百一020文法)わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

品詞分解
わび【侘び】<自バ上二>連用形
ぬれ【ぬれ】<助動_完了>已然形
ば【ば】<接助>
いま【今】<名>
はた【将】<副>
おなじ【同じ】<形シク>終止形
なには【難波】<名>
なる【なる】<助動_断定>連体形
 みをつくし【】<名>・・・「澪標」
 み【】<名>・・・「身」
 を【】<格助>
 つくし【】<他サ四>連用形・・・「尽くし」
て【て】<格助>
も【も】<係助>
あは【逢は】<他ハ四>未然形
む【む】<助動_意志>終止形
と【と】<格助>
ぞ【ぞ】<係助>
おもふ【思ふ】<他ハ四>連体形・・・「ぞ」との係り結び

修辞法
掛詞

<みをつくし>
1)「澪標」
2)「身を尽くし」

縁語

<みをつくし>
(恋情に)「身を尽くし」・・・(水源標識の)「澪標」を介して「難波」につながる

序詞

「なにはなる」は「みをつくし」を導く
・・・「序詞」の本質を解り易く言えば、「歌の表わす主たる意味からは浮き上がった付随的存在で、主意に関わる後続語句を導き出すためにのみ置かれた、取って付けたような語句」ということになる。「主意に連なる象徴的連想」を含む場合はあるものの、あくまで主意部を導く「伏線」であって、意味の「本線」ではない、というのが「序詞」の本源的機能である(・・・それにこそ、在原行平の第16番歌に於ける「たちわかれいなばのやまのみねにおふる」を、後続部「まつとしきかばいまかへりこむ」に対する「伏線」としての「序詞」とはみなさぬ歌詠みが多い、という事実がある。「立ち別れ、因幡の国へ向かう」という前半部の趣旨が、この別れの歌の意味の全体構造の中では「本線」にあたるからである)。
・・・そうした「序詞」の本源的性質に照らしてみれば、この歌に於ける「難波なる」は「序詞」以外の何物でもない。後続の「澪標」転じて「身を尽くし」を導くためにのみ置かれた「難波なる」であって、「なには」に何ほどの意味もない。「名には成る」なる掛詞としての解釈もあるが、曲解に過ぎまい・・・この歌の場合、「不義密通の悪名」が既に世に立っているからこそ愛する女性との逢瀬の道が断たれているのであるから、今更「どう転んでも、悪しき名には成る」もないものであろう。かくて、意味の重みを有さぬこの「難波」は、後続部導出役としてのみ機能するという「序詞」の要件を満たしている。
・・・が、「序詞」にはまた「原則として、二句以上にまたがる」という説明がよく行なわれる。これは、統計学的に見て二句以上にまたがる例が多いから、という事情に左右されている面も確かにあるが、「枕詞」と「序詞」を対比するための便法として取って付けた無根拠な言い草の感が強い。「序詞」同様に特定語句導出という役割以上の意味を持たぬ(ように見える・・・が、本質的には直後の名詞一語にかかる限定修飾の形容詞である)「枕詞」が「五音から成る一句のみで用いる」という事実にのみ着目し、これと殊更に対照的な存在として「序詞」を位置付けようとした挙げ句の果ての「枕詞は一句のみ/序詞は二句以上」であろう・・・が、所詮本質に根差さぬ見せかけの対比条項に過ぎず、「歌学上の約束事」・「神聖不可侵の金科玉条」ではないので、この第20番歌という反証をもってその短絡への戒めとされたい。

歌枕

難波摂津の国)

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