百一055文法)滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

品詞分解
たき【滝】<名>
の【の】<格助>
おと【音】<名>
は【は】<係助>
たえ【絶え】<自ヤ下二>連用形
て【て】<接助>
ひさしく【久しく】<形シク>連用形
なり【なり】<自ラ四>連用形
ぬれ【ぬれ】<助動_完了>已然形
ど【ど】<接助>
な【名】<名>
こそ【こそ】<係助>
ながれ【流れ】<自ラ下二>連用形
て【て】<接助>
なほ【猶】<副>
きこえ【聞こえ】<自ヤ下二>連用形
けれ【けれ】<助動_詠嘆>已然形・・・「こそ」との係り結び

修辞法
縁語

<音>
(滝の)「音」=「物理的音響」・・・「社会的名声」の意味の「音」として「名」につながる
<なり>
(たえてひさしく)「なり」(ぬれど)=動詞「成る」・・・動詞「鳴る」を介して「音」につながる
<ぬれ>
(なり)「ぬれ」(ど)=助動詞「ぬ」・・・動詞「濡る」として「滝」につながる
<流れ>
(名こそ)「流れて」=「世間に流布して」・・・「水が流れる」の意味の「流れて」として「滝」につながる
<聞こえ>
(名こそ流れて猶)「聞こえ」(けれ)=「世間に評判が鳴り響く」・・・「耳に音が届く」の意味の「聞こえ」として(滝の)「音」につながる
・・・「縁語関係」にある語句どうしは、ふつう、中間に「第三の語」を介して結び付く:
第27番歌:みかのはら「わき(分き→湧き)」て流るる「いづみ(泉)」がは
に見るように、直接にはつながらぬ「分き」と「泉」が、第三の語「湧き」を介して連想上結び付く、という形を取る例が殆どである。
・・・が、この歌に含まれる五つの縁語(この数それ自体も常ならぬ多さであるが)のうち三つまでもが、「第三の語」を介することなく「第三の意味」を仲立ちとして縁語が成立している極めて珍しい例である・・・公任さん、明らかに、狙った上でこれをやっている・・・「どうです、あなたによめますか?」(詠めやせぬ、のは無論のこと、読めもせぬ、のとちがいますか?)という訳である。
・・・縁語含みの歌とは、このように、詩としての興趣などそっちのけでナゾナゾごっこに打ち興じる色彩の濃いもので、詩的には大方、何の興趣もないものになる(・・・この歌の場合、その「あっさり感」が、「縁語詠み込みのためのごってりとした作為」を感じさせぬという点で、売り物になってはいるのだが)・・・この種の謎掛けをぶっつけられた場合、「何の意味、それ?私にはちっとも読めません(読み取りたいとも思いません!)」と言ってしまえば自分の知的度量の小ささを小馬鹿にされそうで怖い・・・ので、大方の人はただもうってこう言うしかない ― 「ほほぉぅ。これはお見事!」「いやぁ、なかなか・・・」・・・実際には何がどう見事なのか、なかなかどうしてどうなのか、自身もさっぱり解らずとも、そうした反応以外を一切許さぬ嫌味な性質を有しているのが「縁語ウタ」というやつであって、たとえ詩的に見るべきものがなくとも、「そんなナゾナゾかましたり、解けて得意な顔したり、そんなおアソびに、いったい何の意味があるわけ?つまらん歌!大っ嫌い!」などと正論ぶちかましても座が白けるばかり・・・そうして座を白けさせぬためにお愛想笑い相槌打つのを嫌がる人は、この種の「高度な知的遊戯に興じている」(つもりの)御仁の輪の中には、最初からお呼びでない、ということになる。
・・・なればこそ、「縁語」の類の遊戯性に走りたがる人物(たち)の存在は、真の詩人を遠ざける癌細胞となるのである。松尾芭蕉が単なる「俳諧」に打ち興じる連中とを分かって一人旅する気分になったのも、誰でも出来るが故に誰もが走る陳腐な「言葉アソビ」への御相伴に我慢ならなくなったからこそ、であろうし、腰から下がない「五七五」を詠み出しただけで、「腰折れ歌」に終わるのを怖れて下の句を付けなかったり、他者に「末やいかに?」などとお鉢を回しては、「よくもつけたり」とか「やや、をかし」とか言い合ってお茶を濁したりの「俳諧連歌」の緩ーい自己満足への反動あったればこそ、「十七文字の中には必ず季語を織り込むべし!」という殊更にキツめの戒律を自らに課すことで、「末も決まらぬただの腰折れ」ではない「マジメな俳諧」という矛盾をはらむ営みへと自分自身を追い詰めて行ったのであろう。
・・・とにもかくにも「縁語」というやつ、和歌には両刃の剣、なのである。

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