方丈記005)日照りの果て・人の世も末(養和大饑饉:1181~1182年)

 また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましきことはべりき。は春・夏ひでり、は秋・冬、大風洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみのみありて、秋り、冬収むるぞめきはなし。
 これによりて、国国は地を捨ててで、は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ、さのみやはもつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、を軽くし、を重くす。乞食のほとりに多く、へ悲しむ声耳に満てり。
 前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫病うちそひて、まさざまに、かたなし。世の人みなみ死にければ、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとにひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき世界に満ち満ちて、変りゆくかたち有様、眼もあてられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行きふ道だになし。あやしき・山がつも力尽きて、さへしくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづからが家をこぼちて、て売る。一人が持ちてでたる、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、の中に、赤き着き、など所所に見ゆる木、あひまじはりけるを、ぬれば、すべきなきもの、古寺にいたりて、仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割りくだけるなりけり。濁悪世にしも生れあひて、かかる心憂きわざをなん見はべりし。
 また、いとあはれなる事もはべりき。さりがたき、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。そのは、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも、かれにるによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほを吸ひつつ、せるなどもありけり。
 仁和寺隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず死ぬることを悲しみて、そのの見ゆるごとに、字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らんとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東ののほとりなる、すべて、四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へて言はば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。
 崇徳院御位の時、長承のころとか、かかるしありけりと聞けど、その世の有様は知らず。のあたり、めづらかなりしことなり。

==========

以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 また、養和(1181~1182)の頃だったか・・・もう遠い昔なのではっきりとは覚えていないが・・・こんなことがあった。
二年もの間、世の中全体が飢饉にやられて、それはもう考えられないほどひどい有様になってしまった。
春・夏にはろくに雨が降らずに日照り続きだったかと思うと、秋・冬には台風や洪水などのひどい出来事続きで、農作物はみなことごとく駄目になってしまった。
春先に大地を掘り返しては、夏場に苗を植える営みのみ、空しく行なってはみたものの・・・秋に稲穂を刈り取って、冬に収穫を倉に収める人々の歓喜のざわめき声は、ついぞ聞かれることもなく終わってしまった。
 この飢饉のせいで、諸国の民衆の一部は土地を捨てて領外に逃亡し、俗世の暮らしに見切りをつけて山住みの隠遁生活に入る者もいた。
天災を鎮めるための御祈りも次々と始まり、普段では考えられないような祈祷も数々行なわれたけれども、効き目はまったくなかった。
京都は伝統的に、何事を為すにしてもその源泉はといえば全て京都周辺田園地帯からの収穫頼みの依存型経済圏である・・・それなのに、地方からの物資が何一つ上京してこないのだから、もうこうなると御上品な都人らしい表面的体裁など取り繕っている余裕はない。
我慢に我慢を重ねての窮乏生活の中、あれやこれやの資産を片っ端から投げ売りするようにして物資を求めるのだけれども、都人の宝物に目をくれる人など誰もいない・・・宝物より食物のほうが貴重品なのだ。
ごく稀に物々交換に応じてもらえたとしても、人々は、貴金属の王様の金よりも、粗末な穀物のアワの値打ちの方を重んじる。
道端には大勢の物乞いが居並び、「どうかお恵みを・・・何か食わしてくださいまし・・・」と嘆き求める悲痛な声が、道行く者の耳に鳴り響いて離れない。
 飢饉の一年目はこんな有様・・・これでもう世は終わりかと思ったが、どうにかこうにかその一年は終わった。
翌年は、当然、立ち直れるはず・・・と思っているうちに、伝染病までおまけに加わる始末で、前年に輪をかけた地獄のような惨状の中、京の都はもう昔日の面影もないほどに荒廃してしまった。
世の中の人という人みな疫病に感染して死んでしまい、食べ物を作る人も運ぶ人も病人を治す人も何もない、社会そのものがじわじわと崩壊し、日を経るごとにいよいよ苦しくなってゆく世の有様は、「小水の魚(=わずかばかりの水の中で暮らす魚は、日を経るごとに水も減り、苦しくなるばかりの窮状をどうにもできずに、ただじっと座して死を待つばかり)」という例えが言い当てている姿そのものである。
しまいには、頭上には人目と日差しを除ける笠をきちんとかぶり、足下は脚絆で小綺麗に包んで、見た目も悪くない姿をした、社会的に地位の高いはずの人さえもが、ただひたすら食べ物を求めては家々を物乞いして歩く始末である。
こんなになるまで落ちぶれ果てて呆然たる有様の人々は、ふらふら歩いていたかと思うと、たちまち倒れては地べたに横たわってしまう。
土塀のそばや道端には、飢え死にした生き物の類が、無数に転がっている。
取り去ってどこかに捨てようにもその手段がないので、鼻を突く悪臭が辺り一面に充満し、死骸の腐敗が進むにつれて見るも無惨に変容してゆく有様といったら、直視できぬほどひどい場面も数多くあった。
京都の市中でさえそんな有様なのだから、ましていわんや加茂川の河原などは死骸の山で、馬や牛車が行き来できるような道すらない。
身分卑しき者たちや山中に暮らす者たちも、為す術がなくなり、火をおこす薪にさえ事欠く有様になってしまったので、寄りすがるべき縁故もない人は、自分の家を自分で壊し、市中に出て薪としてこれを売る。
そんなにまでしても、我が家のなれの果てとして持ち出した薪を売り払ったぐらいでは、持ち出した人一人が一日を食いつなぐほどの値段にすらならなかった、という話である。
異常な出来事もあった。薪の中に、丹色が付着し、ところどころに金箔なども見える木が混じっていたので、事情を尋ねたところ、生き残るすべもないほど追い詰められた何者かが、古寺に行き着いて、仏像を盗み、お堂の中の調度品を無理矢理引っぺがしては、割り砕いて薪にしたものだったのである。
濁り切って世も末の人間界に生まれ落ち、神も仏もあったものじゃないこんな沈鬱な所業まで、目の当たりにしてきた私なのである。
 また、それはもう悲しい出来事もあった。
別れ難いほど愛している妻や夫がいる男女は、その愛情が深い者に限って、愛する伴侶を残して先に死ぬのが常であった。
なぜそうなるかといえば、飢え死にしそうな我が身をさておいてまで、相手のことを、可哀想だ、何とかしてやりたいと思うばっかりに、ごくまれに食べ物が手に入っても、愛する相手に譲って自分は食べずにいるから、衰弱して自分の方が先に死んでしまうのである。
だから、親・子とも揃っている場合は、当然のこととして、子を思う気持ちの強い親の方が、愛しい我が子を残して先に死んでしまうのだった。
また、母親の命が尽きたのも知らずに、いたいけな子が、何もなかったかのようにお乳を吸いながら、眠りについてしまっていることもあった・・・そのまま永眠して母のもとに行くのか、目覚めても誰も身寄りのない世界でどうやって生きて行くのか・・・死せる母の胸に臥している一時だけが、その子にとって、最後の至福の瞬間なのかもしれない。
 こんな風にして死んでしまった数限りない人々のことを悲しんで、仁和寺の隆暁法印という人が、死者の顔を見るたびごとに、その額に(梵語の種文字にして大日如来につながる文字でもある)「阿(ア)」の字を書き付けて、死後に安息を得られるよう仏との縁結びをしてやる所業をされたのであった。
いったいどれほどの数の人が亡くなったのか知りたいと思って、四月・五月の二ヶ月の間数えて回ったところ、京の都のうち、一条以南・九条以北・京極以西・朱雀以東の道端に転がっている死体の頭数、全部合わせて、四万二千三百余りもあったという。
その二ヶ月より前や後に死んだ者の数も多く、河原・白川・西京その他諸々の辺鄙な土地まで加えたならば、死者の数はもう数え切れないことは言うまでもない。
東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の畿外七道沿いの国々まで含めた死者の総数など、どうやって数えたらよいものやら、見当も付かない。
 崇徳院の御時世、長承(1132~1135)年間の頃にもやはり、このような悲惨な出来事の前例があったと聞いてはいるが、その当時の世の中の様子を私は知らない。
当時がどれほど悲惨だったかは知らないが、実際この目で目撃した現実のあの様子は、他にそうそう例がないほど異常な有様だったことは確かである。

★自分の「ツィッター」アカウント上で、この『方丈記』の章を紹介してみる→