方丈記001)永遠の河・一瞬の水(鴨長明の無常観:1212年3月末)

 行く河の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず。みに浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくまりたるしなし。世の中にある人とと、またかくのし。
 玉敷の都の内に、を並べ、を争へる、高き、しき、人の住まひは、世々を経て、尽きせぬものなれど、これをまことかとぬれば、昔ありし家はなり。去年焼けて、今年作れり。大家滅びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかに一人二人なり。に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のにぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。そのと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 陸にたたずむ私の前を、河は絶え間なく流れて行く。人の世の無常をよそに、終わることなく続く一筋の流れ・・・と見えるのはうわべだけで、実は、その流れを構成する一粒一粒の水の滴は、眼前を流れ去れば二度とは戻らない・・・見せかけの永遠の中の束の間の存在、その寄せ集めがこの世の実像なのだ。
激しい水の主流を外れて川縁の淀みに浮かぶ水の泡も、消えたかと思えばまた浮かんでの繰り返し、永らく水面に漂い続けたためしがない。
世の中に存在する人間もその住み家もやはり、眼前を流れ去る水、束の間浮かんではすぐ消える泡沫のごときものである。
 無数の石畳を敷き詰めた帝の住まわれる京の都のあちこちに建ち並んではその壮麗さを競い合う人々の住まいは、身分の高いもの下賤のものを問わず、幾世代を経て無数に存在する・・・という風に見えるけれど、本当に代々続いた家なのかといえば、実は、昔あった家々は今ではほとんど残っていない。
ある家は去年焼失して今年新築したものである。
かつて栄華を誇った大きな家が没落して細々と分家になってしまったものもある。
家々の住人についてもまた然りである。
家の場所こそ昔と変わらず、住んでいる人々の数も多いけれど、かつての知り合いの数など、二~三十人のうちにわずか一人か二人である。
朝に誰かが死んでは、夜に誰かが生まれるのが人の世のならい・・・その転変の激しさは、ただもう水の泡のはかなさにそっくりだ。
 水の流れやあぶくのように、生まれては死んでの繰り返し・・・そんな人間たちは、何処から来てどこへと去って行くのだろう・・・その答を私は知らない。
いずれにせよ束の間宿ってはすぐまた旅立たねばならぬ運命の儚い人生の中で、人は、誰のために苦悩を背負い込むのか、何を見ては歓を生じるのか・・・その答もまた、私にはわからない。
そんな無常の中に軒を連ねる仮の宿りの人々の住居とその住人とが、どちらがどれほど儚いか、変わり行く様態の激しさを競い合っている様子は、言うなれば、朝顔の花と露の我慢比べみたいなものだ。
ある時には、露が先に落ちた後もなお花びらだけはしぼまず残っている。
・・・残っているとは言っても、朝日が昇る頃にはもう枯れている。
ある時には逆に、朝顔の花はしぼんだ後も露は消えずに居座る。
・・・消えないとは言っても、夕日を拝める頃まで居続けることはできないのだ。

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