百一089文法)玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

品詞分解
たまのを【玉の緒】<名>
よ【よ】<間投助>
たえ【絶え】<自ヤ下二>連用形
な【な】<助動_完了>未然形
ば【ば】<接助>
たえ【絶え】<自ヤ下二>連用形
ね【ね】<助動_完了>命令形
ながらへ【長らへ】<自ハ下二>已然形
ば【ば】<接助>
しのぶる【忍ぶる】<他バ上二>連体形
こと【事】<名>
の【の】<格助>
よわり【弱り】<自ラ四>連用形
も【も】<係助>
ぞ【ぞ】<係助>
する【する】<自サ変>連体形・・・「ぞ」との係り結び

修辞法
縁語

・・・巷間、この歌の中に次の縁語関係が成立すると説く書があるが、現実には成立しない:
<を>
(×)(たまの)「緒」・・・「絶え」につながる
・・・玉の「緒」(つなぎ止める糸状のもの)が「絶え」につながるのは当たり前の話、こうして直結してしまえばそれは「縁語」ではなく、直接的な「主語―述語」関係になってしまう。「直接的結合」ではなく、「間接的連想」により結ばれた語句どうしが「縁語」である以上、「たまのを」と「絶え」は、「縁語」ではない。
・・・「を」と「たえ」が縁語になるためには、中間に、無関係な第三の語句(または、意味)が介在せねばならぬのであって、例えば次の歌の中でなら、「を」と「たえ」の間に「縁語」関係が成立する:「緒」と「絶え」が直接に結びつくのではなく、第三の語「尾」を介して間接的につながる関係だからこそ、である:

 見る影も 絶えて久しき 枯れ花 風も避く身を 月な照らしそ
 みるかげも たえてひさしき かればな かぜもよくみを つきなてらしそ
「恋人が訪れてくれることも久しくなく、人目に触れることもないうちに、見る影もなく枯れてしまったススキの花のような私・・・秋風さえもが避けて通るそんな私の姿を、照らし出すのはやめてくださいな、お月さま。」

(C) fusau.com 2009

・・・気付いたであろうか、上の歌にはもう一つの縁語関係が潜んでいることに:
<かげ>
(恋人を訪ねることで施す恩恵としての)「影」・・・(物理的な月光としての)「影」(この歌の中には存在しない)を介して「月」につながる
・・・この場合、「影」と「月」との間に、第三の語句は介在しない。が、意味の上で「影」は二重の陰影を宿しており、「1)月影」とは異なる「2)恩恵」の意味で使われているこの歌の中の「影」は、「月」とは「直接的結合」を果たすことなく「間接的連想」として「縁語」の関係でつながり得るのである。
・・・「第三の語句」もなく、上例の如き「第三の意味」の介在もなしに「直接的結合」を果たしてしまう「たまのを」と「たえ」との間には、「縁語」関係は成立し得ないことが、御理解戴けたであろうか?
・・・中には、無理矢理強弁して次のような論法を振り回す者もいるかもしれない:
曰く、<「たまのを」とは、「魂の緒」であって「玉の緒」ではない。「"玉"の緒」ならば「真珠を糸でつないだもの」だから、そこでの「緒/絶え」は「直接的結合」ということになって「縁語」とは呼べないかもしれないが、「"魂"の緒」なのだから「間接的連想」となり、故に「縁語」関係が成立する>・・・馬鹿げた屁理屈である:そもそも「魂の緒」とは、人の「」(生命力)を「すぐに切れやすいいもの」に見立てる連想+「玉」と「魂」との同音性から成立した語句であり、その成立段階からにしてもう「魂の緒≒玉の緒」と「絶え」とは切っても切れぬ直接的関係にあったわけである:が故に、これらの「緒/絶え」が同一短歌中に(第三の語句も意味も中間に介在させることなしに)併存しているのをえて「縁語」と呼ぶのは、ナンセンスである。
・・・もっとも、「魂の緒」と「玉の緒」の同一性を感じ取ることもできずに全くの別語扱いしてしまうような人(現代日本人は大抵そうであろう)ならば、<「魂の緒」と「絶え」は「縁語」>と論じる資格あり、とも言えよう・・・が、その程度の文法・単語力では、和歌の修辞法を論じる資格なし、となることは言うまでもない。

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