方丈記004)新都の沫・古都の果て(治承四年の都遷り:1180年6月26日~12月11日)

 また、治承四年水無月のころ、にはかに都遷りき。いと思ひのなりしことなり。おほかた、この京のはじめを聞けることは、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを、世の人安からずへあへる、実にことわりにもすぎたり。
 されど、とかく言ふかひなくて、より始めりて、大臣公卿みなことごとく移ろひひぬ。世にふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらん。に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとく移ろはんとはげみ、時を失ひ、世に余されて、するところなきものは、へながらまりをり。を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮かび、地は目の前にとなる。人の心みな改まりて、ただ、馬・をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海領所を願ひて、東北の庄園をこのまず。
 その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京にいたれり。所の有様を見るに、その地、ほどくて、条里を割るに足らず。北には山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすしく、潮風ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかかはりて、なるかたもり。日々にこぼち、川もに運び下す家、いづくに造れるにかあるらん。なほしき地は多く、造れる屋は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にをるものは、地を失ひてふ。今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手ぶりたちまちに改まりて、ただひなびたる武士にことならず。世の乱るる瑞相とかきけるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民のへつひにしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるか、ことごとくもとのにしも造らず。
 伝へ聞く、いにしへの御世には、あはれみをもて、国をふ。すなはち、殿ふきても、をだにととのへず。のともしきを見ふ時は、限りある貢物をさへゆるされき。これ、み、世を助けふによりてなり。今の世の有様、昔になぞらへて知りぬべし。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 また、治承四(1180)年の六月頃、突如、首都が京都から遙か彼方の土地(=福原、現在の神戸)に移されてしまった。
まったく思いも寄らない予想外の出来事であった。
そもそも、現在の京の都の起源を問えば、嵯峨天皇の御時世にこの地が首都と定まってから既に四百年余りを経ている。
それを、特別な理由もなしに安易に都を移すことなど出来る道理もないのだから、この遷都を巡って世の中の人々が不安を感じ不平を述べ合ったのは、まったく当然すぎるほど当然のことである。
 しかし、世論がああだこうだ言っても結局空しくて、天皇陛下をはじめとして、朝廷の高位高官は皆残らず新たな首都に移り住まわれてしまった。
そこそこ出世した地位にあるほどの人なら、誰一人としてもはや古都に成り下がった京都に居残りはしなかった。
官位を得ようと望み、御主人様の恩恵に浴すことを期待する程度の身分ある人は、一日でも早く新都へ移ろうと躍起になる一方で、時流に乗りきれず世の主流から外れて前途に期待も持てぬ者たちは、嘆き悲しみながら古い都にとどまっていた。
かつては軒を連ねてその壮麗さを競い合っていた京の都の人々の屋敷も、日を追うごとに荒れ果ててゆく。
家の建材は引っぺがされ、淀川に浮かぶイカダとなって、新都目指して流れて行く。かつては貴族の家屋敷の中で高貴なる住人の目を楽しますために綺麗に整えられていた庭園も、みるみるうちに実用第一の田畑となって、目の前に殺風景に横たわるばかり。
人心もみな、京都が栄華を誇った昔日とはまるで変わってしまった・・・福原目指して行く人々の心は浮ついてはいるが、確たる未来の当てがあるわけでもない。京都に取り残された敗残者には明日への希望も存在の重みもなく、まるで空気のように浮かび漂い日々を重ねるばかりの軽い毎日・・・重いのは、出世の望みを託して新都への引越し荷物を背負わされる馬の背中だけ・・・それまでは粗野な武士の乗り物として軽蔑されていた馬・鞍の値打ちも、暴騰した。
のろのろ歩む牛にひかせた車の奥に優雅に収まって移動するような、ありし日の京都の貴人のような悠長な人はもう誰もいない。
人々はみな当世羽振りの良い平家一門の息の掛かった西海道(=瀬戸内海沿岸)・南海道(=和歌山・兵庫・徳島・香川・愛媛・高知を結ぶ街道沿い)に領地を欲し、旗色の悪い源氏一門の本拠地たる東北地方の荘園を好む者など誰もいない。
 その当時、私は、たまたま現地に行く用事があって、摂津の国(=現在の大阪北西部・神戸南東部)にある新都に出向いたことがある。
その際に場所柄を観察したところ、土地は狭苦しくて、京都のように市街地を区分して条(=東西)里(=南北)の区画を定めるほどの広さもない。
北部は山沿いで標高が高く、南部は海に近い低地である。
波の音が四六時中やかましく響き、潮風は特に強烈である。
帝の住まわれる御所は山中にあるので、遙かな昔、天智天皇がまだ斉明天皇の皇子だった頃に九州の辺鄙な里に結んだ粗末な木造りの宮殿もこんな感じだったのかなぁと感じさせる趣があり、質素な分かえって変わった風情で、しっとりと上品な優美さが感じられる部分もある。
連日京都で打ち壊しては、川幅いっぱいに筏組みして福原へと運搬してきた家々は、一体どのあたりに建てているのだろうか?
今なお空地が多く、造営された家屋敷は少ない。
古い都の京都は既にもう荒れ果て、新しい都の福原はいまだ完成してもいない。
どこにも定まらぬ浮き雲のような不安定さを、生きとし生ける人々の全員が感じている。
昔からこの福原という土地に居た人々は、新都造営のために土地を失って嘆き悲しんでいる。
新たに移り住んで来た人々は、土木工事の負担に溜息をついている。
道端に目を転じれば、本来なら牛車のすだれの奥底にゆったり座っているべき高い地位の人々が、不安定な馬の背中に揺られており、衣冠・布衣を上品に整えているべき人々の多くは、簡略な直垂だけを身につけている。
優雅な京都風の習俗はまたたく間に様変わりして、今やまるで田舎臭い武士の振る舞い同然である。
先ほど私は「世の中が乱世へと向かう前兆だ」と書いた(し、実際それが当時の世間の声でもあった)が、「もっともな話だ、実際、このままでは世は破滅だ」とはっきりわかる感じで、人々の破滅的予感を体現するような出来事が引き続き、日を経るごとに世情不安定となり、人心も収まることなく、かつては無視されていた民衆の嘆きの声もとうとう黙殺できないほどひどい水準に達してしまった・・・そのため、同じ年の冬には、以前同様この京都に都は移し戻されることになった。
けれども、打ち壊して福原くんだりまで移動した家々は、その後どうなったことか・・・どれもみな昔の京都の町並みのように造り直したりはしなかった。
 伝え聞くところによれば、古い時代、賢明なる帝が治められていた御時世には、国政は民衆への憐れみの心を以て執り行なわれていたという。
帝の住まわれる御殿は、茅葺きの屋根を付けることぐらいはしても、軒を綺麗に整えることすらせぬ質素な造りだった。
民家の煙突から立ち上る炊事の煙がまばらなのを帝が御覧になって「あぁ、下々の民は、三度三度の食事を取るにも苦労しているのだなぁ」とお感じになられた時には、わずかばかりの租税義務さえ免除なされた。
これみな、民衆に恩恵を施し世の中を救済せんとする志ゆえのことである。
今の世のありさまは・・・昔日の様子に引き比べてみれば、そのひどさは歴然とするはずである。

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