佐渡島に流され、その21年後、失意の生涯をその地で閉じている。享年45歳。
 順徳は、歌の道を藤原定家に学んでいる。立太子前(守成親王時代)に、式子内親王猶子(形式上の息子)となる話があった(結局は立ち消えになった)が、この内親王家は定家が親しく出入りしていたことで知られている。平安の世を懐かしむ心情が和歌の道を通じてつながっていたのであろうか、この時代の著名歌人・貴人達の相関図はかなり濃密に絡み合っている。
 佐渡配流後の順徳は、歌学書『八雲御抄』を著しているが、これは平安時代の歌論書の集大成を目指したものであるから、順徳個人の歌論とは言えない。
 一方、同じく彼が著した『禁秘抄』は、1221年の成立:『承久の乱』の直前に世に出たもので、有職故実 ― 朝廷儀式の由来とその意味 ― を次代皇子へ、更に子々孫々までの皇統へと、伝えようとして書いた本である。順徳の"作品"としては、こちらの方をこそ特筆すべきであろう・・・彼の倒幕の試みは虚しく終わったが、彼が伝えんと欲した古き良き朝廷のしきたりの数々は、この著作を通して、きちんと後代に伝わったのだから。
 『小倉百人一首』の最後を飾るこの100番歌は、掛詞「しのぶ」が見せた三つの顔が、「究極の意味の濃縮パック」として、味わい深い作品であった。僅か三十一文字の中で世界を構築せねばならぬ字数的制約に縛られた短歌の中では、使われる言葉の一つ一つが果たす役割の重さ・深さ・濃密さが、余所の世界の言葉とは比べものにならぬほどの水準に達している ― 達せざるを得ない ― のである。散文世界の「もっともっと愛し合っていたいのに、もう夜が明けてしまうなんて、心残り」の思いは「有明の月」の七文字に託して語るのが歌の話法であり、「この頃、私の夫/恋人は、自分のところへ通って来て愛の営みを交わしてくれることがあまりないの」は「よがれ(世離れ/夜涸れ)」の三字に集約した上で、更に「よがれ→良かれ」の掛詞をも「悪しかれ」の呼び水として対立的に使ってしまうのが和歌の言葉の欲張りな勤勉さである。こういう働き者の言葉達が織りなす空間なればこそ、三十一文字の狭苦しさが、逆説的に広大な小宇宙を演出するのが短歌の魔法である。「しのぶ」の意味も、「耐え"忍ぶ"」と「恋い"ぶ"」だけでは駄目で、「忍ぶ草・・・が覆うほどに時の重みを経た家屋」の連想が浮かんで来なければ、順徳天皇が目指したものは、わからない:更に言えば、順徳・後鳥羽の二人の上皇の『承久の乱』直前に於ける政治的・心理的状況をも踏まえねば、99番・100番歌の指し示す本当の意味も、浮かび上がっては来ないのである。
 こうした和歌の特性を、「読み解くのにあれこれ面倒な知識が必要になる鬱陶しいもの」と見る人は、和歌の世界には縁がない・・・「濃密で豊潤なめども尽きぬ意味やイメージの深みをこれだけ凝縮された言葉の空間に秘めている奇跡のような短文詩」と見る人だけが、和歌を能く読み、詠む人となるのだ。物体を構成する粒子を極限まで圧縮すると、物理学の世界では随分と不思議な奇跡的必然が生じるという。星の重力崩壊による凝縮は、ブラックホールとなって万物を吸い込んだり、超新星爆発となって新たな星の輝きを生むという。宇宙そのものの始まりもまた、「虚無」から「万物」が生じたビッグ・バン(Big Bang)であるという。極小は、窮屈な制約ではなくて、無限の広がりを生むエネルギーを蓄積するための、方法論的圧縮・・・宇宙も、短歌も、原理は同じ:全てを包含するために、余分なものの一切を捨て去った結果としての必然のものの姿は、美しいのである。

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